第18話 アニサの反抗
翌朝。
空が。
まだ完全には明るくない時間。
ハフソは。
静かに。
外套を羽織った。
机。
銀針。
南側の古水路の写し。
全部。
準備してある。
アニサは。
隣室で眠っているはず。
クアイドエンたちも。
昨日遅くまで。
地図を調べていた。
だから。
今なら。
一人で行ける。
王都南側。
閉鎖された古水路。
配置図では。
その先が。
地下封鎖の中心方向へ延びている。
正式な入口は。
まだ開けてもらえない。
でも。
行けるところまで。
自分だけなら。
危険へ。
誰も巻き込まない。
そう思った。
机の上には書き置きも用意してある。
『南水路を確認してきます』
『危険なら戻ります』
自分では十分に配慮したつもりだった。
でも、その紙を見るほど。
誰にも止められないように出るための準備だと分かる。
相談ではない。
決定を終えてから報告しているだけ。
それでも今はまだ。
『私だけなら』
という考えの方が強かった。
扉。
開ける。
「お嬢様」
背後。
落ち着いた声。
ハフソの手が。
止まる。
「アニサ」
侍女は。
寝間着ではない。
もう。
外へ出られる格好。
「おひとりで行くおつもりですね」
「起きていたの」
「はい」
「どうして」
「お嬢様が」
アニサ。
「一人で全部背負おうとしている顔をしていましたので」
見抜かれた。
「危険かもしれません」
「存じています」
「私にしか糸は見えません」
「はい」
「だから」
言う。
「危険なら、私だけの方が」
「従うことと、見捨てることは違います」
ハフソは。
振り返る。
アニサの顔。
穏やか。
でも。
今日は。
はっきり。
怒っている。
「私はお嬢様に従います」
「アニサ」
「でも、一人で危険へ行くお嬢様を見送るのは、従うことではありません」
「私は」
「お嬢様は、誰かを巻き込みたくないのですね」
「はい」
「では、私が自分で決めて一緒に行くことも」
アニサ。
「お嬢様が止めるのですか」
言葉が。
止まる。
自分で選びたい。
そう。
ずっと。
思ってきた。
なのに。
他人が。
自分を助けると決めることは。
許さない。
それは。
違う。
「だから」
アニサ。
小さく。
「反抗いたします」
「私が怖いのですか」
「はい」
アニサは即答した。
「お嬢様が危険へ行くことも。お嬢様が、ご自分を数に入れないことも」
「私を」
「誰かが危険になるなら、自分一人で済ませようとなさる」
静かな声。
「それは優しさに見えます。でも、お嬢様ご自身を大切にしている人の気持ちは、計算から外れています」
ハフソは返せない。
自分が傷つくなら他人よりまし。
そう考えやすかった。
でも。
自分が傷つけば、傷つく人もいる。
そのことを、ほとんど考えていなかった。
「反抗」
「はい」
「アニサが」
「初めてでしょうか」
少し。
考える。
「たぶん」
「では、記念日ですね」
思わず。
ハフソが。
笑う。
そのとき。
廊下。
足音。
「記念日なら」
テググ。
地図筒を持っている。
「俺も参加していいですか」
「なぜ」
「南水路の構造、工務局の資料がないと分からない場所ありますよ」
後ろ。
マーカス。
紙束。
「測定点も必要です」
「皆さん」
「昨日」
マーカス。
「ハフソさんが、水路へ一人で行きそうだと」
「誰が」
「アニサさんが」
アニサ。
何事もない顔。
「相談しました」
相談。
自分だけで抱えず。
先に。
人へ。
伝えた。
それも。
今のハフソには。
少しまぶしい。
最後。
階段。
クアイドエン。
「俺には知らせないつもりでしたか」
「……はい」
「理由は」
「危険だから」
「だから、俺を置いていく?」
「はい」
「自分で選ぶことを覚えた次は」
クアイドエンが。
ハフソを見る。
