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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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第1話 愛されたいだけなのに

 婚約者は、最後までハフソを正面から見なかった。


 「君は針仕事しかできない」


 応接室の窓から差し込む午後の光が、男の横顔だけを白く照らしている。


 テーブルの上には、冷めた茶が二つ。

 ハフソが相手の好みに合わせて選んだ茶葉だった。

 菓子も甘すぎないもの。

 椅子の背には、以前「光が眩しい」と言われて縫った薄布まで掛けてある。


 小さなことなら覚えている。

 頼まれる前に整えられる。

 そういう役に立ち方なら、ずっとしてきた。


 けれど。

 彼が求めていたものは違った。


 「社交の場でも前へ出ない。家同士の付き合いでも、言われたことをするだけだ。貴族の妻としては役に立たない」


 「もっと、お話しした方がよかったでしょうか」


 責めるためではない。

 次に直す場所を知りたかった。


 「そういうことではない」


 「では、舞踏会で――」


 「ハフソ」


 名前を呼ばれ、口を閉じる。


 「もう、直す話ではない」


 その一言が。

 なぜか一番痛かった。


 直せない。

 努力しても、次の課題をもらえない。

 関係そのものを終わりにすると言われている。


 ハフソは、冷めた茶へ目を落とした。


 この茶を選ぶときも、自分が飲みたいものは考えなかった。

 相手が好むか。

 話の邪魔にならないか。

 それだけ。


 婚約してから、そういう小さな選択が増えた。

 衣装の色。

 髪飾り。

 話す速さ。

 笑うタイミング。


 誰かに強制されたわけではない。

 だからこそ、自分で自分を薄くしていたことに気づきにくかった。


 相手の好きなものへ寄せれば、嫌われる可能性が減る。

 それを、愛される努力だと思っていた。


 用意していたのだろう。

 言葉には迷いがなかった。


 対してハフソの口から出たのは、いつもの言葉だった。


 「……申し訳ありません」


 男が、ようやくこちらを見る。


 「謝られても困る」


 男は怒っているわけではなかった。


 それが余計につらい。


 声を荒げられたなら、何か一つ相手のせいにできたかもしれない。

 でも彼は、契約の不備を説明するように淡々としている。


 この婚約は。

 彼にとって、直せない服を処分するのと同じなのだろうか。


 そんな考えが浮かび。

 すぐに自分を戒める。


 悪く考えてはいけない。

 相手には相手の事情がある。


 また。

 自分が傷ついたことより、相手を悪者にしないことを優先する。


 その癖にも。

 このときのハフソはまだ、はっきり名前をつけられなかった。


 「婚約は解消する。両家への説明はこちらでする」


 「承知しました」


 声が震えないようにすることだけで精いっぱいだった。


 役に立たなかったから。

 期待された妻になれなかったから。

 愛されるだけの価値を示せなかったから。


 頭の中で理由を並べているうちに、男は立ち上がった。


 「では」


 それだけだった。


 扉が閉まる。


 静かになった部屋で、ハフソはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。


 胸が痛い。

 けれど、泣くほどのことではないと思おうとした。


 婚約は家同士の話でもある。

 自分が不向きなら、解消されるのは仕方がない。

 相手が望む妻になれなかったのだから。


 そう考えれば、全部きれいに片づく。


 「お嬢様」


 控えていたアニサが、扉の向こうから入ってきた。


 落ち着いた顔。

 落ち着いた声。


 「お荷物をまとめますか」


 「大丈夫です。自分でできます」


 アニサが一瞬だけ黙る。


 「承知しました」


 従順な侍女は、無理に手を出さなかった。


 その日のうちに、ハフソは王都の滞在用屋敷を片づけ始めた。


 衣装。

 本。

 刺繍枠。

 糸。

 針。


 箱へ入れるたび、ここへ来た日のことを思い出す。


 婚約が決まったとき。

 嬉しかった。


 相手を深く知っていたわけではない。

 それでも、自分を選んでもらえたことが嬉しかった。


 だから、選んでもらった理由を失わないようにした。


 相手が好む色の糸を覚えた。

 親族へ贈る刺繍の図柄を調べた。

 晩餐で話題に困らないよう、領地の産業まで小さなノートへ書いた。


 けれど自分の意見を聞かれると、相手へ合わせた。


 『あなたはどう思う?』


 『おっしゃる通りだと思います』


 そう答えれば間違えない。

 間違えなければ嫌われない。


 箱の中には、そのためのノートが何冊もある。


 ハフソは一冊を開き、すぐ閉じた。

 もう必要ない。

 それでも捨てられず、箱の底へ入れた。


 どれも、来たときよりきれいに戻そうとした。


 この部屋を借りた自分が、最後まで迷惑を残さないように。


 夜になっても荷造りは終わらない。


 アニサがもう一度「お手伝いします」と申し出たが、ハフソはまた断った。


