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第8話「四月十五日、本物」

 「風宮、ちょっといいか」


馬平係長に声をかけられたのは、午後の二時過ぎだった。


内線電話が鳴って、係長が受話器を取った。

設計二課が図面用のロール紙を切らしてしまったので少し分けてほしい、という話だったらしい。


 「倉庫から1本、持って行ってやってくれ」


 「はい。 倉庫って、どこですか」


 「……そうか、まだ教えてなかったな」


係長は立ち上がった。


「ついて来い」と言って、フロアの奥に向かった。


廊下の突き当たりに、鍵のかかった扉があった。

係長はキーケースから鍵を取り出した。


中は思ったより広くて、棚に備品がびっしり並んでいた。

紙類、インク、製図用品。


係長は迷わず奥に入っていくと、細長くて大きな箱を、ひょいっとひとつ、持ち上げた。


 「これだ。 重いから気をつけろ」


 「はい、大丈夫です」


係長が箱を私に渡した。


 うわ、重っ。


思った以上に重かった。

腕に力を入れたけど、箱が傾いた。


 だめ、落としちゃうっ


――と思った瞬間、係長の手が、箱の底を支えてくれた。


 「しっかり持て」


 「す、すみません……」


しっかりと持ち直そうとして、ぎゅっと、箱を体に引き付けた。


……係長の手ごと、引き付けてしまった。


あっ、と思った時にはもう遅かった。

係長の手を、私の胸に、私が自分で押し付けていた。


係長が手を引き抜こうとした。

でも今引かれたら、箱が落ちちゃう。


 「ま、待って待って! 待ってくださいっ!」


 「………」


係長は黙って、引き抜こうとしたその手を止めた。


私は必死で箱を抱え直した。

腕に力を込めて、体全体で支えて、しっかりと抱え直すまでの数秒間が、妙に長く感じられた。


 「もう、大丈夫……です」


 「そうか」


そう言って係長は、ぐっと手を抜いた。


 んっ


胸の先が擦れた感触に思わず声が漏れてしまって、慌てて唇を噛んだ。


係長は何も言わなかった。


「気をつけて運べ」とだけ言って、倉庫の鍵を閉めた。


私は箱を抱えたまま、エレベーターに乗った。


顔が燃えていた。


胸の先が、熱い。

係長の手の熱が、まだはっきりと残ってる。


 ……どうして私ばっかり、こういうことになるんだろ。



設計二課のフロアに入った瞬間に、空気が変わったのを感じた。

正確に言うと、フロアにいた何人かの男性社員の視線が、一斉に私に向けられた。

仕事の手を止める人。

私を見ながら隣の人に耳打ちする人。


慣れているけどほんとに嫌だ。


私はなるべく誰の顔も見ないようにして、入口から近い島に向かった。


 「あの、設計一課です。 ロール紙をお届けに……」


 「ちょっと待って。 君、名前、教えて?」


横から声がかかった。

振り向いたら、三十代くらいのにこにこした男性社員が立っていた。


 「え……風宮、ですが」


 「やっぱり風宮さん! 設計一課の新人さんだよね! 俺、設計二課の佐々木っていうんだけど、よかったら今度ランチでも行かない?」


 「あ、えっと……」


どうやって断ろうか考えていたら、別の男性が「俺も行く」と言った。

さらに別の声が「俺も」と続いた。


 「はいはい、ストップー」


落ち着いた女性の声がした途端、男性社員の人垣が、さっと割れた。


ショートヘアの女性が立っていた。

四十歳くらいだろうか。

パンツスーツが似合っていて、姿勢がよくて、彼女が立っているだけで空気がビシっと引き締まる。


 「はい、仕事!」


その一言で、男性社員たちは潮が引くように席に戻った。


 「ごめんね、うちの連中が」


女性は私に向き直った。

目を細くして、笑っている。


 「神崎です。 設計二課の係長」


 「設計一課の、風宮しおりです。 よろしくお願いします」


 「知ってる」


神崎係長は私からロール紙の箱を軽々と取り上げた。


 「馬平君の新しい部下でしょ。 話は聞いてるわ」


え?


今、馬平君、って言った……

係長のことを、馬平君って呼んだ……


 「どう、馬平君。 ちゃんと面倒みれてる?」


 「はい、丁寧に指導していただいています」


 「丁寧に?」


神崎係長が少し笑った。


 「彼が、丁寧ねえ」


 「……何か、おかしいですか」


 「ううん、おかしくない。 あなた、そう感じられるんだね」


神崎係長は部下に箱を、ひょいと渡した。


 「じゃあ馬平君って、どんな人だと思う?」


 「えっ……」


唐突な質問だった。

圧迫感とかはなくて、ただ純粋に質問している感じ。


この人には、なぜか何でも正直に話せる、そんな気がした。


 「馬平係長は、無口…です」


神崎係長が少し笑った。


 「無口かぁ。 だよね、余計なことを言わない人なんだよね、彼」


 「余計なこと、ですか?」


 「必要なことしか言わない。 必要なことだけを、ちゃんと言う」


 「……無口とは違うんですか」


 「全然違う」


神崎係長はあっさり言った。


 「無口な人って、必要なことも言わないでしょ? 彼は違う。 言うべき時には、ちゃんと言う。 ちゃんと謝って、ちゃんと褒める。 ただ、それ以外は言わないってだけ」


 ――言うべき時には、ちゃんと


その言葉は、妙に納得できた。


 「不器用だよね」


神崎係長が続ける。


 「口数が少ないから、最初は誤解されることも多い。 とっつきにくいって思われることも多い。 でも……」


少し間があった。


 「でも彼は、本物だから」


……本物?


 「あ、本物、というのはね…。 言葉じゃなくて、全部、行動で表す人ってこと」


 「………」


 「彼あんなだからね、結構損してるの」


神崎係長は苦笑いした。


 「でもどれだけ苦しい場面でもね、最後まで残ってるのは、いつも彼」


小さく息を吐いた。


 「そういう人、少ないのよ」


……何も言えなかった。


 「まあ、この一年、よく観察しておきなさい。 きっと実感するよ。 あ、あと、重いのに、ありがとね」


そう言って、自分のデスクに戻っていった。

颯爽と歩くその背中を、私はしばらく目で追っていた。



エレベーターに乗って、一つ上のフロアに戻った。


扉が開いた瞬間に、係長の姿が見えた。

いつもどおり図面に向かっている。


 ――言葉じゃなくて、行動で表す人


何度も不思議な人だと思うことがあった。

そういうことだったんだ。


 ……。


席に戻ると、無意識に係長の横顔を見てしまってた。

係長は気づかずに、いつもどおりに図面を見ている。



 ――本物



あの横顔が、どうしてこんなに気になるんだろ。


神崎係長の言葉を聞く前と後で、何が変わったのかはわからない。

でも気づけばまた胸が熱くなってた。

倉庫で感じた胸の熱は、もう消えてしまってるはずなのに。



◆第9話、本日22時更新◆

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