第14話 母が縫った嘘
母の死亡記録は。
同じ資料庫の。
別の台帳にあった。
十二年前。
封鎖作業の翌日。
『死亡』
ハフソは。
その文字を見て。
胸が。
少し。
冷たくなる。
知っていたこと。
母は。
自分が幼い頃に亡くなった。
今まで。
ずっと。
そう聞いてきた。
葬儀の記憶は、ほとんどない。
黒い服。
大人たちの声。
母はもう会えないのだと、誰かに言われたこと。
幼いハフソは泣いた。
でも、周囲が困るほど泣いてはいけないと思い。
途中から黙った。
それから。
母のことを聞く回数も減らした。
聞けば誰かの顔が曇る。
自分が黙れば家は静か。
そうやって。
母との時間まで、自分から小さくしてきた。
「確認印が」
マーカス。
「一つ足りません」
「何の?」
「死亡確認です」
台帳の欄。
本来。
二つ必要。
一つ。
空白。
「じゃあ」
ハフソ。
「生きていた?」
「まだ言えません」
マーカスは。
慎重に答える。
「記録の抜けだけなら、作業時の混乱でも起こります」
そう。
決めつけない。
ハフソも。
頷く。
そのとき。
銀針が。
震えた。
「お嬢様」
アニサ。
巨大な刺繍地図。
母が縫った。
銀糸。
淡く。
針へ。
応えている。
「待ってください」
ハフソは。
銀針を取る。
十二年前。
母が使った針。
母が縫った地図。
なら。
「記録だけじゃなく」
「何を?」
「残っているものを」
読めるかもしれない。
刺繍地図。
端。
銀糸。
布を傷つけないよう。
一本の糸の。
下へ。
銀針を通す。
*
景色が。
流れ込んだ。
暗い部屋。
薬の匂い。
息。
苦しい。
包帯。
細い腕。
母の手。
顔は。
はっきりしない。
でも。
ハフソには。
分かった。
『娘は親族へ』
声。
かすれている。
『死亡記録は、そのままにしてください』
誰かが。
何か。
問い返す。
母が。
首を横へ。
『私が生きていると知れば、あの子は探します』
息をするだけで。
痛そうなのに。
声は。
はっきり。
『探せば、また王室に見つかる』
『あの子には知らせないで』
最後。
母の指が布へ触れる。
銀糸。
針。
その手は震えていた。
守りたい。
怖い。
会いたい。
複数の感情が糸の中で絡まっている。
愛していたから平気だった。
そんな記憶ではない。
母も苦しんで選んだ。
それだけは伝わる。
そこで。
記憶が切れた。
*
「お嬢様!」
アニサの声。
ハフソは。
現実へ戻る。
銀針を。
抜く。
「……生きていました」
「何が見えました」
「お母様」
喉が。
詰まる。
「封鎖のあとも。お母様は、生きていました」
嬉しい。
違う。
苦しい。
会えた可能性。
隠されたこと。
全部。
一度に。
来る。
でも。
ハフソは。
泣く前に。
台帳を見る。
「確認します」
「お嬢様?」
「記憶と」
銀針。
「記録の両方を」
今。
見たものだけで。
全部を。
決めない。
*
「待ってください」
ハフソは。
記憶が切れたあと。
すぐ言った。
「これだけで、真実だと決めたくありません」
クアイドエン。
「記憶を疑う?」
「母を疑う、ではなく」
銀針。
「私の読み方が間違っている可能性もあります」
感情。
記憶。
強いほど。
自分の願いが混ざるのが怖い。
「生きていてほしかったから」
声。
少し震える。
「そう見えたことにしたくない」
マーカス。
「では、独立した記録を探します」
アニサ。
「医療物資の出納」
テググ。
「封鎖後の搬送経路」
クアイドエン。
「死亡記録の原本と訂正履歴」
四人。
すぐ。
別の確認方法を出す。
ハフソは。
息を吐く。
母の記憶を。
信じたい。
でも。
信じたいからこそ。
確かめる。
「お願いします」
記憶は。
一つの証拠。
それだけで。
全部を決めない。
そのあと。
机へ。
公文書が積まれた。
*
裏取りは。
一つの台帳だけでは終わらなかった。
封鎖翌日の死亡台帳。
