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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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第4話 男を感じる背中

 翌朝。


 警備隊の許可を得て、銀針は調査中だけハフソへ貸し出された。


 クアイドエンが最後に覚えている場所。


 王都北門の外。


 そこを調べる。


 アニサも同行するつもりだったが、警備隊への追加申請や故郷行きの荷物の処理が残っている。


 「お嬢様。無理をなさらないでください」


 「大丈夫」


 言って。


 自分で止める。


 「……たぶん」


 アニサが少し笑った。


 「それなら昨日より正確です」


 誰かに同じことを言われたような気がして。


 ハフソは首を傾げた。


     *


 北門を出たところで問題が起きた。


 現場まで歩くには遠い。


 警備隊の馬は急な伝令へ回され。

 貸し馬屋も朝から埋まっている。


 「馬車を待ちますか」


 「どれくらいですか」


 「一時間ほど」


 午後からまた雨になる予報。

 現場の痕跡が変わる前に見たい。


 「馬でお願いします」


 そう決める。


 だが、用意できた馬は一頭だけだった。


 「乗れますか」


 クアイドエンに聞かれる。


 「少しなら」


 「少し?」


 「……あまり得意ではありません」


 正直に言う。


 「では後ろへ」


 「後ろ?」


 「俺の馬に」


 断る理由を探した。


 ない。


 調査のため。


 仕方がない。


 そう言い聞かせて鞍へ上がる。


 クアイドエンの後ろ。


 馬が動いた瞬間。


 「きゃ」


 身体が後ろへ持っていかれた。


 「つかまってください」


 「どこに」


 「俺に」


 「……はい」


 腕を回す。


 腰。


 硬い。


 服越しでも分かる。


 背中が大きい。


 肩も広い。


 昨日。


 刺繍布の中で見た背中。


 あのときはただ「男の背中」としか思わなかった。


 今は。


 体温がある。


 馬の動きに合わせて筋肉が動く。


 近い。


 近すぎる。


 婚約者だった男と並んで歩いたことは何度もある。


 手を取られたこともある。


 それなのに。


 こんなふうに「男の人だ」と意識した記憶がない。


 耳が熱い。


 「大丈夫ですか」


 「だ、大丈夫です」


 「本当に?」


 「はい」


 馬が小さく跳ねる。


 ハフソの腕が思わず強く締まった。


 「すみません!」


 「謝るより、つかまってください」


 声に笑いが混じる。


 「落ちられる方が困ります」


 「……はい」


 「それと」


 「はい?」


 「俺も馬上では揺れます」


 「?」


 「だから、お互い様です」


 何がお互い様なのか。


 よく分からない。


 でも。


 少しだけ緊張がほどけた。


 城門を抜けると、石畳が土へ変わる。

 馬の速度が上がった。


 ハフソは今度は言われる前に、クアイドエンの外套をつかむ。


 「そこだと布が伸びます」


 「え」


 「腰へ腕を」


 無理です、と言いかける。

 でも落ちる方が困る。


 「……失礼します」


 「はい」


 腕を回す。

 背中越しに笑った気配。


 「今、笑いました?」


 「いいえ」


 「嘘ですね」


 「辺境伯へ嘘と言いますか」


 「今のは、たぶん」


 言って。

 自分でも驚く。


 冗談のようなことを。

 この人へ返せた。


 王都で聞いた「怖い辺境伯」という噂と。

 目の前の背中が。

 少しずつ違って見え始める。


 「クアイドエン様は、辺境ではよく馬に?」


 「移動の半分以上は馬です」


 「疲れませんか」


 「慣れました」


 「私は、たぶん一生慣れません」


 「まだ一度目です」


 「それでも分かります」


 また笑った気配。


 「では、二度目で判断してください」


 「二度目も、同じ馬ですか」


 言ってから。

 何を聞いているのだろうと思う。


 クアイドエンの肩が少しだけ揺れた。


 「希望があれば」


 「馬車がいいです」


 「即答ですね」


 「はい」


 でも。

 嫌ではない。


 怖いのは馬。

 この背中ではない。


 その違いに気づき。

 また耳が熱くなる。


 視線を逃がすように道の先を見る。


 北の空は。

 王都より少し広く見えた。


 二度目。


 その言葉を、なぜかハフソは覚えた。

 次があることを、当たり前のように言われたから。


     *


