第11話 あなたの針仕事
宿へ戻ってからも。
ハフソの指は震えていた。
銀針は机の中央。
誰も触らない。
クアイドエン。
アニサ。
マーカス。
テググ。
全員がいる。
それでも。
怖い。
「十七秒」
マーカスが記録を読み上げる。
「復元中、私の時計とテググさんの時計の差はゼロへ戻りました」
「そのあと?」
「ほどけた時点で、また十七秒分の差が出ています」
完全に戻したわけではない。
一時的。
でも。
確かに戻った。
ハフソは記録された数字を見る。
自分の感覚だけではない。
マーカスの時計。
テググの時計。
入口と出口の観測。
全員が同じ十七秒を示している。
「私が見間違えたわけではない」
「はい」
マーカス。
「少なくとも、時計はそう言っています」
能力が本物だと褒められるより。
観測した事実を一緒に確かめてもらう方が、今はありがたかった。
「すごいですよ」
テググが言う。
「すごい。いや、本当に。だって時間ですよ?」
嬉しそうに言ったあと。
ハフソの顔を見て。
「あ」
声が落ちる。
「ごめんなさい」
「いいんです」
言いかけて。
ハフソは止まった。
大丈夫ではない。
「……怖いです」
自分の口から。
ちゃんと言えた。
「今は、大丈夫ではないみたいです」
アニサが。
隣の椅子へ座る。
手を握る。
「お嬢様が時間を切ったわけではありません」
「でも」
「戻したのです」
「間違えたら」
十七秒ではなく。
一時間。
一日。
人の人生。
戻す場所を間違えたら。
「私ができるからって」
声が震える。
「私がやっていい、とは限らないですよね」
誰もすぐ否定しない。
その沈黙が。
誠実だった。
想像してしまう。
別の時間を。
別の人の何かを。
誤って縫ったら。
「私が壊すかもしれない」
クアイドエンが答える。
「間違える可能性はある」
否定しない。
その方が。
ハフソには少し楽だった。
「だから一人でやらなければいい」
「でも、私が」
「あなたの針仕事です」
「え」
「時間を読むのも、縫うのも。俺にはできない」
クアイドエンは銀針ではなく。
ハフソを見る。
「だから、あなたにしかできない仕事だ」
胸が。
少しだけ。
痛くなった。
「役に立つから?」
聞きたくなかった。
でも。
聞いた。
クアイドエンは。
すぐ答えた。
「必要だから、あなたに無理をさせる理由にはなりません」
「でも」
「必要であることと、あなたがやる義務は別です」
「あなたが断ったら、俺たちは別の方法を探します」
「別の方法がなかったら」
「それでも、断る権利はあります」
「困るのに?」
「困ります」
即答。
「でも、困ることと、あなたを使っていいことは別です」
必要とされる。
使われる。
愛される。
今まで同じ場所へ置いていたものが。
少しずつ分かれていく。
ハフソは。
俯く。
元婚約者の声。
『針仕事しかできない』
その言葉を。
今まで。
誰にも言わなかった。
「婚約を解消されたとき」
自分から。
口にする。
「言われました」
アニサの手が。
少し強くなる。
「針仕事しかできない、って」
クアイドエンの眉が寄る。
「それで」
「役に立たないって」
「……なるほど」
怒っている。
静かに。
「俺にできないことを一つできる人へ、『しか』とは言えません」
言い切る。
「マーカスの計算も。テググの経路設計も。アニサの薬の知識も。俺にはできない」
テググが小さく頷く。
マーカスは視線を落としながらも。
少し。
肩を上げた。
「誰にでも、できないことがあります」
クアイドエンが続ける。
「だから、人を集める」
ハフソは。
銀針を見る。
「続けてもいいでしょうか」
「俺に許可を求めないでください」
「……はい」
「あなたが決める」
やめるなら。
別の方法を探す。
続けるなら。
一人にしない。
ハフソは。
ゆっくり。
息を吸う。
「調べたいです」
