第5話 討ったのは便です
遠ざかっていく馬の足音を聞きながら、私は状況を整理した。
遠征隊は麓へ撤退した。私たちは竜を引きつけるよう命じられた。その竜は今、こちらへ向かってきている。
「なに考えてんのよ、あいつら!!」
セラ君の髪が赤く光り、周囲に火花が散った。
「セラ君、火花が」
「今それどころじゃないでしょ!?」
フェルト君は荷台にしがみついたまま、声も出せずに震えている。ウルフ君は、近付いてくる竜をじっと見つめていた。
「科長。竜の炎は、たぶん僕らの防御術式じゃ防げません。逃げても、追いつかれます」
「そうでしょうね」
「……落ち着いてますね」
「焦っても状況は変わりませんので」
「だったら、その前に私の火で焼いてやるわよ!」
「火を吐く相手を、火で焼いてどうするのさ」
竜が首をもたげた。喉の奥が赤く光る。
「――っ、主よ!」
フェルト君が両手を前に突き出した。
私たちと荷馬車を包むように、淡く光る壁が立ち上がる。
かちり、と。
竜の喉の奥で、石を打ち合わせるような音がした。
視界が、炎で埋め尽くされる。
熱は、届かなかった。
光の壁の向こうで、炎が渦を巻いて流れていく。
「……フェルト?」
セラ君が呆然と呟いた。フェルト君は両手を突き出したまま、額に汗を浮かべている。その首元で、銀色の聖印が強く光っていた。
「だ、大丈夫です……ティアラ様に頂いた聖印があるので……でも、ずっとは、無理です……!」
ティアラ様という名には、どこか聞き覚えがある気もする。だが、今はそれを思い出している場合ではないことくらい、私にも分かった。
炎が途切れた。竜は首を傾げるようにして、光の壁を見下ろしている。
それを観察しながら、私はこの状況にどう対応すべきか考えていた。
竜。最上級の触媒となる魔法生物。
その鱗は剣を弾き、その炎は騎士を退ける。
竜の炎。吐く直前に、喉の奥で石を打ち合わせる音がした。火打石と同じだ。
樽。中身は300人の4日分の便と尿。合わせて18個。
ウルフ君の論文。雷撃術式による多量の魔力が、糞尿の形質を変化させる。
そして――修練場のトイレの爆発。
「なるほど」
「科長?」
「修練場のトイレが爆発した理由が分かりました。おそらく、これと同じ理屈です」
「だから、今それどころじゃないって言ってるでしょ!!」
「いえ、今だからこそです」
私は荷台の樽に手を置いた。
「ウルフ君。論文の式で、糞尿から燃える気体を最も多く取り出すには、雷撃術式をどれだけ注げばいいですか」
ウルフ君は一瞬だけ目を見開き、すぐに樽の数を数え始めた。唇が小さく動き、指が空中で何かを書いている。
「……1樽あたり、80エトスを30秒。18樽なら……セラ1人じゃ、とても」
「触媒を加えます」
私は荷台の隅から、円筒を取り出した。
「『落とし物』です」
「ひぇっ!?」
光の壁を支えたまま、フェルト君が悲鳴を上げた。
「これまでの検証で、『落とし物』は通常の便の数十倍の魔力を溜め込むことが分かっています。触媒として加えれば、必要な出力は大幅に下がるはずです」
「な、なんてことに使うんですか……!」
「私たちが生き残るためです」
フェルト君はしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて、ぎゅっと目を瞑った。
「…………主よ、お許しください……」
私はピンセットで『落とし物』を18等分し、樽の1つ1つに落としていった。
「セラ君。雷撃術式を、樽に」
「――っ、やればいいんでしょ、やれば!!」
セラ君が両手を樽の列へかざした。
真っ赤な髪が燃えるように輝き、そこから青白い雷光が迸る。雷撃が樽の列を走る。蓋は閉じたまま、魔力だけが中へ染み込んでいく。
「80……90……セラ、もう少し!」
「もうっ、うるさい、わよ……っ!!」
メーターも無しに数値を読み上げるウルフ君の声に、セラ君の叫びが重なる。
100エトス。標準的な魔術師の最高瞬間出力。それを超えてもなお、セラ君の雷撃は弱まらなかった。
樽の中で、糞尿が泡立つ音がした。
「――今です、科長!」
「セラ君。今だけは、絶対に火花を出さないでください」
「わ、分かってるわよ……!」
セラ君が両手で髪を押さえつけるのを見てから、私は全ての樽の蓋を開け放った。
目に見えない気体が溢れ出す。
私は両手を広げ、消臭術式を組み上げた。
消臭術式は、臭いの元となる気体を拡散させず、一箇所に留めて分解する術式である。分解の工程を省けば、気体を留めたまま運ぶ術式になる。
溢れ出した気体を、1つの塊にまとめる。それを光の壁の外へ――竜の鼻先へと押し出していく。
竜が鼻を鳴らした。
巨大な顎が開き、気体の塊が喉の奥へと吸い込まれていく。
「科長、火は!?」
セラ君が叫んだ。
