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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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第6話 サンドイッチ

 宿へ戻ると、ハフソはすぐ机へ向かった。


 消えた道。


 雨。


 地図。


 銀針。


 何度書き並べても。


 「時間そのものが切られた」


 という結論から離れられない。


 怖い。


 でも。


 分からないままにしておく方が、もっと怖かった。


 気づけば。


 窓の外が橙色になっている。


 紙の端へ影が伸びる。


 ハフソは新しい線を書き込む。


 「ここが境目で」


 「その前に」


 声。


 目の前へ。


 包みが置かれた。


 「食べてください」


 顔を上げる。


 「クアイドエン様」


 いつからいたのか。


 「何ですか、これ」


 「見れば分かるでしょう」


 包みを開く。


 パン。


 肉。

 葉野菜。

 薄く切った卵。


 サンドイッチ。


 「昼食?」


 「夕食になりかけています」


 「え」


 窓を見る。


 もう。


 夕方。


 「私、食べましたよね」


 「食べていません」


 「朝は」


 「昼から今までの話です」


 「……そうでしたか」


 自分でも驚く。


 クアイドエンが向かいの椅子へ座った。


 「食べない人間に働かせる趣味はない」


 「私、働かされているわけでは」


 「なら、なおさらです」


 「?」


 「自分でやると決めた人間が、自分で倒れるまで食べない理由はないでしょう」


 正しい。


 あまりにも。


 「すみません」


 「また謝る」


 「……癖です」


 「知っています」


 知っている。


 たった数日なのに。


 なぜか。


 その言葉が。


 少しだけ嬉しい。


 サンドイッチを持つ。


 一口。


 おいしい。


 「厨房で?」


 「借りました」


 「クアイドエン様が作ったのですか」


 「切って挟んだだけです」


 「辺境伯様が?」


 「辺境では、移動中に自分で食べるものを作るくらいします」


 「卵も?」


 「卵は厨房の方が焼いてくれました」


 「では合作ですね」


 「そうなります」


 「誰と誰の」


 「俺と厨房です」


 「辺境では、どんなものを食べるんですか」


 「冬は煮込みが多いです」


 「寒いから?」


 「それも。あとは鍋を一つにできる」


 「合理的」


 「マーカスみたいな感想ですね」


 「まだ会っていません」


 「そうでした」


 また。

 どうでもいい話。


 北辺の冬。

 鍋。

 食事。


 クアイドエンという人の生活が。

 爵位の向こう側へ少し見える。


 「北は寒いですか」


 「かなり」


 「私は寒いのが苦手です」


 「なら、来るなら春がいい」


 来るなら。


 その言葉に。

 心臓が少し跳ねる。


 ただの領地の話。

 それだけ。


 それでも。

 自分が彼の未来の場所へ入った想像が、一瞬だけ浮かんだ。


 妙に真面目に答える。


 ハフソはサンドイッチを見る。


 婚約者だった男と。

 こんな何でもない話をした記憶が、ほとんどない。


 会えば家のこと。

 予定のこと。

 社交のこと。


 必要で正しい話ばかり。


 今は。

 卵を誰が焼いたか。

 それだけ。


 それが、とても楽だった。


 「それでも」


 貴族の男が。


 自分のために。


 成果への褒美でもなく。


 義務でもなく。


 ただ。


 食べていないから。


 作った。


 以前。

 何かをもらうと、すぐ返さなければと思った。


 贈り物なら贈り物。

 親切なら、それ以上の親切。


 受け取ったままでは、借りを作るようで落ち着かなかった。


 でも、このサンドイッチへ。

 同じ価値の何かを返さなければならないのだろうか。


 たぶん違う。


 「ありがとうございます」


 それだけ言う。


 「どういたしまして」


 それだけ返ってくる。


 胸の奥が。


 じわりと温かくなる。


 「どうしました」


 「いいえ」


 食べる。


 思っていた以上に空腹だった。


 半分がすぐなくなる。


 「大丈夫ですか」


 「はい、大丈夫です」


 言った瞬間。


 クアイドエンが眉を上げる。


 「その言葉」


 「え」


 「俺の前では少し減らしませんか」


 「大丈夫です、を?」


 「はい」


 「どうして」


 「大丈夫ではないときにも言うからです」


 返せない。


 今日の朝。


 馬上でも。


 昨日の警備隊でも。


 婚約解消のあとも。


 アニサへも。


 「難しいです」


 「では練習しましょう」


 「練習?」


 「今、寒くないですか」


 夕方の風が。


 開けた窓から入っている。


 少し。


 寒い。


