第10話 消える馬車
翌日。
旧馬車道は、王都の喧騒から少し外れたところにあった。
崩れかけた低い石壁。
雑草。
使われなくなった案内柱。
その先に。
石造りのトンネル。
「ここです」
テググが管理図を広げる。
「この先で現行道へ合流します。脇道はありません」
トンネルの中はひんやりしていた。
入口と出口には、テググの手配した工務局員が一人ずつ残る。
時計は同じ鐘で合わせた。
「一分ごとに合図します」
入口側。
出口側。
それぞれ小鈴。
時間が飛ぶなら。
時計だけでなく、外側との合図もずれるはず。
「本当に道路の調査みたいですね」
ハフソ。
「道路の調査です」
テググ。
「時間が変なだけで」
「十分変です」
笑う彼の手には、少し汗がにじんでいた。
怖い。
それでも、測れる形へ落とす。
テググなりの。
恐怖への向き合い方だった。
足音が響く。
壁際には。
昔使われていた木製の荷受け枠。
剥がれかけた紙の荷札。
朽ちた革紐。
ハフソには、その木や紙、革へ薄い糸が残っているのが見えた。
急ぐ気持ち。
眠気。
家へ帰れば子どもが待っているという温かさ。
昔ここを通った人たちの。
小さな残滓。
石壁そのものからは何も読めない。
けれど。
その石壁に沿って。
別のものが見えた。
「糸?」
銀色。
細い。
壁際の空間へ、縫い目のように走っている。
マーカスが振り向く。
「何かありますか」
「感情ではありません」
ハフソは慎重に答える。
「時間の方です。消えた道で見た切れ目に似ています」
クアイドエンが一歩、前へ出る。
「近づきすぎるな」
「はい」
そのとき。
馬蹄の音。
全員が入口を見る。
黒い馬車。
「え」
テググの声が裏返る。
「記録の馬車です!」
「保管されているのでは」
「保管庫にあります。昨日、確認しました!」
それなのに。
黒い馬車は。
入口側の小鈴が鳴る。
一回。
時刻通り。
馬車の車輪が石の上で重い音を立てる。
「御者」
クアイドエンが目を細める。
「顔が見えません」
帽子の影。
けれど、馬は実体のように土を蹴っている。
ハフソは銀針へ手を伸ばさない。
まず見る。
測る人がいる。
止める人がいる。
自分だけで急ぐ必要はない。
古い道の向こうから。
確かに来る。
車輪。
馬。
御者席。
窓は暗い。
通り過ぎる。
ハフソの横。
馬の息まで聞こえる。
そして。
トンネルの曲がり角へ。
入った。
「追うな」
クアイドエンが制止する。
正しい。
でも。
全員の目は。
曲がり角から離れない。
一秒。
二秒。
三秒。
来ない。
「反対側へ抜けた?」
マーカス。
「そんな速さじゃ」
テググが走りかけて。
止まる。
全員で。
ゆっくり曲がり角まで行く。
何もない。
脇道なし。
足跡なし。
車輪の跡も。
「消えた」
テググが時計を見る。
顔色が変わる。
「待って」
「どうした」
「十七秒」
出口側の小鈴が遅れて鳴る。
「外もずれた?」
テググが叫ぶ。
入口側から返事。
『こちらは予定通り!』
出口側。
『今、鳴った!』
同じ場所にいるはずの五人だけが。
十七秒。
別の時間へ落ちた。
マーカスがすぐ記録する。
「局所です」
「このトンネル内だけ?」
「少なくとも、今の観測では」
時間の欠落は記憶だけではない。
外側と内側の時計が、本当にずれている。
数字が恐怖を形にする。
「時計が進んでる」
マーカスの言葉に。
全員。
自分の感覚を確認する。
馬車が曲がって。
ここまで。
数秒。
でも。
時計では。
十七秒。
ハフソの耳の奥で。
何かが切れる音がした。
壁際の銀糸。
途中が。
ぱつり。
切れている。
「見えます」
銀針を出す。
手が震える。
「ハフソ」
クアイドエン。
「やめてもいい」
「はい」
怖い。
本当に。
怖い。
でも。
「短いです」
「何が」
「十七秒なら」
消えた道のときより。
ずっと小さい。
「試したい」
自分から。
言う。
クアイドエンは。
しばらくハフソを見て。
「分かった。全員、離れて」
銀針を。
石へ刺すのではない。
壁に沿って走る。
時間の切れた糸へ。
一針。
通す。
*
