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愛されたいだけなのに婚約を解消された針仕事令嬢は、途切れた時間を縫い直して辺境伯に愛される  作者: 乾為天女


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第16話 正しい人

 資料庫を出たあと。


 誰も。


 すぐには話さなかった。


 廊下。


 窓。


 夕方。


 王都。


 いつもと同じ。


 たくさんの人。


 その全員から。


 少しずつ。


 時間を取る。


 窓の下。


 母親に手を引かれた子ども。

 店先で帳簿をつける男。

 荷物を運ぶ女。

 衛兵。

 学生。


 誰も、自分の時間が王宮の計算表へ載っているとは知らない。


 数分。


 その数分に何があるかは、人によって違う。


 子どもの最初の言葉かもしれない。

 誰かへ謝る時間かもしれない。

 ただ眠っているだけかもしれない。


 短いから小さいとは、言い切れない。


 数分。


 短い。


 死なない。


 たぶん。


 誰も。


 大きくは傷つかない。


 「筋は」


 マーカスが。


 ようやく言う。


 「通っています」


 テググが。


 顔をしかめる。


 「それが嫌なんだよな」


 「はい」


 「めちゃくちゃな案なら、反対しやすいのに」


 グルアシエルアは。


 正しい人。


 ハフソは。


 一瞬。


 そう思った。


 三百人を殺さない。


 全員へ。


 薄く。


 負担。


 公正。


 自分も。


 含む。


 誰か一人へ。


 犠牲を押しつけない。


 正しい。


 「お嬢様」


 アニサ。


 ハフソが。


 立ち止まっている。


 「私」


 言う。


 「危なかったです」


 「何が?」


 「正しい人だって」


 クアイドエンが。


 こちらを見る。


 「思ったら」


 続ける。


 「従えばいいって、思いそうになった」


 「正しい人が決めるなら、私が考えなくて済む」


 口にして、自分で怖くなる。


 「婚約していたときも、誰かが決めた形へ入れば間違えないと思っていました」


 クアイドエン。


 「今は?」


 「間違えても」


 息を吸う。


 「自分で考えたいです」


 正解を必ず選べるわけではない。


 でも。

 考えることまで渡したくない。


 婚約していた頃。


 相手が。


 決める。


 自分は。


 合わせる。


 役に立てる形へ。


 自分を。


 変える。


 そうすれば。


 考えなくて済む。


 「グルアシエルア様は」


 ハフソ。


 「きっと、私よりたくさん考えています」


 「そうでしょう」


 「数字も。国全体も」


 「はい」


 「だから」


 正しいなら。


 任せればいい。


 でも。


 その正しさの中で。


 誰かの時間が。


 勝手に。


 取られる。


 「二つから選ぶ必要がありますか」


 クアイドエンが言った。


 ハフソが。


 顔を上げる。


 「三百人か、全国民か」


 彼は。


 いつものように。


 答えを決めない。


 「その前に、第三の方法を探しましょう」


 「第三がない可能性もあります」


 マーカス。


 「あります」


 クアイドエン。


 「探して、見つからないかもしれない」


 「その場合は?」


 テググ。


 「そのとき初めて、二つを比べる」


 その順番に。

 ハフソは救われる。


 最初から選択肢が二つしかないと決めない。


 探す時間を。

 自分たちへ与える。


 「第三」


 「十二年前とは条件が違う」


 クアイドエン。


 指を折る。


 「ハフソは、十七秒を戻した」


 「一時的です」


 「それでも」


 次。


 「マーカスは時間差を計算できる」


 マーカスが。


 少し驚いて。


 頷く。


 「テググは経路を読める」


 「はい」


 テググ。


 すぐ。


 返事。


 「アニサは薬を見抜いた」


 「はい」


 「俺は」


 少し考える。


 「現場をつなぐくらいはできる」


 「くらい、ですか」


 ハフソが。


 思わず聞く。


 「あなたも言うんですね」


 「何を」


 「『しか』『くらい』」


 クアイドエンが。


 止まる。


 テググが。


 笑う。


 「辺境伯も説教されてる」


 「……反省します」


 ハフソも。


 少しだけ。


 笑う。


     *


 母の言葉。


 『戻す』


 『切られたものを』


 戻せるなら。


 誰かから。


 新しく奪わなくていい。


 ただ。


 どうやって。


 まだ。


 分からない。


 「三百人を殺したくない」


 ハフソは。


 言う。


 「誰かの時間も、勝手に奪いたくない」


 息を吸う。


 「その二つから」


 今までの自分なら。


 選べと言われたら。


