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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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3/16

第3話 昨晩

 赤い箱は、警備隊の詰所へ運ばれた。


 広場からそう遠くない。


 箱そのものが不審物である以上、勝手に持ち帰るわけにはいかない。


 事情を聞く警備兵の顔は、最初から難しかった。


 「つまり」


 男は記録紙へ目を落とす。


 「箱の中に、この布と地図と針が入っていた」


 「はい」


 「布の裏に『昨晩を探してくれ』と書いてある」


 「はい」


 「だが俺には読めない」


 「……はい」


 「それから、赤い糸が見えた」


 「箱から?」


 「はい」


 「今も?」


 警備兵。


 ハフソは窓の外を見る。


 詰所まで箱を運ぶ間、赤い糸はずっと見えていた。

 けれど今は。


 「薄くなっています」


 「箱がここへ来たから?」


 「分かりません」


 警備兵は眉をひそめず、そのまま記録する。


 『本人のみ視認。移送後、視認強度低下』


 確認できない話でも、否定せず記録する。


 それだけで。

 ハフソの肩から少し力が抜けた。


 言葉にするほど。


 自分でも怪しい話だと思う。


 ハフソは膝の上で指を重ねた。


 「申し訳ありません」


 無意識に謝る。


 隣のアニサが、わずかにこちらを見る。


 警備兵はため息をついた。


 「謝られてもな。悪いが、確認できないものは記録にそう書くしかない」


 「はい」


 「この銀針はしばらく預かる」


 「……はい」


 手元から離れることに、少し抵抗があった。


 銀針は白布の上へ置かれる。

 ただの証拠品として。


 それが当然なのに。

 母の記憶まで机の向こうへ持っていかれるように感じた。


 「傷つけないでいただけますか」


 警備兵が顔を上げる。


 「もちろん。先端も柄も現状のまま保管する」


 「ありがとうございます」


 「大切なものですか」


 「まだ、分かりません」


 自分でも変な答え。


 「でも、大切だったものかもしれません」


 警備兵は笑わず。

 記録紙へそう書き添えた。


 母の一族の紋章。


 でも。


 証拠品なのだから当然だ。


 警備兵が別室へ行ったあと。


 ハフソは机に置かれた鳥と花の刺繍布を見る。


 「もう一度、触れてもいいでしょうか」


 「記録が終わるまでなら」


 許可を得て。


 指先を置く。


 先ほどより慎重に。


 布へ残った感情の糸を追う。


 焦り。


 迷い。


 誰かへ見つけてほしいという願い。


 その奥に。


 映像。


 濡れた石畳。


 夜。


 灯りが揺れている。


 人が歩いている。


 背の高い男。


 こちらへ背を向けている。


 大きな背中。


 暗い外套。


 数歩。


 その先で。


 ぶつり。


 映像が切れた。


 「っ」


 ハフソは手を離した。


 「お嬢様」


 「男の人が」


 「見えたのですか」


 「背中だけ」


 呼吸を整える。


 「石畳の上を歩いていて。そのあと急に、何もなくなりました」


 まるで。


 布を鋏で切ったように。


 映像の切れ目には、暗さもぼやけもない。


 直前まで鮮明だったものが、そこで存在しなくなる。


 思い出せない。

 ではない。


 残っていない。


 「忘れた感じではありません」


 「どう違う?」


 アニサ。


 「忘れた記憶なら、糸の先に届かないものがある感じがします。でもこれは」


 切れ端。


 「先がない」


 自分で言って。

 背筋が冷えた。


 「昨晩?」


 「たぶん」


 答えたところで。


 詰所の外が少し騒がしくなった。


 扉が開く。


 大柄な男が入ってきた。


 黒に近い外套。

 旅装。

 背が高い。


 警備兵がすぐ姿勢を正す。


 「クアイドエン辺境伯」


 男は短く頷いた。


 「昨夜の件で」


 その言葉より先に。


 ハフソの目は。


 彼の背中へ吸い寄せられた。


 扉を閉めるため、男が一度こちらへ背を向ける。


 同じ。


 布の中で見た。


 大きな背中。


 「あの背中……」


 思わず声が出た。


 男が振り返る。


 「俺を知っているのですか」


 問い方は低い。


 ただ、責める響きはない。


 王都での噂。

