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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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17/20

第17話 愛される資格

 元婚約者が訪ねてきたのは。


 南の古水路の調査準備をしている午後だった。


 宿の応接室。


 アニサが。


 「お会いになりますか」


 と聞く。


 以前なら。


 断るという選択肢を。


 最初から考えなかったかもしれない。


 婚約を解消した相手。


 それでも。


 家同士のつながりはある。


 無視すれば失礼。


 そう考えたはず。


 今は。


 一度。


 自分に聞く。


 会いたいか。


 「……会います」


 返事をしたあと、指先が冷たくなる。


 「お茶をお出ししますか」


 「……お願いします」


 「いつもの?」


 婚約していた頃、彼が好んでいた茶葉。


 ハフソは少し考えた。


 「いいえ。私が好きな方を」


 アニサがほんの少し目を見開く。


 「承知しました」


 小さなこと。

 でも。

 これから話す相手へ合わせるためではなく、自分が飲みたい茶を選んだ。


 その一杯が。

 これから言う言葉の予行演習のように思えた。


 逃げたくない。


 でも。


 戻りたいわけでもない。


     *


 男は。


 以前と変わらない服装。


 以前と変わらない姿勢。


 以前と変わらない。


 自分が正しいと疑っていない顔。


 「久しぶりだな」


 「はい」


 「調査に参加しているそうだ」


 ハフソの胸が。


 少し。


 固くなる。


 「どこで」


 「王宮で噂になっている」


 あくまで。


 噂。


 詳しい内容は知らないらしい。


 「特殊な刺繍技術を持っていて、王家の調査へ協力していると」


 「そうですか」


 「なら」


 男が。


 少し。


 表情を和らげた。


 その顔を。


 ハフソは。


 昔。


 ずっと見たかった。


 自分へ向けてほしかった。


 「婚約を戻してもいい」


 時間が。


 一瞬。


 止まった気がした。


 「……戻す?」


 「君の力が、王家にとって重要なら」


 言葉は。


 まっすぐ。


 悪意すらない。


 「以前とは事情が違う」


 「何が違うのですか」


 「君の力には価値がある」


 「以前は?」


 男が言葉に詰まる。


 「あなたは、以前の私の何を好きだったのですか」


 沈黙が長い。


 「家同士の婚約だった」


 「はい」


 「君は穏やかで、従順で」


 「それは、好きだった?」


 「妻として適していると思っていた」


 胸は痛む。

 でも、もう崩れない。


 自分も。

 この人自身をどれだけ見ていたのだろう。


 愛されることばかり考えて。

 自分がこの人を愛しているかすら、よく分からないまま婚約者でいた。


 そのことまで。

 今は見える。


 ハフソの手。


 膝の上。


 以前なら。


 震えた。


 嬉しさで。


 あるいは。


 捨てられなくて済む安堵で。


 今は。


 違う。


 胸の中へ。


 冷たいものが。


 静かに落ちる。


 価値がある。


 役に立つ。


 だから。


 妻にしてもいい。


 それは。


 婚約を解消した日の言葉と。


 何も。


 変わっていない。


 「必要だから妻にするというお話なら、以前と何も変わりません」


 自分でも。


 驚くほど。


 声は穏やかだった。


 男が。


 黙る。


 「何を」


 「以前は」


 ハフソ。


 「役に立たないから、妻にはできないとおっしゃいました」


 「それは」


 「今は、役に立つから戻してもいい」


 目を見る。


 「同じです」


 男の顔に。


 初めて。


 困惑が出た。


 「君のためでもある」


 「私の?」


 「王家に必要とされる力を持つなら、それにふさわしい立場が必要だ」


 昔なら。


 安心したかもしれない。


 将来を。


 代わりに決めてくれる。


 「私の将来を」


 一語ずつ。


 「私より先に決めないでください」


 「ハフソ」


 「私は」


 怖い。


 まだ。


 怖い。


 長いあいだ。


 この人に選ばれることで。


 自分の価値を証明しようとしていた。


 その人へ。


 いらないと。


 言う。


 「あなたと結婚したくありません」


 言えた。


 男の表情が。


 固まる。


 「役に立つことが」


 ハフソは。


 自分の胸へ。


 言い聞かせるように。


