第4話 竜というのは、鼻が利くそうだな
いよいよ陛下の容態が悪いらしい。
私は陛下との関わりが無いので、正直に言うとどうでもいいのだが……儀式や会議が増え、研究の邪魔をされることを想像すると、今から憂鬱な気分だった。
現在も会議中である。
「では、陛下の快癒祈願のため、竜狩りをすることに賛成の方は、起立をお願いいたします」
進行役の声に立ち上がったのは、半分を少し超える程度、6割ほどの人数だった。
多数派に合わせることが最も無難だと経験上知っているので、私は周りに少し遅れて立ち上がった。
――
会議が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
王宮の中心部から研究室までは、私の足で四半刻ほどかかる。会議そのものに3刻。研究に使えたはずの時間を数えながら廊下を歩いていると、鼻をつく臭いが漂ってきた。
尿が分解されて生じる刺激臭に、卵の腐ったような臭いが混じっている。濃度から判断するに、発生源は2つ先の角を曲がったところにあるトイレだろう。
消臭術式を止めてから、今日で9日目。概ね予測どおりの推移である。
廊下ですれ違う方々は、皆一様に布で口元を覆っていた。眉間には深い皺が寄り、目は細められている。不快を示す表情だと思われる。
そのうちの1人が、私の前で足を止めた。
「ブリリアン卿! これは一体どういうことですか!」
声をかけられたので、私も足を止めて相手を観察した。
中肉中背の男性。濃紺の官服。口元には例のごとく布を巻いている。
「どういうこと、とは?」
「この臭いですよ! それに、どこのトイレにも紙が無い! 水も流れない! 今朝など、私の執務室の隣のトイレから、その……溢れて……」
某は言葉の途中で口をつぐみ、布をさらに強く押し当てた。
「張り紙をご覧になっていませんか? 検証実験に専念するため、糞尿処理科は活動を縮小しております」
「縮小どころか、何もしていないではないですか!」
「消臭術式、備品補充機構、信号回路、水洗術式を停止しております。糞尿処理科は私を含めて4人しかおりませんので、検証実験を優先すると、それらの維持に回す人手が無いのです」
事実を述べたのだが、某の眉はさらに吊り上がった。
今回の件に関して私に不手際は無い。張り紙は全てのトイレに貼ってあるはずだ。
某の顔を無言で見つめていると。
「……っ、もう結構です!」
某は踵を返し、早足に去っていった。
――
それから5日が経った。
研究室の窓から見える王宮は、遠目にも様子が変わっていた。
窓という窓が開け放たれ、中庭には桶を担いだ下男たちが列をなしている。桶の中身は論ずるまでも無いだろう。風向きによっては、王宮の端にあるこの研究室まで臭いが届くほどだった。
「科長、聞きました? 昨日の晩餐会、途中でお開きになったらしいですよ。スープに蠅が飛び込んだんですって」
セラ君が、どこか弾んだ声で言った。
「あの、今朝も、紙を分けてほしいという方が3人いらっしゃいました……」
フェルト君がおずおずと続ける。
「全員追い返したわよ。散々私たちのこと馬鹿にしておいて、困った時だけ頼ってくるなんて、虫が良すぎるでしょ」
「王都の市場からも紙が消えたそうですよ。値段が10倍になってるとか」
ウルフ君が数値を書き写しながら、眠そうな声で付け加えた。
私はといえば、金属塊のガラス窓から目を離さずに頷いた。中では、『落とし物』を用いた3度目の検証実験が進んでいる。
城の状況は、私の予測から大きく外れてはいない。病が出始めるまでには、まだ少し猶予があるはずだ。
その時、扉の無い入口に赤い色が覗いた。
近衛騎士団の赤マントである。体格が一回り小さいので、先日私の胸倉を掴んだ某とは別の方だろう。
「糞尿処理科長、エリアス・フォン・ブリリアン三世殿はおられるか」
「私です」
騎士は布で鼻と口を覆ったまま、入口から一歩も中へ入ろうとしなかった。腕を目一杯に伸ばして、丸めた書状を差し出してくる。
受け取って広げる。
『陛下の快癒祈願の竜狩りにつき、糞尿処理科は遠征隊に同行し、陣中の糞尿の処理にあたること。出立は7日後とする。
遠征隊総指揮
クラウス』
私が読み上げると、最初に声を上げたのはセラ君だった。
「はぁ!? 散々馬鹿にしておいて、今さら!?」
真っ赤な髪が淡く光り、周囲に火花が散り始める。
「セラ君、火花が」
「あ、すみません」
「まあ、城がこの有り様ですからね」
ウルフ君が書状を覗き込みながら言った。
「何百人もの遠征隊が山の中で垂れ流したらどうなるか、さすがに、そのくらいは分かったんでしょう」
「り、竜……竜って、あの、竜ですか……?」
フェルト君の声が裏返っている。両手で小鳥の刺繍のハンカチを握りしめ、小刻みに震えていた。