 選んだ。


 正しい方。


 迷惑の少ない方。


 偉い人が。


 決めた方。


 「選びません」


 自分で。


 言う。


 「別の答えを探します」


 否定するだけでは。


 足りない。


 グルアシエルアが。


 見つけられなかった答えを。


 実際に。


 出す。


 「見つかったとして」


 マーカスが。


 小さく。


 「最後は」


 「はい」


 「グルアシエルア様の協力が必要かもしれません」


 徴収装置。


 王室記録。


 封鎖。


 彼女なしでは。


 動かせない。


 ハフソは。


 少し考え。


 「そのときは」


 答える。


 「説得します」


 「できると思いますか」


 マーカス。


 「分かりません」


 ハフソ。


 「グルアシエルア様は、理屈で動く人です」


 テググ。


 「なら理屈を持っていけばいい」


 「数字だけでは、おそらく足りません」


 アニサ。


 クアイドエン。


 「だから五人で持っていく」


 「五人?」


 「今は、まだ五人です」


 グルアシエルアがこちら側へ来るかは分からない。


 でも。

 その可能性まで最初から消さない。


 正しい人へ。


 従うのではなく。


 同じ答えを。


 選んでもらうために。


 話す。



     *


 五人は。

 紙を三列に分けた。


 『分かっていること』

 『分からないこと』

 『変えてはいけないこと』


 分かっている。


 十二年前。

 三百人の時間は。

 消費されたのではなく。

 地下へ押し込められた。


 今の欠落は。

 試験運用で起きている。


 銀針は。

 短い欠落なら戻せる。


 分からない。


 六地点。

 封鎖全体。

 戻したときの負荷。


 そして。


 変えてはいけない。


 「新しい犠牲を作らない」


 ハフソ。


 「三百人をもう一度消さない」


 クアイドエン。


 「全国民から勝手に取らない」


 アニサ。


 「現在の歴史を壊さない」


 マーカス。


 「道を壊さない」


 テググ。


 全員。


 少し。

 彼を見る。


 「大事ですよ」


 「はい」


 笑い。


 条件が多い。


 でも。

 条件は。

 邪魔ではない。


 守りたいものを。

 見失わないための線。


 「答えが出なくても」


 ハフソ。


 「この線の外へは行かない」


 「はい」


 五人。


 同意する。


 正しい人を探すのではなく。


 自分たちで。

 正しくありたい条件を決める。


 そこから。

 やり直す。


 「まず」


 テググが。


 すぐ明るくなる。


 「地図ですね」


 「裏側も」


 マーカス。


 「まだ全部測っていません」


 「南の古水路も気になります」


 アニサ。


 それぞれ。


 できること。


 違う。


 ハフソは。


 五人を見る。


 一人で。


 全部。


 やらなくていい。


 それを。


 やっと。


 少し。


 信じられるようになっていた。


     *


 その日の夜。


 五人は。

 資料庫ではなく。

 宿の小さな食堂へ集まった。


 紙を広げる前に。


 食事。


 「今日は、先に食べます」


 ハフソ。


 「偉い」


 テググ。


 「褒め方が子どもです」


 「すみません」


 マーカスは。

 スープを飲みながら。

 もう余白へ数字を書いている。


 「食べながら計算しない」


 アニサ。


 「はい」


 クアイドエンが。

 少し笑う。


 ハフソも。


 世界の時間が。

 切られている。


 国中から。

 時間を取る計画がある。


 三百人の過去。


 母の嘘。


 重いものばかり。


 それでも。


 食べる。


 笑う。


 眠る。


 そういう時間を。

 自分たちから先に捨てない。


 食事が終わってから。


 五枚の紙を。

 中央へ置く。


 テググ。

 道。


 マーカス。

 数字。


 アニサ。

 薬。


 クアイドエン。

 現場と王室。


 ハフソ。

 糸と銀針。


 「一つずつなら」


 ハフソ。


 「足りない」


 「はい」


 「でも」


 地図の中央。


 「縫い合わせれば」


 まだ。

 答えではない。


 でも。


 第三の方法は。

 一人の天才が見つけるものではなく。


 五人の間から。

 生まれるのかもしれない。


 「明日は」


 ハフソ。


 「地図の裏を、全部見ましょう」


 「了解」


 テググ。


 「計算します」


 マーカス。


 「薬品記録も持ちます」


 アニサ。


 「俺は許可を取る」


 クアイドエン。


 五人。


 違う声。


 同じ方向。


 ハフソは。


 一人で全部やらなくていいことを。


 昨日より。

 もう少し強く信じた。

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