第13話 十二年前の刺繍
巨大な刺繍地図は。
机一つでは広げきれなかった。
二台。
さらに補助台。
ようやく。
全体が見える。
王都。
城壁。
門。
広場。
水路。
街道。
細かな建物まで。
針で。
縫われている。
刺繍として見ても異様な精密さだった。
屋根は短い斜線。
水路は青灰色。
主要街道は太い麻糸。
地下へ向かう線だけが銀。
「これを一人で?」
「主刺繍師を中心に複数人です」
記録係。
「設計と最終接続は主刺繍師」
母。
針仕事しかできない。
自分へ投げられた言葉。
でも十二年前。
都市を支える仕事に、針仕事が使われていた。
悔しさと誇らしさが同時に来る。
「縮尺」
マーカスが。
すぐ定規を当てる。
「かなり正確です」
「当時の測量図より?」
「ほぼ同じ」
テググが。
銀糸を追う。
「これ、道だけじゃない」
「何が?」
「工事経路もある」
現在は閉じられた旧馬車道。
北の消失道路。
水路。
今回。
時間欠落が起きた場所。
「重なってる」
ハフソの銀針。
地図へ近づける。
反応。
銀糸。
淡く。
光る。
「この線」
ハフソには。
感情残滓ではない。
もっと古い。
目的を持った糸に見えた。
何かを。
つなぐための。
*
付属記録。
マーカスが。
一枚ずつ読む。
『王都地下封鎖補助図』
「地下封鎖」
クアイドエン。
「十二年前」
テググ。
次。
『感情残滓の読取および接続』
「今、お嬢様が読んでいるものと同じ?」
アニサ。
「おそらく」
記録には。
『布・糸・紙・木・革製品等の残滓を読取』
『位置情報と接続』
石は含まれない。
残された品。
身につけた布。
手紙。
道具。
「母も、同じものを見ていた」
自分だけの奇妙な癖だと思っていた力へ。
過去がつながる。
担当者。
主刺繍師。
名。
ハフソの喉が。
止まる。
母の。
名前。
「……お母様」
知っている名。
家の古い系譜で。
何度か見た。
でも。
こんな記録で。
見るとは思わなかった。
「本当に」
ハフソは。
指で。
文字の上を触れないようになぞる。
「ここにいたんですね」
母の顔は。
もう記憶の中で、はっきりしない。
でも。
この文字。
この地図。
ここへ確かにいた。
誰かの母としてだけではない。
一人の技術者として。
責任を持って。
王都の地下へ向き合っていた。
ハフソは初めて。
母の人生に、自分が知らない長さがあったことを実感する。
アニサが。
隣へ立つ。
記録の先。
『銀製長針 一』
特徴。
柄に。
母方一族の紋章。
「これ」
ハフソは。
赤い箱の銀針を。
机へ置く。
記録と。
同じ。
「返却欄」
マーカスが言う。
「空白です」
「返されていない?」
「少なくとも、この台帳上は」
ハフソは、銀針の柄に刻まれた紋章を親指でそっとなぞった。
十二年前から今まで、どこを渡ってきたのかは分からない。
ただ、母が使ったものが今ここにある。
十二年前。
母が使った。
銀針。
それが。
今。
赤い箱から。
ハフソの手へ。
戻った。
*
地図の端。
縫い始めの印。
ハフソは。
そこへ顔を近づける。
「ここ」
「何があります?」
テググ。
「糸の順番です」
街道。
水路。
地下。
線が重なるところだけ。
針穴の向きが違う。
「接続の優先順位?」
マーカス。
「たぶん」
ハフソは。
空中で。
指だけ動かす。
一本目。
二本目。
三本目。
母が。
この地図へ針を通した順番を。
想像する。
「途中で糸を切っていません」
「全部?」
「少なくとも、この区画は」
長い糸。
一度。
別の場所へ潜り。
また出る。
「切らずにつなぐための縫い方」
自分で言って。
胸が。
少し鳴る。
十二年前。
母は。
封鎖を作る中で。
切らない方法も。
考えていたのかもしれない。
断定はできない。
「記録へ」
ハフソ。
「『可能性』と書いてください」
マーカス。
「はい」
分かった気にならない。
でも。
見つけたものは残す。
その一つ一つが。
母の仕事を。
神秘ではなく。
技術として見せてくれる。
「裏を」
銀針が。
地図の端で。
小さく震えた。
「裏?」
巨大な地図。
簡単には返せない。
五人で。
慎重に。
持ち上げる。
裏側。
表からは。
普通の縫い代にしか見えなかった糸。
でも。
ハフソには。
銀色の文字が。
浮かぶ。
『この地図は封じるためのものではない』
「読めます」
声が震える。
次。
『切られたものを、戻すために残す』
「切られたもの、って」
テググ。
全員が同じものを思い浮かべる。
道。
十七秒。
クアイドエンの三時間。
「十二年前にも、時間を切る技術があった?」
マーカス。
「可能性は高い」
クアイドエン。
封じる。
ではなく。
戻す。
母が残した、その言葉の差が。
急に重くなる。
「戻す」
ハフソは。
口にする。
「封印じゃない?」
テググ。
「封鎖補助図と書いてあるのに」
マーカスが考える。
「表向きの用途と、裏側の目的が違う?」
「母が」
ハフソは。
銀糸を見つめる。
「残した」
誰へ。
いつか。
この糸が読める人へ。
自分へ。
そう思うのは。
都合がよすぎるかもしれない。
でも。
銀針は。
今。
ハフソの手にある。
「十二年前の封鎖は」
クアイドエン。
「押し込めたものがある?」
「たぶん」
母の言葉。
『切られたもの』
『戻す』
時間。
今の異常。
全部が。
少しずつ。
同じ場所へ向かっている。
「お母様は」
ハフソが。
地図へ言う。
「何を知っていたんでしょう」
その問いに。
答えるように。
銀針が。
地図の端で。
強く。
震えた。
*
巨大地図の全体を。
もう一度。
少し離れて見る。
刺繍。
王都。
一本一本。
小さな糸。
それが。
街全体の形を作っている。
「不思議ですね」
ハフソ。
「何が?」
テググ。
「一本なら、ただの糸なのに」
道。
水路。
建物。
「集まると、こんなに大きなものになる」
マーカスが。
地図を見る。
「数字も似ています」
「一つだと?」
「ただの値です。並ぶと、意味が見える」
テググ。
「道路も。一本だけじゃ町にならない」
アニサ。
「人も、でしょうか」
全員。
少しだけ黙る。
ハフソは。
母の名をもう一度見る。
母一人では。
この地図を完成させていない。
複数の刺繍師。
測量。
工務。
多くの手。
母も。
一人ではなかった。
その事実を。
なぜか。
とても大切に思った。
「私も」
銀針へ触れる。
「一人で続きをやらなくていい」
誰へ言うでもなく。
確認するように。
口にした。




