第9話 移動手段
王室工務局のテググは、扉を開けるなり紙束を机へ広げた。
「これ、見てください」
挨拶より先だった。
クアイドエンが少し眉を上げる。
「まず座ったらどうです」
「あ。はい。すみません。でも、これ変なんです」
座る前から声に熱がある。
怖いときも、驚いたときも、楽しいときも、そのまま顔に出る人らしい。
ハフソは、そういう分かりやすさを少し羨ましいと思った。
テググが一枚目の記録を指で叩く。
「王都郊外の積み替え場を、午後十一時四十分に出ています」
次の紙。
「東側の門へ着いたのが午前零時」
「二十分」
マーカスがすぐ計算する。
「この距離なら、通常は?」
「二時間です」
「休憩なしでも?」
ハフソが聞く。
「無理です」
テググは地図の坂道へ指を置く。
「この荷馬車なら、ここで必ず速度が落ちます。外門の検査もある」
マーカスがすぐ数字を書く。
「全部省いても一時間半以上」
「そうです。二時間というのも平均です。今回の積荷なら、むしろ二時間十分前後」
「なのに二十分」
「はい」
テググは自分で言って顔をしかめた。
「馬を十倍速く走らせたなら、たぶん馬が先に死にます」
アニサが静かに言う。
「それは移動手段として失敗ですね」
「ですよね」
真面目な返事。
そのあと、テググが吹き出した。
緊張の中でも。
こういう人がいると空気が少しだけ軽くなる。
笑いを収め、テググが続ける。
「荷馬車ですから、もっとかかる日もあります」
積荷は布と薬草。
急送品ではない。
馬も普通の二頭立て。
「時計の間違いは」
ハフソが聞く。
「出発と到着で記録員が違います」
「同じ時計では?」
「別です。しかも前後の記録は、どちらもおかしくない」
テググは二つの記録を左右へ置く。
十一時三十五分に別の荷車。
十一時四十分に黒い馬車。
到着側も。
十一時五十七分に徒歩の商人。
午前零時に黒い馬車。
「この一台だけです」
マーカスが地図を引き寄せる。
「最短経路でも二十分は無理です」
「でしょう?」
テググは勢いよく頷いた。
「だから最初は記録の取り違えだと思ったんです。でも馬車番号も積荷番号も合ってる」
「速く走った?」
ハフソが言う。
「たぶん違います」
テググは地図へ太い指を置いた。
「馬車を速くしたんじゃない」
線をなぞる。
「途中を通ってない」
ハフソは、消えた道で見た銀色の像を思い出す。
「移動している途中で、通るはずだった時間だけが抜けたなら」
マーカスが続ける。
「二時間分の距離を、二十分の記録で通過できる」
「そうです」
テググは頷く。
「馬車は速くなってない。世界の側から、途中が短くなった」
言った本人の表情が曇る。
「……これ、道路設計の話じゃないですね」
「でも」
ハフソ。
「道路を知っている人だから、ここまで分かった」
テググが少し驚く。
「役に立ちました?」
その問い。
昔の自分を思い出す。
「はい」
答えてから。
付け足す。
「でも、役に立ったからここにいていい、という意味ではありません」
「え」
「私が今、覚えておきたいことです」
テググは少し考え。
「じゃあ、俺も覚えておきます」
素直だった。
「通っていない?」
「走った距離を短くしたんじゃない。途中の時間を飛ばした」
言い切ってから。
本人が一番ぞっとしたらしい。
「いや、言ってて怖いですね、これ」
でも次の瞬間には。
「でも面白い」
「テググさん」
「すみません。不謹慎なのは分かってます。ただ、仕組みが分かるかもしれないと思うと」
喜怒哀楽が全部、そのまま出る。
ハフソは小さく笑った。
「いいと思います」
「え?」
「怖いのに、調べたいと思えるのは」
自分にも。
少し似ている。
テググは照れたように鼻をこすった。
*
記録を重ねる。
マーカスの第五候補地点。
黒い馬車の推定経路。
旧道の記録。
「ここです」