 「大丈夫です」


 言いかける。


 「……少しだけ」


 「よくできました」


 「子ども扱いしていませんか」


 「していません」


 「では、クアイドエン様は」


 「はい」


 「大丈夫ではないとき、ちゃんと言えるんですか」


 今度は彼が止まった。


 「……努力します」


 「間がありました」


 「ありましたね」


 「人のことを言えないのでは」


 「今後の課題にします」


 ハフソは少し考え。


 「では、お互いに」


 「何を」


 「大丈夫ではないときは、言う」


 「どちらかが忘れたら?」


 「もう一人が指摘する」


 「今みたいに?」


 「はい」


 「嫌になりませんか。何度も言うの」


 クアイドエン。


 「必要なら」


 その言葉。

 必要。


 少しだけ胸が固くなる。


 彼は気づいたらしい。


 「今の『必要』は、あなたの価値の話ではありません」


 「……はい」


 「約束を守るために、指摘が必要という意味です」


 説明してくれる。


 ハフソは。

 自分が言葉に敏感になっていることを恥ずかしいと思いかけ、やめた。


 「分かりました」


 確認して。

 分かる。


 それでいい。


 クアイドエンも少し考えた。


 「約束します」


 相手へ合わせるためではなく。

 互いに守るための約束。


 それが、少し新鮮だった。


 サンドイッチを食べ終える。


 包みの中。


 もう一つ。


 手を伸ばしかけて。


 止める。


 もらっていいのか。


 迷う。


 いつもの自分なら。


 遠慮する。


 相手の分かもしれない。


 欲しいと言えば、厚かましいかもしれない。


 でも。


 「……もう一つ、いただいてもいいですか」


 クアイドエンが目を細めた。


 「もちろん」


 何でもない言葉。


 でも。


 ハフソには。


 何かひとつ。


 大きなことができたように感じた。


     *


 食事のあと。


 机の地図へ戻る。


 クアイドエンも隣から見る。


 「一か所だけでは判断できません」


 ハフソが言う。


 「時間欠落が他にもあるか調べる?」


 「はい。位置を正確に重ねたいです」


 「測量の専門家が必要ですね」


 「王室に?」


 「測量局に、数字に強い男がいます」


 「知り合いですか」


 「報告書で何度か」


 クアイドエンは地図へ指を置く。


 「明日、呼びましょう」


 「はい」


 ハフソは地図の余白へ、今日分かったことを書く。


 『道は昨晩まで存在』

 『雨の痕跡も境界で欠落』

 『銀針で一時的に復元』

 『時間そのものが切断された可能性』


 書き終えて。

 最後に一行。


 『一人では判断しない』


 文字を囲む。


 二重線。


 「そんなに大事ですか」


 クアイドエン。


 「たぶん、私には」


 「どうして」


 「一人なら、うまくいかなかったとき、自分が足りないと思います」


 「複数人なら?」


 「原因を分けて考えられる」


 道具。

 条件。

 時間。

 方法。


 「自分だけが悪い、で終わらない」


 クアイドエン。


 「それは良い注意書きです」


 「はい」


 ハフソは、もう一度二重線をなぞった。


 「それは?」


 クアイドエンが聞く。


 「注意書きです」


 「誰への」


 「私へ」


 彼が笑う。


 「いいと思います」


 少しだけ。


 調査が。


 一人のものではなくなっている。


 そのことが。


 不思議と嫌ではなかった。

     *


 翌日の準備を終える前。


 クアイドエンが。

 空になった包みを畳む。


 「明日は、何時に始めますか」


 「朝一番にマーカス様へ連絡して、そのあと地図を広げます」


 「朝食は」


 止まる。


 「……食べます」


 「よろしい」


 「確認しなくても」


 「確認します」


 少し。

 むっとする。


 「では、クアイドエン様も」


 「何を」


 「朝食」


 「食べます」


 「本当に?」


 「疑われた」


 「信じます。でも、確かめます」


 クアイドエンが笑った。


 「それなら、俺も同じです」


 「何を確かめるんですか」


 「あなたが自分の希望を言うか」


 サンドイッチ。

 もう一つ欲しい。


 そう言えたことを。

 この人は覚えている。


 「そんな小さいことで」


 「小さくないでしょう」


 即答。


 役に立つこと。

 大きな結果を出すこと。


 それだけが。

 前へ進むことではない。


 食べる。

 休む。

 欲しいと言う。


 そういうものも。

 これからの自分を作る。


 地図の余白。


 『一人では判断しない』


 その下へ。


 『食事を忘れない』


 小さく書き足す。


 「重要ですね」


 「笑わないでください」


 「笑っていません」


 笑っていた。

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