第3話 クソがッ!!
フェルト・サーレは偽名である。
本名はフルール・ド・ミュラ。
信仰の厚い両親のもとに産まれた彼女は、幼くして奇跡を起こした。それにより教会に迎え入れられた彼女は、次期聖女候補の1人とされていた。
フェルトとなったのは今から約半年前。巡礼路の整備を司るグレゴリウス枢機卿に教皇庁へ呼び出された時からだ。
王国の組織の1つである糞尿処理科へ潜入することを指示された時は混乱した。
困っている方々へ主のご慈悲をなすことを止めてまで、そのようなことをする意味が理解できなかったし――何より、あの狂人として名高いブリリアン卿がいる組織である。
ブリリアン卿は、頻繁にお腹を壊して教会へ来る貴族の青年として有名であり……ここ数十年は来ていないというが、稀に見る好事家として今代まで語り継がれていた。
枢機卿はフルールを巡礼路の宿に連れていき、そこにあるトイレを手で示した。
何の変哲もない、ただの焼灼式トイレである。
その開発者がブリリアント卿であり、そのトイレを設置してから巡礼宿で発生する病が激減したことを、フェルトは初めて知った。
――
「どうやら、陛下が自身の死期を悟り聖女様を呼んだようですよ。奇跡の限界を悟られないように、お忍びで来られたようですが」
科長は淡々とした口調で言いながら、ピンセットで持っていた便を円筒の中へ戻した。
「な、なななな、なんで……?」
いつも穏やかなフェルトが取り乱しているのを見て、セラとウルフは逆に冷静さを取り戻していた。
さしもの科長もフェルトが普段と違うことに気づき、無言でフェルトの表情の観察を始めている。
室内が静まり返ったことで、フェルトはようやく3人の視線が自分へ集中していることに気が付いた。
いやいやいや!!
フェルトは目立つのが苦手だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「その! ……ソレが、アレっていうのは……本当ですか?」
「ソレがアレ? 質問の意図がよく分かりませんが……ソレとは、この聖女様の」
「ダメです! ダメ! そんな恐れ多い……誰かに聞かれたらどうするおつもりですか!!」
フェルトが大きな声を出すと、再度科長の動きが停止した。
無言でジッとフェルトのことを見つめる科長のわきから、ウルフが円筒を手に取る。
「たしかに、フェルトの言う通りその名を呼ぶのは危ういですよ。とはいえ、ソレとかアレだとさすがに分かりづらいので……そうですね。仮に、『落とし物』と呼ぶことにしませんか?」
「んぷっ……ご、ごめん」
フェルトに睨まれ表情を正したセラは、机上の円筒へと目を向けた。
「ええっと、それで科長。ソレ、どこで手に入れたんですか?」
「ソレで科長? 私が便かつ科長ということですか? たしかに、私の一部は便ではありますが」
「んくっ……ちょ、ちょっと待って! ……あはっ、あはは!!」
――
「お久しぶりですね、フェルト。王国での暮らしはいかがですか?」
王都の一画にある喫茶店で、フェルトは白銀の長髪を持つ、美しい女性と会っていた。
店の内外では屈強な聖騎士が護衛に付いており、フェルトの目からは女性が只者でないのは一目瞭然であった。
一方、周囲からの見え方は異なる。非常に強力な幻惑術式の効果により、ただの女性と、そこらにいる老爺などに見えていることだろう。
「こちらこそ、お久しぶりですティアラ様。当初は辛いこともありましたが、すごく良くしてもらっていて、楽しく過ごせています」
「それは良かったです。フェルトのことを心配していたので、笑顔を見れて安心しました」
綿雪のような、柔らかい笑顔――その背後に、例のアレの幻視を見たフェルトは、ブンブンと首を振った。
「どうされました? 大丈夫ですか?」
「は、はい! 大丈夫です!」
慌てたように笑みを浮かべるフェルトを柔らかな目で見ていたティアラは……ふふっ、と小さく笑った。
「科長と過ごすのは、大変でしょう?」
「え?」
「実は私も……短い間だけでしたけれど、同じ場所にいましたの」
驚きに固まったフェルトをよそに、ティアラは懐かしそうな表情で続けた。