音が戻った。
馬蹄。
車輪。
黒い馬車。
「……!」
消えたはずの馬車が。
もう一度。
曲がり角から現れる。
今度は。
十七秒分だけ。
ゆっくり見える。
窓。
暗い服。
細い手。
誰かが。
中にいる。
「女性?」
アニサが呟く。
顔までは見えない。
薬品のような甘い匂い。
鳥と花の布。
同じ。
ハフソが針を進める。
一秒。
二秒。
十七秒。
最後。
その短い間。
車体の外へ揺れる紙の荷札から。
焦り。
急ぐ。
間に合わせなければ。
強い残滓。
誰かが、この馬車で何かを運んだ。
時間だけではない。
目的がある。
顔は見えない。
でも、手掛かりは一つ増えた。
糸が。
またほどけた。
馬車が消える。
静寂。
銀針が。
ハフソの指から落ちそうになる。
クアイドエンが。
先に手を伸ばした。
針ではなく。
ハフソの手首を支える。
「座って」
「私」
息が浅い。
「今」
言葉にする。
「時間を」
怖い。
でも。
見た。
*
十七秒の中で見えたものを。
全員で。
すぐ言葉にする。
「細い手」
アニサ。
「暗い服」
テググ。
「荷札」
ハフソ。
「甘い匂い」
クアイドエン。
マーカスは。
時刻。
位置。
馬車の速度。
書く。
「女性と断定は?」
ハフソ。
「しません」
アニサ。
「手だけでは」
「服も」
「はい」
断定しない。
ただ。
布の匂い。
箱の布。
クアイドエンの記憶。
同じ方向へ。
手掛かりが重なる。
「追いますか」
テググ。
馬車が消えた方向。
ハフソは。
反射で。
行きたいと思う。
でも。
「今は追いません」
自分で言う。
「どうして」
「私たちは、十七秒を失った直後です」
時計。
「何が起きるか分からない場所を、準備なしで追うのは嫌です」
クアイドエン。
「同意します」
テググも。
少し悔しそうに。
「俺も」
知りたい。
でも。
知りたいからこそ。
急がない。
ハフソは。
銀針へ。
最後の一針を通した。
「縫いました」
十七秒。
失われていた時間を。
自分の針で。
戻した。
*
休憩の前。
テググが。
トンネルから持ち出したのは。
落ちていた紙片一枚だけだった。
「馬車の荷札?」
「たぶん。位置と状態は記録しました」
マーカス。
「直接の証拠としては弱いです」
ハフソは。
紙へ近づく。
触れない。
残滓。
焦り。
急ぐ。
前に見たものと似る。
「同じ人?」
「そこまでは言えません」
ハフソは。
自分で先に言う。
「似た感情です。断定はしません」
マーカスが頷く。
「それで十分です」
以前なら。
見えたものを。
役立つ答えに変えなければ。
そう思った。
今は。
分からない。
似ている。
まだ決めない。
それも情報。
「紙は保管します」
クアイドエン。
「次に資料と照合する」
「はい」
テググ。
「追わなくても、持ち帰れるものはある」
追跡をやめたことが。
何もしなかったことにはならない。
ハフソは。
その考えにも少し救われた。
トンネルの外へ出る。
日差し。
風。
さっきまでと。
同じ午後。
なのに。
ハフソには。
世界の方が少し信用できなくなったように見えた。
「十七秒」
マーカスが。
何度目かの確認をする。
「入口側の記録。出口側の記録。内部の時計。全部一致しています」
「戻した間だけ?」
「差がゼロになりました」
「そのあと、また」
「十七秒」
数字は。
変わらない。
テググが。
地面へ座り込む。
「すごいこと見たのに、喜んでいいか分からない」
「分かります」
ハフソ。
「怖いです」
「俺も」
すぐ返る。
マーカスも。
「私もです」
アニサ。
「怖くない方がおかしいと思います」
クアイドエンが。
最後に。
「俺も」
全員。
怖い。
その事実が。
なぜか。
ハフソには。
少し安心だった。
自分だけが弱いのではない。
「今日は」
アニサ。
「もう針を使いません」
ハフソは。
一瞬。
反射で。
『大丈夫です』
と言いそうになり。
「はい」
言い直す。
「休みます」
十七秒を戻せたこと。
そして。
自分で止まれたこと。
どちらも。
今日の成果として。
覚えておくことにした。




