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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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第5話 途切れた時間

 消えた道の境目を、三人は何度も見直した。


 警備隊から来た調査員が、地面へ杭を打つ。


 こちら側。


 道がある。


 向こう側。


 道がない。


 「掘ってみます」


 表面の草を少しだけ剥がす。


 下から出たのも。


 長い間踏まれていない土だった。


 「昨日まで道だったなら、これはおかしい」


 クアイドエンが言う。


 「土の層まで」


 「はい」


 ハフソは地図を広げる。


 赤い箱に入っていた破れた地図。


 そこには。


 今目の前から消えている旧道が、確かに描かれている。


 「地図が古い可能性は?」


 ハフソは紙の端を確かめる。


 インク。

 折り目。

 汚れ。


 古い写しではない。


 「最近使われた地図だと思います」


 調査員も紙を透かす。


 「紙の規格は現行です」


 なら。

 赤い箱へ入れた人は、今の道を知っていた。


 破れた地図。

 消えた道。


 偶然ではない。


 その確信だけが、少しずつ強くなる。


 調査員が聞く。


 「住民の証言と合いません」


 「記録も確認します」


 調査員が距離を測りながら言う。


 「昨晩の雨は、九時過ぎから十一時前までです」


 手前の泥には雨粒の跡。

 草地側の土は乾いている。


 「時間が合いませんね」


 クアイドエンが低く言う。


 「はい」


 「雨のあとに道が消えたなら、草地も濡れているはず」


 「逆に、雨より前から草地だったなら」


 ハフソは住民の家々を見る。


 「昨日まで道を使ったという証言と合いません」


 「誰かが嘘を?」


 調査員。


 「複数の人が、同じように?」


 ハフソは境界近くへ落ちた藁を見る。


 手前の一本は雨に濡れている。

 向こうには、同じ荷車から落ちたはずの続きがない。


 「嘘なら、ここまで揃わないと思います」


 普通の説明を一つずつ外していく。

 残る答えが怖くても。


 ハフソは銀針を見る。


 針先が。


 地図の旧道へ向いている。


 触れてみる。


 怖さはある。


 でも。


 昨晩の布と同じ。


 何かを伝えようとしている。


 銀針を地図の端へ当てる。


 瞬間。


 細い光が走った。


 「え」


 地図から。


 現実へ。


 銀色の線が伸びる。


 草地の上に。


 薄い像が重なった。


 「道……」


 昨日までの道。


 轍。


 雨に濡れた土。


 小さな石橋。


 荷車が落とした藁。


 全部。


 今は存在しない。


 でも。


 確かに存在した時間の姿。


 「見えますか」


 ハフソが聞く。


 「うっすら」


 クアイドエンも見えているらしい。


 完全ではない。


 銀針が引き出したものを、彼にも少しだけ共有している。


 道の中央。


 黒い線。


 まるで。


 布を鋏で切ったような。


 「ここで切れている」


 ハフソの喉が乾く。


 「何が?」


 「道、じゃない」


 違う。


 道なら。


 土や石だけがなくなる。


 昨日降った雨までなかったことにはならない。


 轍だけでなく。


 その時間に積もった変化そのものがない。


 「時間です」


 言葉にした瞬間。


 自分でも怖くなる。


 「時間そのものが、切られています」


 言ってから。

 自分の言葉の大きさに、手が冷たくなる。


 時間。

 誰にでも同じように流れるもの。


 それが、布のように切れる。


 「そんなことが」


 調査員が息を呑む。


 「普通なら、ありません」


 ハフソ自身も初めて見る。


 布に残る感情や記憶なら、人が残したものだ。

 けれど今、草地に重なっている銀色の像は違う。


 存在した時間の形そのもの。

 銀針がそれを少しだけ、こちら側へ引き寄せている。


 クアイドエンはすぐには否定しなかった。


 「俺の三時間も」


 彼が言う。


 「同じだと思いますか」


 ハフソは答えられない。


 でも。


 布の中の彼の背中。


 突然の途切れ。


 午前二時の林。


 「可能性はあります」


 銀針を少し動かす。


 道の像が濃くなった。


 次の瞬間。


 石橋の端まで。


 一瞬だけ。


 本物のように戻る。


 風の音が変わった。


 草の匂いが、濡れた土の匂いへ変わる。

 遠くで車輪の軋む音。