銀針へ手を伸ばす。
「この針を」
母の一族の紋章。
*
休憩のあと。
ハフソは。
新しい紙を一枚もらう。
『母について知りたいこと』
上へ書く。
一。
銀針。
二。
糸を見る力。
三。
十二年前の封鎖。
四。
止まる。
「何を書くか迷いました?」
マーカス。
「母が、どんな人だったか」
能力。
技術。
事件。
それだけでは。
母を知ったことにならない。
「好きなもの、とか」
テググ。
「仕事で怒ったこと、とか」
アニサ。
「苦手だったことも」
クアイドエン。
ハフソは。
四の横へ。
『どんな人だったか』
と書く。
資料庫で。
全部分かるわけではない。
でも。
聞く方向は。
自分で決められる。
「能力の使い方だけ知って、母のことを知った気になりたくないです」
「はい」
アニサ。
「お母様は、道具の説明書ではありませんから」
少し。
強い言い方。
ハフソは。
驚いて。
笑った。
「そうですね」
銀針。
母の道具。
でも。
母そのものではない。
「母のことを」
どうして。
自分だけが。
こういう糸を見られるのか。
「知りたいです」
「怖いまま?」
アニサが聞く。
「はい」
「それでも?」
「はい」
*
皆がそれぞれの仕事へ戻ったあと。
クアイドエンだけが。
少し遅れて席を立つ。
「何か?」
「あります」
「はい」
「今日、あなたが怖いと言ってくれてよかった」
「よかった?」
「俺が勝手に安心しなくて済んだ」
ハフソは意味を考える。
「大丈夫と言われたら、大丈夫だと思いたくなる」
「私も」
「だから、正確に言ってもらえる方が助かります」
相手を安心させるために。
大丈夫。
そう言う。
それが優しさだと思っていた。
でも。
間違った安心を渡すこともある。
「では、怖いときは怖いと言います」
「お願いします」
「クアイドエン様も」
「はい」
「怒っているときは?」
「顔に出ます」
「知っています」
「悲しいときは」
彼。
少し考える。
「言うようにします」
「喜んでいるときは」
「それも顔に出ます」
「知っています」
二人。
少し笑う。
感情を隠さない。
それだけで。
誰かと一緒にいることが。
少し楽になる。
ハフソは銀針を布へ包む。
「怖くなくなってから、では遅い気がします」
クアイドエン。
「怖いと言える人の方が、止まれます」
その言葉が。
あとで、もっと大きな意味を持つことを。
このときのハフソはまだ知らない。
今度は。
怖さを隠さずに。
自分で選んだ。
「王室資料庫に」
マーカスが言う。
「封鎖関係の旧記録があります」
次の場所が。
決まった。
母のことを。
初めて。
他人から与えられた説明ではなく。
自分で確かめに行く。
*
その夜。
ハフソは。
一人で銀針を磨かなかった。
以前なら。
道具の手入れは。
自分の仕事。
誰にも触らせない。
そう思った。
でも今日は。
「布だけお願いします」
アニサへ頼む。
「承知しました」
アニサが。
針を包む布を新しいものへ替える。
マーカスは。
昼の記録を整理。
テググは。
旧馬車道の図面を写す。
クアイドエンは。
警備隊へ報告を書く。
同じ部屋。
違う仕事。
自分だけが。
中心にいなくても。
調査は進む。
その光景を。
ハフソは少し不思議に見る。
「どうしました」
クアイドエン。
「私が何もしていなくても、進むんですね」
「進みます」
「困りませんか」
「何が」
「私が休んでいて」
クアイドエンは。
真顔。
「休む人が一人いるくらいで止まる調査なら、作り方が悪いです」
テググが。
「それ、道路も同じです」
マーカス。
「計算もです」
アニサ。
「生活もです」
最後だけ。
少し違う。
ハフソは。
笑う。
針仕事。
自分にしかできないことはある。
でも。
自分にしかできないから。
全部を自分だけでやる必要はない。
その区別も。
少しずつ分かり始めていた。