確認印。
一つ欠け。
次。
三か月後の医療物資出納。
同じ秘密番号。
包帯。
鎮痛薬。
栄養剤。
銀糸。
「死亡者へ継続支給は不自然です」
マーカス。
次。
搬送記録。
封鎖区画から。
王都西の療養施設へ。
氏名は伏せられている。
でも。
秘密番号は同じ。
「別の人へ番号を使った可能性は?」
ハフソ。
「あります」
テググ。
「だから、まだ一本では足りない」
次。
施設側の受領簿。
担当医の印。
年月日。
同じ。
さらに。
母自身の申請文。
筆跡。
『娘を親族へ預ける』
『私の死亡記録は訂正しない』
別部署。
別書式。
別の人の印。
同じ事実へ。
少しずつ重なる。
「今なら」
ハフソ。
「記憶だけではないと言えます」
「はい」
マーカス。
「複数の独立記録が一致しています」
真実だと確かめることと。
真実を受け入れられることは。
また別。
ハフソは。
確認が終わったあとで。
ようやく。
「お母様は、生きていた」
自分の言葉として。
もう一度言った。
「私を」
守るため。
それは。
分かる。
でも。
「だったら」
声が。
割れた。
「一度くらい、会いたかった」
「守るためなら、何をしてもいいわけじゃない」
自分でも驚く。
母へ怒っている。
死んだと思わせたこと。
会う機会を奪ったこと。
愛されていた証拠を見つけたのに。
傷ついたことまで消えない。
「私に、選ばせてほしかった」
会うか。
会わないか。
危険を知るか。
幼かった自分に全部は無理でも。
その痛みを。
なかったことにはしたくなかった。
誰も。
それを否定しない。
アニサが。
隣へ。
いる。
クアイドエンも。
何も言わず。
待っている。
*
六年前。
もう一つの死亡記録。
今度は。
確認印が。
そろっている。
『旧封鎖作業時の損傷に起因する慢性的衰弱』
十二年前の傷。
それを抱えて。
六年。
生きた。
会わずに。
守った。
最後の追記。
『十二年前の封鎖は完成していない』
『押し込めただけで、戻してはいない』
『次に封が弱るとき、同じ選択をしてはならない』
「同じ選択」
マーカス。
「十二年前と同じ方法を使うな、という意味でしょうか」
「たぶん」
クアイドエン。
「何をしたか知らないと判断できない」
母は。
自分の死だけでなく。
王都全体の別の嘘も残している。
次へ進まなければならない。
でも今だけ。
母のことで泣く時間を。
ハフソは自分へ許した。
母は。
ハフソを捨てたのではなかった。
でも。
愛されたから。
全部。
許せるわけではない。
守られたから。
会いたかった痛みが。
消えるわけでもない。
「知れてよかった」
涙。
「でも」
次。
「会いたかった」
二つ。
同時に。
抱えていい。
ハフソは。
初めて。
そう思えた。
*
資料庫を出たあと。
ハフソは。
しばらく歩けなかった。
廊下の長椅子へ座る。
泣いたあと。
身体が重い。
「お茶を」
アニサ。
「お願いします」
以前なら。
何かしなければ。
次を調べなければ。
そう思った。
今は。
母のことで。
止まる。
クアイドエンは。
向かいではなく。
一つ隣の椅子へ座った。
近すぎない。
遠すぎない。
「母を」
ハフソ。
「許した方がいいと思いますか」
「俺が決めることではありません」
即答。
「では、あなたなら」
「分かりません」
「分からない?」
「親と同じ経験がないので」
できないことを。
できるふりをしない。
それも。
この人の安心するところ。
「ただ」
クアイドエン。
「愛していたことと、傷つけたことは両立すると思います」
「はい」
「あなたが愛されたことと、傷ついたことも」
「はい」
どちらか。
一つにしなくていい。
ハフソは。
温かい茶を受け取る。
「今日は」
アニサ。
「ここまでにしましょう」
「……はい」
母の死を知った日。
調査を進めなかった時間も。
無駄ではないと思えた。