 「愛される資格ではないと思います」


 「誰かに吹き込まれたのか」


 その言葉に。


 ハフソは。


 少しだけ。


 笑った。


 「いいえ」


 誰かに。


 教えてもらったことはある。


 でも。


 「私が決めました」


 「誰かに選ばれたからではありません」


 ハフソ。


 「婚約を解消されたから、反対したくなったわけでもない」


 手はまだ冷たい。


 「今の私は、自分が何を嫌だと思うかを、前より少し分かります」


 「それだけで婚約を断るのか」


 「一緒にいて、自分を小さくし続ける相手とは暮らしたくないです」


 初めて。

 自分の望みを相手へ説明する。


 誰かを責めるためではなく。

 自分の人生の条件として。


 それが。


 何より。


 大事だった。

     *


 男が去る。


 扉が。


 閉まる。


 ハフソは。


 椅子の背へ。


 そっと。


 身体を預けた。


 全身から。


 力が抜ける。


 「お嬢様」


 アニサ。


 「怖かったです」


 「はい」


 「でも」


 涙が。


 少し。


 出る。


 「戻りたくなかった」


 「はい」


 アニサは。


 それ以上。


 言わない。

     *


 廊下へ出ると。


 窓の前に。


 クアイドエンがいた。


 「聞いていましたか」


 「全部ではありません」


 少し。


 気まずそう。


 「声が聞こえた部分は」


 「そうですか」


 「すみません」


 「いえ」


 ハフソは。


 窓の外を見る。


 「戻らなくてよかった」


 クアイドエンが言う。


 胸が。


 小さく鳴る。


 「調査の仲間として?」


 聞いたあと。


 自分でも。


 大胆な質問だと思う。


 クアイドエンが。


 珍しく。


 言葉に詰まった。


 「……それだけではありませんが」


 ハフソは。


 顔を上げる。


 目が。


 合う。


 前なら。


 すぐ逸らした。


 今は。


 少し。


 待つ。


 「今はいいです」


 クアイドエンが。


 困ったように笑う。


 「俺にも考える時間をください」


 「何を考えるのですか」


 「どう言えば、あなたの選択を急かさずに済むか」


 クアイドエンが少し困った顔をする。


 「俺は、感情が顔に出ると言われます」


 「少し」


 「少し?」


 「かなり」


 ハフソが笑う。


 「今すぐ言えば、俺が欲しい答えを、あなたに選ばせるかもしれない」


 欲しい答えがある。

 それでも押しつけないために時間を取る。


 「では、私も急ぎません」


 「ありがとうございます」


 「でも、考えたあと、ちゃんと言ってください」


 「約束します」


 「時間を?」


 「きちんと言葉にする時間です」


 時間。


 今。


 この事件の中で。


 何より重いもの。


 ハフソは。


 少し笑った。


 「はい」


 胸の奥。


 小さな期待。


 それを。


 恥ずかしいものとして。


 押し込めなかった。


 期待しても。


 いい。


 でも。


 選ぶのは。


 最後まで。


 自分だ。

     *


 部屋へ戻ったあと。


 朝、自分で選んだ茶がまだ少し残っていた。


 元婚約者はほとんど口をつけなかった。


 それでも。

 味は変わらない。


 ハフソは一口飲む。


 「寂しくありませんか」


 アニサ。


 「少し」


 正直に答える。


 「戻りたくないのに、終わったことは寂しいです」


 「長く続いたものですから」


 婚約が決まった日。

 新しい衣装。

 贈られた花。

 うまくやろうと必死だった自分。


 全部を。

 間違いだったことにしなくていい。


 「昔の私まで、嫌いにならなくていい?」


 「はい」


 「その頃のお嬢様も、そのときできることをしておりました」


 ハフソは。

 目を閉じる。


 婚約へは戻らない。


 でも。

 婚約していた自分まで。

 切り捨てなくていい。


 過去を直すのではなく。

 過去としてつなぐ。


 母の地図で見つけた考えが。

 自分の人生にも少し重なった。


 廊下。


 クアイドエンの声。


 「その茶、好きなんですか」


 「はい」


 「なら覚えておきます」


 「でも、毎回同じにしなくていいです」


 「では、俺の好きな濃い紅茶も並べます」


 「二つ?」


 「二つです」


 どちらかへ合わせなくてもいい。


 二つ。

 並べればいい。


 その未来を。

 少しだけ想像して。


 ハフソは。

 胸の小さな期待を。

 今度も押し込めなかった。

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