「火は、竜が着けてくれます」
竜の喉の奥で、かちり、と石を打ち合わせる音がした。
――瞬間、世界が白く染まった。
轟音。
光の壁が軋み、フェルト君が膝をつく。地面が揺れ、荷馬車が横倒しになった。
しばらくして、耳鳴りの向こうから、ぱらぱらと小石の降る音が聞こえてきた。
光の壁が消える。
煙が晴れていく先に、竜が倒れていた。
頭のあった場所は黒く焼け焦げ、巨体はぴくりとも動かない。辺りには、焼けた便の臭いが立ち込めていた。
「……やった、の?」
セラ君がその場にへたり込んだ。ウルフ君も、フェルト君も、地面に座り込んで肩で息をしている。
私は高鳴る胸を抑えながら、竜の亡骸へと歩み寄った。
尾の付け根の辺りに、黒く艶やかな塊が転がっている。
私は手帳を取り出し、ピンセットを手に取った。
〇〇○
爆音は、麓まで届いた。
山の中腹から黒煙が上がっている。ライアンは馬を止め、その煙を見上げた。
「……殿下。今の音は」
「竜が、奴らの樽に炎でも吐いたのであろう」
クラウスは鼻を鳴らした。
「あれだけの汚物だ。燃えれば派手な音もしよう」
だが、竜の咆哮は、それきり聞こえなくなった。
しばらく山を見上げていたクラウスが、不意に馬首を返した。
「戻るぞ」
「殿下?」
「竜が手負いになったのやもしれぬ。首を取るなら今だ」
――
巣の前に戻ったライアンが見たのは、抉れた地面と、横倒しになった荷馬車と――竜の亡骸だった。
黒い巨体が、ぴくりとも動かずに横たわっている。頭は焼け焦げ、鱗の隙間からは細い煙が立ち上っていた。
そして、その亡骸の傍らに、男が1人立っていた。
男はこちらに背を向けたまま、屈み込んで何かをしている。手元で、ピンセットが光った。
「……うんこ、野郎……」
ライアンの声に、男がゆっくりと振り返った。
いつもと同じ無表情だった。
「ああ、赤マントの方。ちょうどよかった。試料を入れる容器が足りないのですが、何か空いている容れ物はお持ちでないですか」
うんこ野郎の手元には、黒く艶やかな塊が摘まれていた。
ライアンの喉が、ひくりと鳴った。
隣で、クラウスが馬を降りた。竜の亡骸を見上げ、それから男を見下ろす。長い沈黙のあとで、クラウスは静かに言った。
「竜を討ったのは、我ら遠征隊だ。貴公らは、陣の後方で震えていた。……よいな」
ライアンは息を呑んだ。だが、うんこ野郎は少しも表情を変えなかった。
「構いません。私は、試料さえ頂ければ」
そう言って、再び竜の亡骸へと向き直る。
ライアンは、その背中から目を離すことができなかった。
風が吹いて、焼けた便の臭いが、ライアンの制服に染み付いていった。
○○○
竜の亡骸が王都に運び込まれたのは、それから6日後のことだった。
王宮の前庭に横たえられた亡骸を一目見ようと、大勢の貴族や官吏が集まっていた。
……集まって、皆、口元を布で覆っていた。
竜の亡骸からは、焼けた便の臭いがした。6日かけて運ぶ間に少しは薄れるかと思ったのだが、まったく薄れていない。むしろ陽に当たって、増している気さえする。
セラは糞尿処理科の3人と並んで、前庭の隅に立っていた。
前庭の正面には玉座が置かれていたが、陛下の姿は無い。陛下は今も寝所から出られず、玉座には5歳のサイモン殿下が座っている。その傍らに、陛下の名代として宰相閣下が立っていた。
「――以上のように、我が遠征隊は果敢に竜へ挑み、これを討ち取りました。近衛騎士団の働きは、まことに見事なものでした」
玉座の前に跪いたクラウス殿下が、朗々とした声で言った。
殿下の後ろに控えたライアンは、俯いたまま、ぴくりとも動かない。
「ねえ、さいしょう」
玉座の上で、サイモン殿下が鼻をつまんだ。
「このりゅう、うんちのにおいがする」
前庭が、静まり返った。
「そ、それは……竜の、体臭かと……」
「竜の体臭が、厠と同じ臭いだとは知らなんだ」
宰相閣下が言った。低く、張りのある声だった。
どこからか、堪えきれない笑いが漏れた。
殿下の背中が強張るのを見て、セラは口の端が持ち上がるのを抑えきれなかった。
「宰相閣下。発言をお許しいただけますか」
声を上げたのは、セラのよく知る人だった。
第二魔術連隊の連隊長。セラを糞尿処理科へ送り込んだ張本人である。
その隣には錬金局長が、さらにその隣には、グレゴリウス枢機卿と、白銀の長髪の女性――聖女ティアラ様が並んでいた。
「竜を討ったのは、糞尿処理科です。我々は、それぞれの者から報告を受けております」
連隊長がこちらを振り向き、顎で示した。
――ああ、もう。
セラは小さく息を吐き、一歩前へ出た。隣で、ウルフとフェルトも同じように前へ出る。
「第二魔術連隊所属、セシリア・トライブルクです」
「錬金局所属、ウルベルト・カルロスタットです」
「きょ、教皇庁より参りました、フルール・ド・ミュラと申します……」