テググが指を止めた。
「閉鎖された古い馬車道」
「今は使われていない?」
「十年以上前から主要経路ではありません。ただ工務局の管理図には残っています」
王都の外壁近く。
石造りの短いトンネルを通る道。
現在の道路から外れているため、一般の荷車が使う理由はない。
「それなのに」
マーカスが線を引く。
「この旧道を通ったと仮定すると、第五候補点とほぼ重なる」
「はい」
テググが嬉しそうに頷いたあと。
クアイドエンを見る。
「しかも時刻が」
午後十一時四十分から午前零時。
ハフソの胸が冷える。
クアイドエンが失った三時間の中。
刺繍布。
甘い匂い。
赤い箱。
そして。
時間を飛ばしたらしい馬車。
*
テーブルの中央へ。
時計を五つ置く。
工務局。
測量局。
警備隊。
クアイドエンの懐中時計。
宿の時計。
「全部、少しずつずれてますね」
テググ。
「明日は同じ鐘で合わせます」
マーカス。
「観測前に?」
「はい。ずれた時計で時間の異常を測ると、原因が分からなくなる」
当然のこと。
でも。
ハフソには。
少し面白い。
時間そのものがおかしい事件で。
まず時計を正しくする。
「銀針も、基準が必要でしょうか」
自分で聞く。
「比較できるものは?」
マーカス。
「今のところありません」
「では」
彼。
「見えたことを、そのまま記録してください」
何秒。
何歩。
何色。
数字へできないものまで。
無理に数字へしない。
「私の感覚を、そのまま?」
「はい」
「曖昧でも」
「曖昧だと書けば、正確です」
ハフソは。
その言葉を。
手帳へ書く。
『分からないことを、分からないと記録する』
調査で。
少しずつ覚えたこと。
自分の人生でも。
必要なことかもしれない。
「明日」
「危険なら?」
クアイドエンが聞く。
「観測員を入口と出口へ置きます。時計も全部合わせる。中へ入る人数は最小限」
テググ。
「ハフソさんは銀針が必要だから、入るなら中央寄り」
「入ります」
ハフソは自分で決める。
「ただし、途中でおかしいと思ったら止めます」
クアイドエンが頷く。
「それでいい」
選択を返してもらうこと。
その選択を口にすること。
少しずつ。
日常になっていく。
テググが言う。
「この旧道を見ましょう」
いつの間にか。
怖さより、構想を組み立てる顔になっている。
「移動手段そのものが、時間を飛ばしてる可能性があります」
クアイドエンが頷いた。
「危険なら戻る」
「もちろん」
全員へ言う。
「誰か一人が無理だと言ったら、その時点で戻ります」
ハフソはその言葉を聞き。
自分も含まれていると。
ちゃんと分かった。
*
宿へ戻る前。
五人は旧馬車道の入口まで実際に歩いた。
まだ中へは入らない。
入口の石柱。
閉鎖札。
錆びた鎖。
草へ半分埋もれた車輪止め。
テググは。
管理図と現物を何度も見比べる。
「閉鎖後に、正式な通行記録はありません」
「正式ではない記録は?」
クアイドエン。
「工務局側にはないです」
言って。
テググの顔が曇る。
「だから、もし使われていたなら」
「記録の外で」
マーカス。
「はい」
ハフソは。
鎖へ触れないまま。
目を凝らす。
感情の残滓は。
薄い。
昔ここを閉めた人の。
安堵。
疲れ。
それだけ。
「最近、誰かがここを開けた感じは?」
アニサ。
「布や紙がないので、私は読めません」
ハフソ。
「でも」
地面。
草。
普通の痕跡は。
テググが見る。
「踏まれています」
「最近?」
「雨のあとです」
魔法。
数字。
道路。
別々の目が。
一つの場所を見る。
ハフソは。
そのことを。
少し心強いと思った。
「明日」
クアイドエン。
「誰か一人でも無理だと言ったら戻る」
「はい」
テググ。
マーカス。
アニサ。
ハフソも。
「はい」
今度は。
自分も。
その「誰か一人」に入っていると。
迷わず思えた。