「助けてもらう覚悟も持ってくれ」
「助けてもらう方が、怖いです」
「なぜ」
「返せないかもしれないから」
クアイドエンが目を細める。
「また返す話ですか」
サンドイッチを思い出す。
「……はい」
「助けたら同じだけ返してほしいと、俺は思っていません」
「俺も」
テググ。
「私もです」
マーカス。
アニサ。
「私は侍女ですので給金はいただいております」
「アニサ」
「冗談です」
珍しい。
ハフソが笑う。
「返せるときに、返したい相手へ返せばいい」
クアイドエン。
助けは、借金ではない。
その意味が少し分かった。
胸へ。
残る。
「助けてもらう」
「俺たちにも、選ぶ権利があります」
自分たちが。
危険を分かったうえで。
一緒に行く。
それを。
ハフソが。
安全のため。
奪ってはいけない。
「……分かりました」
完全には。
まだ。
慣れない。
でも。
「一緒に来てください」
初めて。
頼む。
テググが。
すぐ笑う。
「はい」
マーカスも。
頷く。
アニサは。
「承知しました」
いつもの言葉。
でも。
今日は。
意味が違って聞こえた。
*
五人で。
南の古水路へ。
古い鉄扉。
湿った空気。
水の音。
閉鎖区画の手前。
ハフソには。
銀色の糸。
一本。
長く。
奥へ。
続いている。
「時間欠落の黒い切れ目ではありません」
「正常な経路?」
マーカス。
「たぶん」
テググが。
壁の導水図を見る。
「これ、古い封鎖工事の経路だ」
テググが錆びた配管札を布で拭く。
「十二年前の工事番号と同じです」
マーカスが地図を見る。
「表の道路線にはありません」
「地下へ資材を運ぶ水路脇通路だったんでしょう」
ハフソは奥を見る。
暗い。
一人なら、あの奥まで進んでいた。
でも。
専門知識を持つ二人は入口だけで新しい情報を見つけた。
一人で早く進むことより。
複数人で正しく進む方が、結局は早い。
それを体で理解する。
マーカスが。
刺繍地図の写しへ。
定規を当てる。
銀糸。
既知の経路。
総延長。
何度も。
計る。
「足りない」
「何が?」
「地図に記録された銀糸の総延長です」
彼の声。
小さい。
でも。
興奮している。
「これまで判明した経路より、長い」
「隠れた経路がある?」
「はい」
南の水路。
その先。
地図の裏側。
まだ。
読めていない部分。
「戻りましょう」
ハフソが言う。
以前なら。
一人で。
奥まで。
行った。
今は。
「五人で」
情報を。
持ち帰る。
「地図を、もう一度調べます」
その判断も。
逃げではない。
ハフソは。
少しずつ。
分かり始めていた。
*
水路から戻る道。
先頭はテググ。
足場と配管を確認する。
次にマーカス。
歩数と距離を数える。
アニサは。
ハフソの後ろ。
最後。
クアイドエン。
一人で来ていたら。
暗い道を。
自分だけで見て。
自分だけで判断して。
たぶん。
もっと奥まで行った。
「ここで戻って正解でしたか」
ハフソ。
「正解だったかは、資料を見てからです」
テググ。
「今は?」
「安全に情報を持ち帰れる。それで十分です」
正解。
失敗。
すぐ決めなくていい。
途中。
あの言葉を思い出す。
「一人では無理だから、一緒に来てくださいと言いました」
ハフソ。
マーカス。
「私一人でも無理です」
テググ。
「俺も。道路しか分からない」
アニサ。
「私も、薬と体調だけです」
クアイドエン。
「俺も全部は分からない」
全員。
足りない。
だから。
組み合わせる。
ハフソだけが。
足りない人なのではない。
明るい入口へ出たとき。
その当たり前が。
少しだけ身体へなじんだ。
「戻る判断も、進む判断と同じくらい必要です」
クアイドエン。
「はい」
逃げたのではない。
五人で。
次へ進むために戻った。
そう思えた。