前庭がどよめいた。
トライブルク伯爵家の令嬢。錬金局の鬼才。次期聖女の候補。その3人が、糞尿処理科で汚物にまみれていたのだ。驚かない方がおかしい。
ウルフが竜の亡骸を指差した。
「竜の頭の傷は、剣によるものではありません。糞尿から生じた燃える気体の爆発によるものです。……それと、修練場のトイレの爆発も、同じ理屈で説明できます」
ウルフは淡々と続けた。
「修練場のボットン式トイレには、10年近く便が溜まり続けていました。そのすぐそばで、近衛騎士団は毎日攻撃術式を撃っていた。多量の魔力を浴び続けた便は、少しずつ形質が変わります」
言葉を止めて、ウルフは懐から小指大のカケラを取り出した。
薄く黄色に色付く宝石だ。
「これが、実験で作ったものです。完璧ではありませんが魔術触媒の性質を備えています」
便から作られたもの、という説明に何人かの貴族は不快そうな表情だが、武官たちは揃って真剣な眼差しを向けていた、
「これが便に触れることにより、わずかな魔力でも燃える気体を出すようになる。そこへ、いつもの訓練の術式が触れて、爆発した。通常であれば糞尿処理科が定期的に手入れするのでこのようなことは起こりませんが、修練場への立ち入りを禁じられていましたから、手の出しようがありません」
前庭に並んだ赤マントたちが、一斉に顔を伏せた。
「ブリリアン」
宰相閣下の声に、科長が顔を上げた。
「そなたが、竜を討ったのか」
科長は、少し考えるような間を置いてから答えた。
「いえ。討ったのは便です」
セラは天を仰いだ。
隣でウルフが噴き出し、フェルトが慌てて口を押さえる。前庭のあちこちから、今度ははっきりと笑い声が上がった。
玉座の上では、サイモン殿下が手を叩いて笑っている。
宰相閣下だけが笑っていなかった。……いや、よく見ると、口の端がわずかに震えている。
「……陛下への直訴状は、全てわしが読んでおる」
「左様でしたか」
「数十通もな。読むたびに厠の話ばかりで、頭が痛くなったわ」
宰相閣下は深いため息をついた。
「陛下より、褒美を取らせよとのお言葉を預かっておる。望みを申せ」
「では、修練場のトイレを新しくする許可を頂きたく存じます」
前庭が、再び静まり返った。
宰相閣下は長いこと科長を見つめていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……よかろう。陛下には、わしから申し上げておく」
その後のことは、あっという間だった。
クラウス殿下は、偽りの報告と、配下を囮に置き去りにした咎で、大公領へ戻されることになった。ライアンを含む近衛騎士団の何人かは、新しいトイレができるまでの間、修練場のトイレの清掃を命じられたらしい。
セラはそれを、姉からの手紙で知った。
○○○
修練場の新しいトイレが完成したのは、それから1月後のことだった。
最新式の水洗術式に妨害術式と消臭術式を組み合わせ、信号回路と備品補充機構も備えている。修練場でどれだけ攻撃術式が飛び交おうと、もう爆発することはない。
王宮のトイレも、全て元に戻した。検証実験が終わったので、維持に人手を回せるようになったからだ。
ウルフ君の論文は準規制図書の指定が解かれ、錬金局から改めて発刊されることになった。研究室の棚には、竜の便を収めた円筒が並んでいる。続きの論文も、そう遠くないうちに書き上がるだろう。
「科長、お茶にしますよ」
ようやく修理された扉を開けて、3人が入ってきた。
胸元の名札には、『セラ・エーデルワイス』『ウルフ・ノーマン』『フェルト・サーレ』とある。
3人とも、元の部署へ戻る道があったはずだ。だが、3人は糞尿処理科に残ると言った。
理由を尋ねると、セラ君は「別に」と言い、ウルフ君は「ここが一番面白いので」と言い、フェルト君は「ティアラ様にも、そう言われましたので」と言った。
名札の名前が変わらなかったのは、私にとって大変ありがたいことである。
――
「おい、うんこ野郎ッ!」
背後から声が聞こえたため、私は足を止めて振り返った。
論ずるまでも無いことだが、私の名前はうんこ野郎ではない。正確にはエリアス・フォン・ブリリアン三世という名前だ。
廊下の中央に、赤マントの男が立っていた。手には、ブラシと桶を提げている。
「……修練場の、新しいトイレの使い方を教えろ」
顔を見ても、私には誰なのか分からない。だが、こういう場合にどうすればいいかは、経験上知っていた。
「はい、喜んで」
○○○
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
評価という行為の意味を、私は正確には理解しておりません。ですが、☆を押していただくと作者が喜ぶことは、経験上知っております。




