第7話 地図を読む男
翌日。
王室測量局から来た男は、扉へ肩をぶつけた。
「す、すみません」
紙束。
定規。
測量器具。
地図筒。
全部を一度に持とうとしている。
ハフソは反射的に立った。
「お持ちします」
「いえ、大丈夫です」
互いに同じ言葉を言って。
少し。
止まる。
クアイドエンが横で笑いをこらえた。
「マーカス。まず荷物を置いてください」
「はい」
王室測量局のマーカス。
二十代後半。
人と話すときは自信がなさそうなのに。
地図を広げると。
目つきが変わった。
「縮尺は、こちらの工務局図が二千分の一。赤い箱の地図は破損があるので正確には出せませんが、おそらく近いです」
言葉が急に速くなる。
「道路幅も取ります。あ、先に高低差。雨の流出まで考えるなら――」
「マーカス」
クアイドエン。
「はい」
「順番に」
「あ」
止まる。
「すみません」
「謝らなくていいです」
ハフソが言う。
「分かることが増えると、早くなるんですね」
「……はい」
マーカスは少し恥ずかしそうに笑った。
「数字は、話を途中で変えないので」
「裏切らない?」
ハフソ。
「……そう言うと大げさですが」
マーカスは苦笑する。
「五なら五です。誰が見ても」
「でも、使う人は間違える」
「はい」
「数字が正しくても?」
「はい」
少し意外そうに、マーカスがこちらを見る。
「私も、それを忘れます」
「数字を信じることと、自分の計算を絶対だと思うことは違う?」
マーカスは、しばらく黙る。
「……そうですね」
数字を大切にする人だからこそ。
その言葉を自分の中へ置く時間が必要なのだろう。
「人は?」
「変えます」
「そうですね」
数字なら、正解と不正解がはっきりする。
だから安心できる人なのかもしれない。
「欠落地点は現在四つ」
北の旧道。
別の小路。
水路沿い。
郊外の作業道。
「すべて昨日まで存在記録があります」
定規を当てる。
角度。
距離。
高低差。
紙へ数字が並ぶ。
「雨の記録も同じですね」
ハフソが言う。
「はい。境目から先だけ、降雨の痕跡がありません」
「なら」
「場所だけではなく、その間に起きた時間変化も欠落しています」
ハフソはマーカスを見る。
自分の考えを。
数字で言い直してくれる。
心強い。
彼はさらに計る。
一か所。
二か所。
三か所。
四か所。
しばらくして。
手が止まる。
「……ほぼ同じです」
「何が?」
クアイドエン。
「距離です。四地点の間隔」
地図へ点を打つ。
「完全ではありません。でも誤差を地形補正すると」
線。
「規則性がある」
テーブルの上。
四つの点が。
等間隔に近い。
マーカスは別の定規へ持ち替えた。
「地形の直線距離だけでは少しずれます」
「では違う?」
「いいえ」
道路の実移動距離を重ねる。
「人や馬車が実際に通る距離で補正すると、もっと近くなります」
「自然現象なら、こんなふうには並ばない?」
ハフソが聞く。
「少なくとも、偶然でこの規則性が出る可能性はかなり下がります」
意図。
誰かが場所を選んだ。
「誰かが選んだ?」
ハフソが聞く。
「かもしれません」
マーカスはすぐ言い直す。
「いえ、偶然かもしれません。まだ四点ですし。私の補正が」
「私は、あなたの計算を信じます」
言ってから。
ハフソは自分でも少し驚く。
誰かへ。
信じます。
と、こんなに簡単に言ったことがあっただろうか。
以前は。
信じる。
ではなく。
従う。
相手が正しいと決めて、自分の判断を止める。
今は違う。
「信じます。でも、確かめます」
言い直す。
マーカスがほんの少し笑う。
「それが一番ありがたいです」
「どうして」
「間違っても、見つけてもらえるから」
信頼は、間違わないことではない。
間違えたときに。
一緒に直せること。
それも新しい考えだった。
ハフソは地図を見る。
「最初から信じなければ、確かめることもできません」
言いながら。
少し。
自分に言っているような気がした。
針仕事しかできない。