 誰もいないはずの道の上を、透明な荷車の影が一瞬だけ通り過ぎた。


 過去を見ているだけではない。


 足元。

 靴底へ硬い路面の感触。


 今ここへ。

 道そのものが重なった。


 「触れないで」


 クアイドエンの声。


 透明な荷車の影へ。

 調査員が手を伸ばしかけ、止まる。


 「すみません」


 「何が起こるか分からない」


 戻った道は見えるだけではない。


 音。

 匂い。

 足裏。


 なら。

 そこを通ったら。


 昨日の時間へ入るのか。

 今の時間の上を歩くのか。


 分からない。


 ハフソも針を持つ手を動かさない。


 できるから試す。

 ではなく。


 分からないものへ境界を置く。


 その判断ができたことを。

 あとから少しだけ誇らしく思った。


 「っ」


 驚いて針を離す。


 道は再び草地へ消えた。


 ハフソの手が震える。


 「今」


 「戻りましたね」


 「少しだけ」


 「あなたが?」


 「分かりません」


 怖い。


 自分が何をしたのか。


 でも。


 クアイドエンはハフソの手から針を奪わなかった。



     *


 道が消えたあと。


 ハフソは。

 さっき像が重なった位置を。

 地図へ印す。


 「橋まで戻りました」


 調査員。


 「はい」


 「それより先は?」


 「見えませんでした」


 マーカスなら。

 数字にするのだろう。


 今いる調査員は。

 距離を測る。


 「境界から橋まで、百二十七歩」


 「地図上では?」


 「一致します」


 つまり。

 幻ではない。


 少なくとも。

 戻った範囲は。

 元の道の位置と合っている。


 「銀針をもう一度使えば」


 自分の口から出て。

 ハフソは止まる。


 もう一度。


 知りたい。


 でも。

 指はまだ震えている。


 胸も。

 速い。


 クアイドエンは。

 何も言わない。


 「今の私は」


 自分で確認する。


 「もう一度やりたいです」


 正直。


 「でも、今やるのは嫌です」


 これも。

 正直。


 調査員が。

 境界へ杭を打つ。


 「明日でも証拠は残ります」


 ハフソは。

 その言葉に。

 息を吐く。


 今やらなければ。

 機会を失う。


 ずっと。

 そう思いやすかった。


 でも。

 待てるものもある。


 休んでから。

 もう一度考えられるものも。

 ある。


 「今日はここまでにしますか」


 決めさせる。


 いつも。


 ハフソは銀針を見た。


 まだ知りたい。


 けれど。


 「……はい」


 無理をしない。


 それも。


 自分で選ぶ。


 「今日は、ここまでにします」


 「分かりました」


 クアイドエンはすぐ調査員へ指示する。


 「境界を囲ってください。踏み荒らさないように」


 「はい」


 「住民にも、しばらく近づかないよう説明を」


 「承知しました」


 それから、ハフソの手を見る。


 「今は、手を休めて」


 自分の指へ視線を落とす。

 銀針を握る手が、白くなるほど力んでいた。


 ゆっくり開く。


 「……怖かったです」


 「はい」


 「でも、見たかった」


 「それも、はい」


 怖いからやめる。

 怖いけれど続ける。

 どちらも選択なのだと、少しずつ分かってきた。


     *


 帰り。


 また同じ馬へ乗る。


 朝より。


 少しだけ。


 彼の背中が怖くない。


 「クアイドエン様」


 「はい」


 「もし」


 馬の揺れに声が途切れる。


 「もし、本当に時間が切られているなら」


 「はい」


 「戻せると思いますか」


 少し間。


 「俺には分かりません」


 「……はい」


 「でも」


 前を向いたまま。


 「あなたの針は、さっき道を少し戻した」


 「でも、すぐ消えました」


 「はい」


 「失敗ですか」


 聞く。


 クアイドエンは少し考える。


 「途中です」


 「途中?」


 「戻せることと、戻した状態を保つことは別の問題でしょう」


 ハフソは驚く。


 失敗か。

 成功か。


 二つだけで考えていた。


 「途中」


 「はい」


 「それなら、次に確かめることがあります」


 「そういう顔になりましたね」


 「どんな?」


 「怖いけれど、考えている顔です」


 褒められたのか分からず。

 ハフソは少し笑った。


 ハフソは胸元の銀針へ触れる。


 「だから、最初から無理だと決める必要はないでしょう」


 その言葉を。


 ハフソは長く覚えておこうと思った。

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