 北辺のクアイドエン辺境伯。

 感情が顔へ出やすく、怒れば怖い。


 そんな話を社交の席で一度聞いた。


 今、本人の眉は確かに寄っている。


 でもそれは。

 自分を知るはずのない女性に背中を知っていると言われた困惑だ。


 「いいえ」


 ハフソは。

 噂と本人を同じにしないよう、意識して答えた。


 立ち上がる。


 「でも、昨晩の布に」


 全員の視線が刺繍布へ集まる。


 警備兵が眉をひそめる。


 「ちょうどいい。辺境伯も昨夜のことで届け出があるそうです」


 クアイドエンは椅子へ座った。


 近くで見ると。

 怖いというより、疲れているように見えた。


 目の下にわずかな影。

 外套の裾には乾ききらない泥。


 失った三時間を。

 本人も夜通し探していたのかもしれない。


 「昨夜、午後十一時から午前二時までの記憶がありません」


 三時間。


 ハフソの胸が鳴る。


 警備兵が先に確認する。


 「怪我は?」


 「ありません」


 「持ち物の紛失」


 「なし」


 「金銭」


 「変化なし」


 「馬は?」


 「北門近くの厩へ預けたままでした」


 奪われたものがない。

 少なくとも、目に見えるものは。


 「十一時までは?」


 「覚えています」


 「どこに?」


 「王都北門の外です。そのあとは」


 一度。


 言葉を探す。


 「気づいたら、林の脇にいた」


 「眠っていた?」


 「そうらしい。だが、眠りについた記憶もない」


 「誰かに襲われた感覚は」


 「それもない」


 「寒くは?」


 「かなり。服の背中側だけ濡れていました」


 地面へ寝かされていた可能性。

 でも怪我も、奪われた物もない。


 「本当に、三時間だけ」


 「抜け落ちたように」


 その言葉が、布の映像と重なった。

 途中だけが存在しない。


 ハフソは布を見る。


 昨晩。


 男の背中。


 途切れ。


 三時間。


 何かがつながっている。


 「調べさせてください」


 気づけば言っていた。


 クアイドエンがこちらを見る。


 「あなたが?」


 「この布に残ったものなら、少し読めます。それに銀針も」


 「危険は?」


 「分かりません」


 「なら、無理をする必要はありません」


 思っていた返事ではなかった。


 協力しろ、と言われると思った。


 役に立てるなら。


 当然、やるべきだと。


 「でも」


 「分からないことを、分からないと言うのも必要な情報です」


 クアイドエンの声は穏やかだった。


 「倒れるまで調べる必要はない」


 その言葉が。


 妙に胸へ残った。


 役に立たなくても。


 分からなくても。


 ここにいていい、と言われたような。


 「……帰る予定でした」


 「故郷へ?」


 「はい」


 「なら、帰っても」


 「いいえ」


 今度は。


 自分で止めた。


 「分からない。でも――昨晩が見つかるまでは、帰れないと思う」


 クアイドエンは少しだけ目を細めた。


 「そうですか」


 「はい」


 「では」


 彼は立ち上がる。


 「俺も、自分の昨晩を探します。協力できる範囲で」


 「協力、ですか」


 「命令では困るでしょう」


 ハフソは少し驚く。


 「辺境伯様なのに」


 「辺境伯だから、何でも命令していいわけではない」


 はっきり言う。


 「あなたは王室の部下でも、俺の家臣でもない。帰るか残るか、針を使うか使わないか。あなたが決めてください」


 婚約を解消され。

 自分の将来を他人から決められた翌日。


 その言葉は思っていた以上に深く届いた。


 「はい」


 従う返事ではなく。

 自分の選択への返事。


 「残ります」


 言葉にしたあと、胸が早く打つ。


 帰らない。

 予定を変える。

 家の許可を先に取っていない。


 不安はいくつも浮かぶ。


 「宿は?」


 クアイドエン。


 「昨日までの宿が、今日で」


 「警備隊から延泊を依頼できます」


 警備兵。


 「調査協力なら、事情説明もこちらから出しましょう」


 一人で全部。

 家へ弁明しなくていい。


 「ありがとうございます」


 選んだあと。

 周りが、その選択を支える手段を出してくれる。


 そういうこともあるのだと知る。


 必要だから残る。


 だけではない。


 自分が。


 知りたいから残る。


 その選択を。


 ハフソは初めて、自分のものとして胸へ置いた。

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