↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/17

第2話 広場に置かれた大きな赤い箱

 赤い糸の先にあったのは、大きな赤い箱だった。


 広場の端。


 噴水からも、露店からも少し離れた場所。


 木製。

 人ひとりなら身体を丸めて入れそうな大きさ。


 赤い塗料はところどころ剥げ、角は擦れている。

 雨を受けた跡もある。


 目立つ色なのに。


 不思議なくらい、誰も気にしていなかった。


 子どもが近くを走り抜ける。

 露店の男が荷台を押して横を通る。

 箱を避けはする。

 けれど誰も立ち止まらない。


 置いてあること自体は見えている。

 ただ、興味を持つ理由がないのだ。


 ハフソには、その箱だけが赤い糸で朝の景色から浮き上がって見えた。


 「こんな箱、昨日もありましたか」


 ハフソが尋ねる。


 アニサは首を傾げた。


 「私は見ておりません」


 「私も」


 「開けるのですか」


 低い声。


 慎重に問いかけられ、ハフソの手が止まる。


 勝手に触れていいものではないかもしれない。

 警備隊を呼ぶべきかもしれない。


 けれど。


 赤い糸は箱の隙間から伸びている。


 強い。


 急いでいる。


 そう感じた。


 「少しだけ」


 ハフソは蓋へ手をかけた。


 「お待ちください」


 アニサが周囲を見る。


 「警備隊を呼びますか」


 正しい。

 本来なら、その方がいい。


 でも赤い糸は、今にも切れそうなほど震えて見えた。


 「中を見るだけ」


 「それが『少しだけ』なのですね」


 「……はい」


 「では、私が横におります」


 止めるのではなく。

 ひとりにはしない。


 アニサが半歩近づく。


 その気配を背中に感じて。

 ハフソは蓋へ手をかけた。


 重い。


 けれど鍵はかかっていない。


 ゆっくり持ち上げる。


 中には。


 三つ。


 「布……?」


 最初に目へ入ったのは、鳥と花を刺繍した小さな布。


 白地。

 青い鳥。

 赤と黄色の花。


 とてもかわいらしい図柄だった。


 青い鳥は羽の先だけ銀糸。

 花は子どもの刺繍見本にありそうな丸い形。


 高価な技巧を見せる図柄ではない。


 むしろ、手に取りたくなる。

 安心する。


 「お嬢様の昔の刺繍に少し似ています」


 アニサ。


 「私の?」


 「小鳥をよく縫っていらっしゃいました」


 「覚えているの」


 「はい」


 母の針刺しにも鳥。

 赤い箱の布にも鳥。


 偶然かもしれない。


 でも胸の奥で。

 古い記憶が小さく動いた。


 二つ目は、破れた地図。


 王都周辺らしいが、中央の一部がなくなっている。


 そして。


 三つ目。


 細長い布に包まれた古い銀針。


 ハフソは息を止めた。


 針の柄。


 小さな紋章。


 「これ」


 指先が震える。


 「母の一族のものです」


 アニサが目を細める。


 「お母様の?」


 「母方の一族に伝わる紋章です。たぶん」


 確信はなかった。


 幼い頃に見た記憶。


 母の持ち物。

 古い箱。

 伯爵家では使わない意匠。


 同じもの。


 ほんの短い記憶が戻る。


 母の膝。

 銀色の針。

 指先を守る革の指貫。

 針箱の蓋へ刻まれた小さな紋章。


 『これは、どこのお花?』


 幼いハフソが聞いた。


 『お花ではないの』


 母が笑った。


 そこから先は思い出せない。

 顔も声も、今は輪郭が薄い。


 でも紋章だけは、銀針を握った指先の感触と一緒に残っている。


 「同じです」


 今度は少しだけ確信を込める。


 「たぶん、お母様の一族のものです」


 「どうして、こんなところに」


 母は亡くなった。


 そう聞いている。


 母の一族についても、針仕事に長けた家だったという程度しか教えられていない。


 父へ尋ねたこともある。


 『お母様の実家は?』


 返ってきたのは。

 『もう関わりのない家だ』

 という短い答えだけ。


 幼かったハフソは、それ以上聞けば困らせると思い、質問をやめた。


 母の話をすると。

 家の人が少し沈黙する。


 その沈黙を、自分が触れてはいけない線だと思ってきた。


 だから今。

 広場の箱に、その線の向こうから来たような銀針がある。


 怖い。

 知りたい。

 二つが同時にある。


 ハフソは銀針へ触れようとして。