 「本当に大丈夫です」


 アニサの視線が、床に積まれた箱をゆっくり巡る。


 「その箱だけでも、私が」


 「いえ」


 反射的に断る。


 頼んだら迷惑になる。

 自分の荷物なのだから、自分で片づけるべき。


 「では」


 アニサは無理に手を出さない。


 「ひもだけ、ここへ置いておきます。使わなくても構いません」


 「……ありがとう」


 必要なら使えるものだけ置いて、選ばせる。


 アニサも昔から。

 ハフソが強く断ると、その一歩手前で止まる人だった。


 それを優しさとして受け取れたのは。

 たぶん、この夜が初めてだった。


 「……では、隣室におります」


 「ありがとう」


 ひとりになる。


 机の引き出しから、小さな針刺しが出てきた。


 古い布。

 端は少し擦れている。


 鳥の刺繍。


 その鳥へ指を触れた瞬間、ハフソには細い糸が見えた。


 他の人には見えないもの。


 布や糸に強く残った感情が、糸のように浮かぶことがある。


 この針刺しに残っているのは、薄い温かさだった。


 誰かが大切に縫った。

 誰かへ渡したかった。

 そんな気持ち。


 ハフソは昔から、それを読むことができた。


 切れた刺繍を直すとき、持ち主が残したかったものが分かる。

 何を捨て、何を残せばいいか分かる。


 だから針仕事だけは得意だった。


 けれど。


 『針仕事しかできない』


 昼間の言葉が戻ってくる。


 胸が、今度こそ強く痛んだ。


 針刺しを両手で包む。


 もっと役に立てたなら。


 もっと社交が得意なら。


 もっと意見を持ちながら、相手の望む形に従えたなら。


 もっと。


 もっと。


 その先で、ようやく考える。


 そうすれば。


 愛されたのだろうか。


 「……違う」


 小さな声が出た。


 けれど、自分で言った言葉なのに信じ切れない。


 「違う、のかな」


 誰も答えない。


 しばらくして、ハフソは針刺しを荷物の一番上へ入れた。


 明日の朝。

 故郷へ戻る。


 王都での暮らしは終わる。


 婚約も終わる。


 それでいい。


 そう思おうとした。


 でも。


 灯りを落とす前。


 ハフソは、もう一度だけ小さく呟いた。


 「役に立ちたいんじゃない」


 言葉にすると、ひどく幼い願いに聞こえた。


 「本当はただ――愛されたかった」


 言った途端。


 涙が一滴だけ、針刺しの鳥の羽へ落ちた。


 「……あ」


 慌てて拭おうとして、手を止める。


 濡れた跡も。

 乾けばほとんど分からない。


 全部を。

 なかったことにしなくていい。


 そう思い、針刺しをそのまま箱へ戻した。


 泣いたことまで。

 直さなくてもいい。


 まだ、ほんの一滴分だけの理解だった。


     *


 翌朝。


 故郷へ向かう馬車の出発場所まで、アニサと歩く。


 中央広場は朝から人が多かった。


 果物を売る声。

 荷車の車輪。

 馬の蹄。

 噴水の音。


 いつもと変わらない王都の朝。


 昨日、自分の婚約が終わっても。

 パン屋はパンを並べる。

 噴水は同じ高さへ水を上げる。

 荷車は同じ石畳を軋ませていく。


 世界にとって、自分の失恋は驚くほど小さな出来事だった。

 それが少し寂しく、少し救いでもある。


 「故郷へ戻ったら、まず何をなさいますか」


 アニサが聞く。


 「……分かりません」


 「刺繍を?」


 「たぶん」


 「それ以外は?」


 答えに詰まる。


 婚約してから。

 自分が何をしたいのかを、ほとんど考えてこなかった。


 「考えます」


 ようやく言う。


 「今度は少し、自分がしたいことを」


 「何か思いついていますか」


 アニサ。


 「いいえ」


 ハフソは正直に首を振る。


 「でも、思いついていないのに決めてもいいんでしょうか」


 「もちろんです」


 「予定がなくても?」


 「予定がない日も、予定の一つです」


 あまりにも当然のように言われ。

 ハフソは少し笑う。


 「アニサは、ときどき不思議なことを言いますね」


 「お嬢様が難しく考えすぎるだけかもしれません」


 否定できない。


 故郷へ戻れば。

 何かを頼まれるだろう。


 でもその前に。

 何も決まっていない自分の時間が、少しだけある。


 そう思えた。


 言葉にしただけで。

 胸の奥へ少し空気が入った。


 ハフソは、その景色を最後に覚えておこうと思った。


 そこで。


 見えた。


 「……え?」


 人混みの向こう。


 一本の赤い糸。


 地面すれすれを這い、広場の端へ伸びている。


 誰も踏まない。

 正確には。


 誰も見えていない。


 「お嬢様?」


 立ち止まったハフソへ、アニサが振り返る。


 「糸が」


 「糸?」


 やはり。


 アニサには見えない。


 赤い糸は、朝の光の中で細く揺れていた。


 布から伸びる感情の糸とは違う。


 もっと強い。


 何かを呼んでいる。


 ハフソは故郷へ向かう道とは反対へ。


 一歩。


 赤い糸を追った。

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