一方で、ウルフ君の目元は――クマが濃くて判別しづらいが――わずかに見開かれているようだった。
「竜の体は最上級の触媒ですよ。うまくいけば、あの論文の続きができるかもしれない」
竜。最上級の触媒となる魔法生物。
「竜の便は」
気付くと、私は口を開いていた。
「私も、手にしたことのない試料です」
3人が顔を見合わせた。
「返答は」
入口の騎士が、くぐもった声で急かした。
「謹んでお受けいたします」
私が答えると、騎士は小さく肩を跳ねさせ、そそくさと去っていった。
――
出立の朝、王都の北門の前には300人を超える遠征隊が並んでいた。
近衛騎士団の赤マントを先頭に、兵の列と輜重の荷馬車が続く。糞尿処理科の荷馬車は、その最後尾に付けられた。
荷台には、空の樽を20個積んである。陣中の糞尿を溜めておくためのものだ。蓋には密閉の術式を刻んであるので、臭いが漏れることはない。
それとは別に、例の金属塊と、『落とし物』を収めた円筒も積み込んだ。
「……科長。なんで、ソレまで持ってきてるんですか」
荷台の隅に置いた円筒を見て、フェルト君が青ざめた声で言った。
「検証実験の途中ですので。遠征中も記録は続けます」
「そういう問題じゃ……」
フェルト君は胸の前で両手を組み、小さく祈り始めた。
行軍は4日に及んだ。
野営のたびに、私たちは陣の風下に穴を掘り、仮設のトイレを据えた。騎士たちは私たちの姿を見ると鼻をつまんで顔を背けたが、日が暮れると、誰もが仮設のトイレの前に列を作った。
「使うんなら、もうちょっと感謝してほしいんだけど」
セラ君が樽の蓋を閉めながらぼやいた。
「評価されないのはいつものこと、って言ってたのはセラだったと思うけど」
「うるさいわね」
ウルフ君とセラ君のやり取りを聞きながら、私は手帳に数字を書き込んでいった。
1人が1日に出す便と尿の量。300人分。4日分。樽に換算すると、既に18個が埋まっている。
本来であれば便を減らすために、遠征前には栄養調整が行われるはずだが、今回は上手く機能しなかったらしい。
想定よりペースが早いので、そろそろ乾燥術式で量を減らしたいところだが、竜が近いため許可なく魔術を使用しないようにと通達が出ている。
5日目の朝、遠征隊は竜の棲む山の麓に着いた。
〇〇○
竜は、想像していたよりもずっと大きかった。
巣穴から這い出してきたそれは、王宮の尖塔ほどの高さがあった。黒い鱗は陽の光を吸い込むように鈍く光り、金色の眼がこちらを見下ろしている。
「怯むな! 殿下の御前だぞ!」
ライアンは声を張り上げ、剣を抜いた。
柄を握る手に魔力を流し込むと、刀身が金色の光を帯びる。近衛騎士団の中でも、ここまで魔力を練り上げられる者は数えるほどしかいない。
一斉に駆け出した騎士たちの剣が、竜の脚に叩きつけられた。
――硬い。
手に返ってきたのは、岩を打ったような衝撃だった。鱗には傷ひとつ付いていない。
竜が首をもたげた。喉の奥が赤く光る。
「散れッ!!」
誰かが叫んだのと同時に、炎が地面を舐めた。
逃げ遅れた騎士が数人、悲鳴を上げて転がる。赤マントに火が付き、焦げた臭いが鼻をついた。
ライアンは後方へ跳び退り、丘の上で戦況を見ていたクラウスのもとへ駆け戻った。
「殿下、このままでは――」
「分かっておる」
クラウスの顔から、いつもの笑みが消えていた。赤い瞳が、炎の向こうの竜を睨んでいる。
「……一度退く。態勢を立て直す」
「しかし、退くにしても、あの竜が追ってくれば……」
言いかけて、ライアンは口をつぐんだ。
視界の端、隊列の最後尾に、見慣れた荷馬車があった。樽を満載した荷台の傍らで、4つの人影がこちらを見上げている。
ライアンの視線を追ったクラウスが、ゆっくりと口の端を持ち上げた。
「竜というのは、鼻が利くそうだな」
「……はい」
「ならば、あれほど臭うものを、見逃しはすまい」
ライアンは頷いた。胸の奥からこみ上げてくる笑いを堪えるのに、少し苦労した。
――
撤退の命令は、すぐに隊全体へ伝わった。
騎士も兵も、我先にと麓へ駆け下りていく。ライアンは馬首を返し、最後尾の荷馬車へ馬を寄せた。
「糞尿処理科!」
荷台の傍らに立っていた男が、こちらを見上げた。いつもと同じ、何を考えているのか分からない無表情。
うんこ野郎だ。
「殿下のご命令だ。貴様らはここに残り、竜を引きつけろ」
「引きつけろ、とは?」
「その臭い樽ごと、ここで竜の餌になれということだ」
ライアンは鼻で笑った。
「ようやく役に立てるな。光栄に思え」
返事を待たずに、ライアンは馬の腹を蹴った。
背後で、竜の咆哮が山を揺らした。
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