第8話 かわいいもの、そこにある毒
第五地点へ向かう準備をしていると。
アニサが。
「少し待ってください」
鳥と花の刺繍布へ手を伸ばした。
正確には。
直接触れず。
白い布を指へ巻く。
「どうしました」
「匂いが」
ハフソも顔を近づけかける。
「お嬢様はそのままで」
止められる。
アニサは布の端から、表面に浮いた細い糸くずだけを慎重に取った。
切らない。
証拠を壊さない。
小皿へ置く。
水。
無臭の油。
薄い試験紙。
宿の机とは思えないほど、手順が落ち着いている。
「アニサ」
「はい」
「そういうことも分かるのですね」
「侍女は、香水と薬と染料を見分けられた方が便利です」
「便利」
「それに」
少し間。
「お嬢様は、知らないものでも手で触ろうとなさいますから」
反論できない。
「ですので、覚えました」
「いつから?」
「お嬢様が十歳の頃から少しずつ」
「そんな前?」
「庭の赤い実を口に入れようとなさったので」
「……覚えていません」
「私は覚えております」
アニサ。
「止めました」
「ありがとう」
「その翌月は青い花を触ろうと」
「もう十分です」
恥ずかしい。
でも。
アニサが知識を身につけた理由に、自分との長い時間がある。
従うだけの侍女。
そんな見方をしていたのは。
ハフソの方だったのかもしれない。
誰かを守るために。
アニサも自分なりに力を増やしていた。
「薬です」
「薬?」
「眠り薬」
部屋の空気が止まった。
マーカスが眼鏡を直す。
「布に?」
「刺繍糸へ染み込ませています」
「触ったら眠る?」
ハフソが聞く。
「この残量だけなら、そこまでは」
アニサは落ち着いて答える。
「薬と毒は、量と使い方で変わります。これは眠りを深くする処方です」
「毒ではない?」
「治療で使うこともあります。痛みが強いとき、眠れないとき」
「同じものが」
「助けることも、傷つけることもあります。誰が、何のために、どれだけ使うかです」
ハフソは鳥と花を見る。
かわいいから安全とは限らない。
毒に使われた薬が、悪いものだけとも限らない。
使い方。
選択。
「長く吸えば?」
「量が多ければ、短時間でも深く眠る可能性があります」
クアイドエンの顔が変わる。
「匂い」
「覚えがありますか」
「記憶はない。ただ」
目を閉じる。
「甘い匂いだけ」
アニサが別の白布へ、残り香だけを移す。
「原物は嗅がないでください」
「分かりました」
クアイドエンが一度だけ。
香りを確かめる。
その瞬間。
彼の指が机の端を強くつかんだ。
「クアイドエン様?」
目を閉じたまま、呼吸を一度。
「暗い」
「何が見えますか」
「見えない。ただ、甘い匂いのあとで音が遠くなった」
「どんな音ですか」
「石畳。馬車。人の声」
中央広場か。
別の場所か。
まだ断定できない。
「そのあと」
首を振る。
「ない」
三時間。
匂いのところで切れている。
すぐ。
目を開いた。
「これだ」
「同じ処方と断定できますか」
マーカス。
「完全には」
アニサ。
「ただ、残っている香りと反応は一致します」
「似た薬は?」
「あります」
「なら、今は『同じ可能性が高い』」
ハフソ。
「はい」
断定しない。
分からないところは、分からないまま残す。
それでも。
クアイドエンの身体が覚えている匂いと、箱の布。
距離は確実に近づいた。
ハフソの背筋が冷える。
「昨晩?」
「ああ」
「どこで?」
「そこが戻らない」
匂いだけ。
場所も。
相手も。
何もない。
それでも。
鳥と花の布と。
クアイドエンの失った三時間が。
直接つながった。
「かわいい」
ハフソは刺繍を見る。
「かわいい図柄です」
「はい」
青い鳥。
小さな花。
触れてみたいと思わせる。
親しみやすい。
危険に見えない。
「かわいいものの中に、毒を隠したのね」
誰が。
何のために。
でも。
布そのものが。
手掛かりになっている。
裏には。
『昨晩を探してくれ』
表には。
眠り薬。
まるで。
作った人が。
こちらへ順番に答えを渡しているような。
「赤い箱は」
マーカスが言う。
「誰かに見つけさせるために置かれた?」
「可能性は高い」
クアイドエンが答える。
