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第9話「四月十六日、一秒」

四月十六日、火曜日。

その日は、工事現場への同行だった。


向かったのは、住宅街の一角で建設中の三階建て住宅。

鉄骨造の基本的な構造がひと通り見られる現場だから一度見ておいたほうがいい、出発前に係長はそう言った。


水色の作業服に着替えて、ヘルメットを抱えて助手席に乗り込んだ。



現場に着いたとき、ちょうどクレーンが一本目の鉄骨を吊り上げているところだった。


大きな鉄骨が青い空をゆっくりと横切っていく。

遠くから眺めているだけでもその重さが伝わってきた。


現場に入る前、係長が立ち止まって、私の目をまっすぐに見た。


 「吊り荷の下には、絶対に入るな」


もう一度。


 「絶対にだ」


その声には、普段の穏やかさとは違う緊張が混じっていた。


 「鉄骨が落ちてきたら、ただじゃ済まない。 クレーンが動いている間は、必ず安全な場所にいろ」


 「はい」


そのときは、理解したつもりだった。


係長は監督さんや職人さんたちのところに歩いていった。

私は図面を持って、現場の端に向かった。


一人になってから、図面と実際の現場を見比べた。

柱の位置、梁の高さ、接続部の形……。


図面を見て、現場を見て確認して、図面に赤でチェックを入れる。

その繰り返し。


……。


夢中になっていた。

だから自分が少しずつ前に出ていることに、気づかなかった。


頭上では、クレーンがまた次の鉄骨をゆっくりと運んでいた。


図面のこの部分は……。


確認しようとして一歩踏み出した、その瞬間。



 ギッ。



耳の奥を引っかくような金属音が響いた。

一瞬すぎて、私には、何の音かわからなかった。


でも係長は違った。

遠くで職人さんと話していたはずなのに、


次の瞬間――



 ――腰のベルトが強く引かれた。



視界が一気に流れた。


体が後ろに飛んで、そのまま背中が硬いものにぶつかった。


そして両腕がとんでもない力で私の体を包み込んだ。


考える暇などまるでなかった。


直後――



  グッシャァァンッ



 ――世界の壊れる音がした。


空気が割れた。

地面が揺れて、一面に砂埃が舞い上がった。


何が起きたのか理解できないまま、私はその白い砂煙を見ていた。



………。



…。



砂煙の中で、鉄骨が刺さっていた。

ほんの一秒前まで私が立っていたその場所に、鉄骨が、刺さっていた。



……。



声が出ない。

指一本動かない。


係長の腕は、私を強く、強く、包み込んだまま。


鼓動が伝わってきた。

私のものか。

係長のものか。

わからない。


もしあと一歩、前へ出ていたら。

もし係長の気づくのが、一瞬でも遅れていたら。


考えた瞬間、体から力が抜けた。


足の間が熱くなって、足元に落ちていった。

羞恥も何も感じる余裕なんてなにもなかった。


震えが全身を支配していく。



 「……車に戻るぞ」



耳元で聞こえた声は、いつもみたいに低くて、でもかすれていた。


足にはほとんど力が入らなかった。

一人では歩けなかったと思う。


係長は何も言わずに、私の腰を支えてくれた。



後部座席に乗り込んだ。


バタンと、ドアが閉まった。

その音を聞いたとき、張りつめていたものが、プンっと切れた。


涙があふれた。

息が乱れた。

一度あふれだした涙は、止まらなかった。


視界が滲んで肩が震えて、呼吸さえ、うまくできない。


 ………。


気づけば私は、係長にしがみついていた。


胸に額を押しつけて、子どもみたいにわんわん泣いた。

係長は黙ったまま、いてくれた。


  グッシャァァンッ


耳の奥に、あの音が聞こえる。


鉄が潰れる音。

地面が揺れて、砂埃が舞い上がる。

そしてその向こうの地面に、突き刺さった鉄骨。


あと一歩。

あと一秒。

考えるたびに息が詰まって涙があふれた。


どれくらいそうしていただろう。


やっと泣き声が小さくなってきたころに、係長が静かに言った。


 「確認してくる。 ここにいろ」


私は顔を上げられないまま、小さくうなずいた。

ドアが閉まって、車内に静けさが戻った。


ふと、ズボンが濡れていることに気づいた。

 

また涙が出そうになった。


誰にも見られないように急いで脱いで、助手席の下に押し込んだ。


そのまま、膝を抱えた。


窓の外では、慌ただしく人が動いている。

係長の声が聞こえる。

冷静に現場に指示を出して、ひとつひとつ状況を確認していた。

いつもの落ち着いた声。


不思議とその声を聞いていると、少しずつ呼吸が整っていった。



どれほど時間が過ぎたかわからない。


ドアが開いた。

係長は何も言わず隣に座って、口を開いた。


 「被害はなかった」


私は返事もできず、小さく息を吐いた。

係長は少し間を置いて、続けた。



 「……怖かったな」



また泣きそうになった。


係長は鞄から白いタオルを取り出して、私の膝に、そっと置いた。



 「本当に、無事でよかった」



前を向いたままそう言った。


膝のタオルに涙が落ちた。

窓からは、傾き始めた春の陽射しが車の中に差し込んでいた。


隣には係長がいてくれる。

そう思うと、もう涙が止まらなくなった。


 ……守ってくれた。


私を。

この命を。

この人が、守ってくれた。



自宅に着いた頃には、時計の針が夜の八時を回っていた。


玄関のドアを閉めた瞬間に、全身から力が抜けた。

電気もつけずにシャワーだけ浴びて、もう他のことなんてできなくて、ベッドに入った。


天井がぼんやりしている。


 ……眠れない。


目を閉じたらさっきの出来事が浮かんでしまう。


だから別のことを考えようとした。

そしたら思い出してしまった。


係長の腕。

背中に伝わってきた鼓動、体温。

耳元で聞こえた低い声。


 ――本当に、無事でよかった


あの声が、耳の奥に響いてきた。


不思議な気持ちになった。

あの恐怖を思い出してしまっているはずなのに、胸の奥から別の温もりが湧いてきた。


布団を頬まで引き寄せて、ゆっくり息を吐いた。


あの低い声が何度も聞こえてきて、胸の温もりが、お腹の奥まで伝わってきた。

指先が、その温もりを確かめるように、そこに触れた。


 ……意識が遠くなった。


もう今が何時なのか、わからない。

お隣さんの玄関ドアの閉まる音が、どこか遠くで聞こえた気がする……。



◆次話、明日20時更新◆

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