 やめた。


 先に。


 鳥と花の刺繍布。


 赤い糸は、そこから一番強く伸びている。


 指を置く。


 瞬間。


 感情が流れ込んだ。


 焦り。


 恐れ。


 迷い。


 ためらい。


 それでも。


 見つけて。


 強い願い。


 ハフソは息を呑んで手を離した。


 「お嬢様?」


 「誰かが」


 胸元を押さえる。


 「誰かに、見つけてほしかったみたいです」


 裏返す。


 最初は何もないように見えた。


 でも。


 角度を変えたとき。


 細い銀色の糸が浮いた。


 「文字?」


 刺繍。


 表からは見えないように。


 裏側へ。


 銀糸で。


 『昨晩を探してくれ』


 文字は普通の刺繍文字とは違う。


 縫い目だけを追えば、ただの裏糸。

 けれど感情の糸と重ねて見ると、意味が立ち上がる。


 一文字ずつ。


 焦りが強いところ。

 ためらいが混じるところ。


 最後の「くれ」だけ。

 糸が少し乱れていた。


 書いた人の手が、そこで震えたように。


 「命令という感じではありません」


 「では?」


 「お願いに近い」


 助けて。

 見つけて。


 そんな声。


 誰のものかは、まだ分からない。


 ハフソは声に出さず読んだ。


 「アニサ」


 「はい」


 「これ、読めますか」


 布を見せる。


 アニサは少し目を近づける。


 「裏糸しか見えません」


 「文字が」


 「文字?」


 「『昨晩を探してくれ』って」


 アニサの顔がわずかに変わった。


 「お嬢様にしか見えないのですね」


 「たぶん」


 昨晩。


 何を探せというのか。

 誰の昨晩なのか。

 なぜ母方の紋章がある銀針まで。


 分からない。


 破れた地図も広げる。


 王都。

 北門。

 中央広場。

 外へ伸びる街道。


 紙自体はひどく古くない。

 なのに中央から北寄りの一部だけが不自然に欠けている。


 「これも、わざとでしょうか」


 「断定はできません」


 アニサが答える。


 「でも、偶然にしては綺麗すぎます」


 見せたいもの。

 隠したいもの。


 誰かが選んでいる。


 以前なら。

 分からないことを恥ずかしいと思った。


 今は。

 分からないから確かめたい。


 広場の時計が鳴った。


 ハフソははっとする。


 故郷へ向かう馬車。


 「お嬢様。出発まで、もうあまり」


 「……はい」


 帰る。


 そう決めていた。


 婚約も終わった。


 王都に残る理由はない。


 目の前の箱は、自分と関係のない事件かもしれない。


 警備隊へ渡して。


 帰ればいい。


 きっと、それが正しい。


 ハフソは銀針を見る。


 鳥と花の布を見る。


 昨晩を探してくれ。


 胸の奥に、昨日までなかった感情が生まれていた。


 知りたい。


 役に立つためではなく。


 誰かに必要と言われたからでもなく。


 自分が。


 「アニサ」


 「はい」


 「馬車は先に行かせてください」


 「お嬢様は?」


 「少しだけ、調べます」


 言ったあと。


 また「少しだけ」と逃げ道を作った自分に気づく。


 それでも。


 これは。


 初めて、自分で決めた寄り道だった。


 「承知しました」


 アニサは反対しなかった。


 「では、警備隊へ届け出ましょう」


 「一緒に?」


 「お嬢様だけを残して帰るほど従順ではございません」


 ほんの少し。


 アニサの口元が緩む。


 ハフソも。


 久しぶりに少しだけ笑った。


 「馬車代は無駄になりますね」


 「そうですね」


 「家へ説明しないと」


 「はい」


 怒られないように予定通り帰る。

 それも一つの選択。


 でも今日は。

 自分が知りたいから残る。


 「帰ってから、自分で説明します」


 「お父様へも?」


 「はい」


 母の紋章。


 父が話したがらなかったもの。


 「聞きたいことがあります」


 「お母様のことを?」


 「それも」


 どうして自分が母のことを聞くたび。

 黙る側に合わせてきたのか。


 そのことも。


 「帰ったら、聞かないで済ませるのをやめます」


 アニサは静かに頷いた。


 「承知しました」


 赤い箱から伸びた糸は。


 まだ。


 どこかへ続いている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。