「なら、なぜ直接言わない」
「言えない人?」
ハフソが言う。
「あるいは」
アニサ。
「言わないと決めた人」
どちらもあり得る。
ハフソは布へ残る感情を見る。
焦り。
迷い。
見つけてほしい。
悪意だけではない。
そこが。
余計に怖い。
「アニサ」
「はい」
「これを使った人は、悪い人だと思いますか」
アニサは、すぐ答えない。
「眠らせた相手がいるなら、その行為の責任はあります」
「はい」
「でも、この布へ『見つけてほしい』という感情が残っているなら、一つの行為だけでその人全部は決められません」
「でも責任は消えない」
ハフソ。
「はい」
「事情があっても?」
「はい」
アニサ。
「事情は、理解するために必要です。免除するためだけではありません」
その言葉。
後になって。
グルアシエルアへ向き合うとき。
ハフソは何度も思い出すことになる。
かわいいものの中に毒がある。
毒を使った人の中に、別の思いもある。
だからこそ。
見た目だけでも。
一つの行為だけでも。
全部を決めない。
でも。
したことは、したこととして残す。
ハフソは少し驚く。
「公正ですね」
「そうありたいと思っております」
従順。
それは、何も考えず従うことではない。
ハフソは今まで、アニサの内側をどれほど見ていただろう。
「ありがとう」
「何がでしょう」
「いろいろ」
アニサが少しだけ微笑む。
*
「アニサ」
薬の小皿を片づけながら。
ハフソが呼ぶ。
「第五地点へも、一緒に来ますか」
今までなら。
侍女だから当然ついてくる。
そう考えていた。
今日は。
聞く。
「行きます」
「侍女だから?」
「違います」
答え。
早い。
「この薬が、また使われる可能性があります。私の知識が役立つと思います」
それから。
「私自身が、知りたいです」
「何を」
「誰が、お嬢様をこの調査へ導いたのか」
落ち着いた声。
でも。
その奥。
怒り。
心配。
好奇心。
アニサにも。
たくさんある。
「従うだけではないんですね」
「今さらですか」
「……ごめんなさい」
「謝罪は受け取ります。でも、これから聞いてください」
「何を」
「私がどうしたいか」
ハフソは。
自分だけではなく。
相手にも。
選択がある。
その当たり前を。
また一つ覚える。
「アニサ。一緒に来てください」
「はい」
彼女は。
静かに微笑んだ。
調査が長引き。
昼を過ぎる。
クアイドエンがハフソを見る。
「食事は」
「大丈夫です」
言って。
全員が。
一斉にこちらを見る。
「……何ですか」
「約束」
クアイドエン。
「大丈夫を減らす」
「これは本当に」
「朝から何を食べました?」
答えに詰まる。
マーカスが小さく手を挙げた。
「必要なら、私が食事時間も記録します」
「測量官の仕事ではありません」
「でも数値化できます」
「しなくていいです」
思わず。
笑ってしまう。
アニサが小さな包みを出した。
「準備しております」
「……ありがとう」
ちゃんと受け取る。
「大丈夫ですか」
クアイドエンが聞く。
今度は。
少し考える。
「……たぶん」
「それなら昨日より正確ですね」
また。
少し笑われた。
そのとき。
扉が叩かれた。
警備隊の伝令。
「王室工務局から、昨夜の道路・馬車記録について暫定回答です」
紙束が渡される。
「妙な記録が一件あると」
マーカスがすぐ目を通す。
数字。
出発時刻。
到着時刻。
距離。
彼の顔から。
さっきまでの笑いが消える。
「これ……合いませんよ」
「何が?」
「この距離なら」
紙を指す。
「普通は、もっとかかります」
「どのくらい」
ハフソ。
「この積荷と道路なら、二時間前後です」
「記録は?」
「二十分」
部屋の空気が、また変わる。
「十倍」
クアイドエン。
「馬では無理です」
マーカス。
ハフソは地図の第五点を見る。
道。
時間。
馬車。
三時間。
別々に見えていたものが。
同じ謎へ近づいている。
その感覚に。
怖さと同時に、少しだけ興奮もあった。
自分が役に立つからではない。
謎を知りたい。
その気持ちを。
もう否定しなかった。
第五地点へ向かう前に。
昨晩の「移動手段」が。
新しい手掛かりとして浮かび上がった。