 最後に覚えている場所へ到着する。


 北門から少し離れた旧道。


 「ここです」


 クアイドエンが馬から降りる。


 ハフソも続こうとして、足がうまく動かなかった。


 手が伸びる。


 「どうぞ」


 「ありがとうございます」


 彼の手を借りて地面へ。


 そこから先。


 地図では道が続く。


 けれど。


 「……ない」


 道が。


 途中で消えていた。


 手前までは轍がある。


 街道の土。


 踏み固められた跡。


 そこから。


 突然。


 草地。


 境目が不自然なくらいまっすぐだった。


 近くで畑仕事をしていた老人へ尋ねる。


 「この道ですか? 昨日までありましたよ」


 「昨日まで?」


 「ええ。古い道ですが、荷車は通る。昨晩も雨の前までは」


 老人は草地を見て顔をしかめる。


 「朝、畑へ来て驚いたんです。道がないから」


 「工事の予定は?」


 クアイドエンが聞く。


 「聞いてません」


 「土を入れ替えた形跡は」


 「一晩で、こんなに草が根づくわけないでしょう」


 近くの柵には、荷車の片輪が跳ねた泥が残っている。

 なのに道が消えた先へ続く轍はない。


 途中で車輪の時間だけが抜け落ちたようだった。


 「昨日、夕方には粉屋の荷車も通ったよ」


 老人。


 「時刻は?」


 「鐘の七つ目より前だ」


 調査員が記録する。


 「夜は?」


 「雨が降ったから家にいた」


 「朝、最初に気づいたのは」


 「日の出すぐ」


 目撃の時間が少しずつ狭まる。


 昨夕、道はあった。

 夜、雨が降った。

 朝、道がない。


 そして雨の痕跡まで。

 境界の向こうだけない。


 「道路を消した人がいるなら」


 クアイドエン。


 「雨まで消したことになる」


 「そんな工事はありません」


 老人が笑おうとして。

 笑えなかった。


 昨晩。


 ハフソはしゃがむ。


 道の手前。


 泥に雨粒の跡。


 草地側。


 濡れていない。


 「クアイドエン様」


 「見えましたか」


 「ここ」


 指を伸ばす。


 「昨日の雨が、途中で止まっています」


 彼も膝をつく。


 「道だけではない?」


 胸元の布包み。


 銀針が。


 小さく。


 震え始めた。


 ハフソは息を呑む。


 昨晩の三時間。


 消えた道。


 そして。


 母の銀針。


 「もっと調べたいです」


 「何から」


 クアイドエン。


 「まず、境目を測りたいです」


 調査員。


 「直線か、曲線か」


 「はい。雨の跡も」


 「分かりました」


 自分が糸を見る。

 他の人が普通の証拠を見る。


 両方。


 魔法のようなものがあっても。

 普通の確認を飛ばさない。


 そのやり方を。

 この日、初めて覚えた。



     *


 測量紐を。

 境界へ沿わせる。


 まっすぐ。


 人が道を埋めたなら。

 こんな線にはならない。


 「幅は?」


 調査員。


 「道の幅と、ほぼ一致します」


 「草の種類は」


 「周囲と同じです。ただ」


 根元。


 「この境目だけ、土の湿り方が違う」


 雨粒の跡。

 泥。

 草。


 普通の証拠を一つずつ記録する。


 ハフソは。

 銀針を出さない。


 今は。

 自分にしか見えないものより。

 誰にでも確かめられるものを先に集める。


 「昨日の夕方に通った方は、ほかに?」


 老人。


 「粉屋と、南の農家の荷車だな」


 「時間は」


 「日が落ちる前」


 調査員が名前を書く。


 クアイドエンは。

 ハフソの横に立つだけ。


 答えを言わない。


 測量紐を持つ人。

 証言を取る人。

 地面を見る人。


 それぞれが。

 自分の仕事をしている。


 ハフソは。

 その中で。


 「銀針は、境界の中央で一番強く震えます」


 自分の観測だけを言う。


 「記録します」


 調査員。


 特別扱いも。

 疑いの目もない。


 一つの証拠として。

 同じ紙へ書かれる。


 胸の奥に。

 小さな安堵が生まれた。


 自分の見えるものが。

 全部ではない。


 でも。

 何でもないわけでもない。


 「今日はあなたが決めるのですね」


 クアイドエンが言う。


 ハフソは。


 自分の言葉を確認するように。


 「はい。私が知りたいんです」


 彼は頷いた。


 「では、調べましょう」


 その横顔を見て。


 ハフソは少しだけ思った。


 怖いと噂される辺境伯。


 でも。


 自分の選択を。


 一度も奪わない人だ。

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