そう言われて。
自分で自分を信じることまでやめていた。
マーカスは視線を落とす。
「測量局では」
少し笑う。
「正しくて当然なんです」
「はい」
「間違えると気づかれる。でも、合っていても特に」
言葉を止める。
「だから、計算が合っていても、自分の判断が合っているかは」
「怖い?」
ハフソが聞く。
マーカスは苦笑した。
「はい」
似ている。
役に立つ部分だけを評価され。
その外側の自分に。
自信がない。
「なら」
ハフソは地図へ指を置く。
「数字はマーカスさん」
「でも」
「私には、この計算はできません」
「それは」
「本当です」
ハフソは、逃げずに頼む。
「だから、お願いします」
それだけで。
マーカスの表情が少し変わる。
役に立て、と命じるのではない。
持っているものを貸してほしいと頼む。
「……はい」
今度の声は少し強い。
「計算は、私がやります」
次に。
自分。
「糸は私」
クアイドエン。
「現場条件と、昨晩の記憶はクアイドエン様」
「俺だけ曖昧ですね」
「失った記憶も情報です」
「なるほど」
ハフソは三人を見る。
「一人で全部分からなくても、三人なら少し増えます」
言ったあと。
クアイドエンが笑った。
「いい言葉ですね」
「今、思いました」
「それでいい」
*
マーカスは地図の破れ方まで測り始めた。
「この欠け」
赤い箱の地図。
破れた端。
マーカスは破断面を紙へ写した。
「単なる破損ではないかもしれません」
「破り方で分かるんですか」
「全部は。ただ、引っ張って破いたなら繊維の向きがもっと乱れます」
「これは?」
「折り目に沿って、かなり狙って切っています」
ハフソは地図を見直す。
赤い箱。
昨晩。
銀針。
偶然まとめられたのではない。
誰かが、見せる情報と隠す情報を選んでいる。
「全部は教えたくない。でも、何かは見つけてほしいんですね」
「その可能性は高い」
クアイドエン。
敵か。
味方か。
まだ分からない。
曖昧さが、謎を深くする。
既存四地点。
間隔。
角度。
破れの中心。
「ここ」
第五の点。
「次に何か起きるなら、この周辺です」
「人は?」
クアイドエン。
「住民は多いですか」
「小さな倉庫街があります」
マーカス。
「避難させる?」
ハフソ。
「原因不明で大規模避難は、混乱を招きます」
クアイドエン。
「警備を増やす。理由は道路調査で通せる」
「工務局にも?」
「はい」
数字から、次の行動へ。
予測は当てるためだけではない。
誰かが危険へ入る前に。
備えるため。
ハフソは地図の第五点を見つめる。
*
出発の前。
マーカスは。
第五地点の予測を。
もう一度。
最初から計算し直した。
「さっきと同じ答えです」
それでも。
紙を替える。
「自信がないから?」
「それもあります」
「でも、自信があるときの方が危ないので」
「どうして」
「前提を疑わなくなるからです」
赤い箱の地図。
工務局図。
四地点。
一つずつ。
「この地図が意図的に破られたという前提も、まだ確定ではありません」
「でも可能性は高い」
「はい」
「なら、高い可能性として使って、違ったら直す?」
マーカスの手が止まる。
「……そうです」
「計算も、途中なんですね」
マーカス。
「完成してからしか使えないと思っていました」
ハフソ。
「私は逆です。完成していないのに、完成したように振る舞っていました」
大丈夫。
できます。
二人。
違うところで。
途中を怖がっていた。
「では、今日も途中まで確かめましょう」
「はい」
マーカスが。
少し笑う。
地図を巻く手つきは。
最初に扉へ肩をぶつけたときより。
少し落ち着いていた。
ハフソの胸元。
銀針が。
かすかに。
同じ方向へ傾いた。
三人が顔を見合わせる。
「偶然ですか」
ハフソが聞く。
マーカスは。
今度はすぐ否定しなかった。
「確かめたいです」
「私も」
ハフソは立ち上がる。
「確かめに行きましょう」
また。
自分から言えた。