「科長ったら、またトイレを爆発させたみたいね」
「あっ、いえ……それは誤解でして、科長とは関係なく起こった事故みたいです」
「そうなの? 科長らしいなって、笑うのを我慢しながら聞いていたのですけれど」
くすくすと、楽しそうに笑っていたティアラは……紅茶をひと口飲むと一転、柔らかさの奥に硬い芯を伺わせる表情になった。
「さて、フェルトを呼び出したのは、顔を見たかったのが1番だけれど――内密に伝えたいことも、2、3あるの」
ティアラは懐から小さな聖印を取り出し、フェルトの手に握らせた。銀色の、ひやりとした感触がした。
「まずは、これを。何かあった時は、迷わず使ってね」
○○○
ライアンが修練場に入ると、特有の不快な臭いが鼻についた。
「まだ取れないのか」
苛立ちをこめて呟くと、床をブラシで擦っていた新人団員たちはようやくライアンの来訪に気付いたようだった。
「手を止めるなッ!!」
鞘を付けたままの剣で、手近にいた丸刈りの団員を打ち据える。
魔力の込められた殴打は、人間を吹き飛ばすには充分な威力だった。
ほとんど水平に飛んだ新人は奥の壁に叩きつけられ、そのまま失神してしまう。
ライアンは舌打ち1つ残して、踵を返した。
修練場に長居すると服に臭いが付く可能性がある。
オーダーメイドの制服は作成に時間がかかるのだ。例の事件で1着ダメにしているので、これもダメになると着替えが無くなってしまう。
イライラしながら廊下を歩いていると、突如として便意をもよおしてきた。
ライアンが入城してから十余年経つ。当然、城内の地理には精通しており、直近のトイレと最短経路は考えるまでもなく頭に浮かんだ。
便意を我慢していることを悟られぬよう、堂々とした足取りで踏み出した時だった。
「ライアン」
後方を見ると、クラウス殿下と侍従数名がこちらへ歩いてくるところだった。
殿下が大公領へ預けられる前、ライアンは遊び相手として王宮に上がっていた。殿下は戻ってきてからも、こうして気安く声をかけてくる。
跪礼、しなくては。
ライアンは笑顔を崩さないよう注意しながら、ゆっくりと腰を落とした。
「くらうす殿下……いつもお声がけいただき、ありがとうございます」
「ははは、友人に声をかけるのは当然だろう」
ニコリと白い歯を見せたクラウス殿下が、力強くライアンの肩を叩く。
瞬間、尻が鳴った。
沈黙。
時間にして2秒。しかし、そこには確かな空白があった。
――
トイレの個室に入ったライアンは、剣を壁に立て掛け、マントを吊るし、ベルトを解くと、流れるような動作で便器に腰掛けた。
勢いよくぶっ放し、便意は速やかに消失したが、ライアンの顔に喜びはない。
ゆっくりと前傾になり、文字通り両手で頭を抱えた。
その姿勢のまま微動だにせず5分。
ライアンは再びゆっくりと身体を起こした。
ふー、と細く息をはいてから、壁に取り付けられた自動洗浄ボタンを押す。
「ん?」
尻に水の衝撃が来ないことに違和感を覚え、壁へ目を向けると、初めて紙が張ってあることに気が付いた。
『検証実験に専念するため、糞尿処理科は活動を縮小することといたしました。
消臭術式、備品補充機構、信号回路、水洗術式は無期限停止となります。誠に申し訳ありませんが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
糞尿処理科 科長
エリアス・フォン・ブリリアン三世』
目障りな名前を見たせいで、ただでさえ苛立っていたライアンの額に青筋が浮かんだ。
張り紙を勢いよく破り取り、グチャグチャに丸める。個室の端へ投げ捨て、トイレットペーパーを取ろうとした時だった。
触り慣れた柔らかな感触の代わりに、硬質な感触が手のひらに返ってきた。
当惑しながら目を向けると――ない。
反射的に後方へ目を向けると、常に2、3個は置いてあるはずの予備のトイレットペーパーも見当たらない。
便器に腰掛けたまま個室内をキョロキョロと見渡したライアンの額を、一筋の汗が流れた。
ついさっき見た張り紙が脳裏に浮かぶ。
――検証実験に専念するため、糞尿処理科は活動を縮小――
「クソがッ!!」
〇〇○




