第7話「四月十二日、仕方ないな」
山本玲さんのことは、入社してすぐに覚えた。
明るくて、よく気がついて、誰に対しても屈託なく笑う人。
私の一つ上の先輩。
私より先に馬平係長の指導を一年間受けた人。
その玲さんが係長のことを好きだということは、ランチでもう、聞いていた。
◆
今日は金曜日。
社会人になって、二回目の金曜日。
今朝も係長がフロアに入ってきた瞬間、玲さんが一番に顔を上げた。
「おはようございます!」
フロア全体に響くくらいの元気な声。
係長は「ああ、おはよう」と言って自分のデスクに向かった。
玲さんはその背中をしばらく目で追って、それから私に「おはよ、風宮さん」と笑った。
そのときなんとなくだけど、玲さんの横顔が気になった。
係長の背中を目で追う時の玲さんの顔がほんの少し、いつもと違って見えたから。
何かを考えているみたいに見えたから。
◆
午前中、係長が玲さんのところに来て、午後の打ち合わせ資料の作成を頼んでいた。
いつもみたいに要点だけ伝えて、すぐ戻っていった。
玲さんは十分ほど作業して、立ち上がった。
係長の席に近づいて、
「係長、すみません。 もう少し詳しく教えていただけますか」
係長は「ああ」と言って、モニターを見た。
玲さんが後ろから覗き込んだ。
係長が画面を指でなぞりながら説明する。
私は自分のモニターを見ていたけど、視界の端に見える二人の姿に集中してしまっていた。
玲さんが少しずつ、前に身を乗り出していく。
係長の肩に、顔が近づいていった。
もう少し、もう少し、っていうふうに。
そして次の瞬間、玲さんの体がぴくんと跳ねて、一瞬だけ固まった。
慌てたように胸元を押さえて、顔が一気に赤くなった。
何があったかは、なんとなく、わかった。
係長は画面を見たまま説明を続けている。
まったく気づいていない。
玲さんは少し後ろに下がって、真っ赤な顔のまま、うなずいていた。
私はキーボードに手を置いたままになっていて、自分の頬が熱くなっているのに気がついた。
どうして私まで、こんな風になっているんだろ。
◆
昼休み、玲さんがお弁当を持って係長の席に向かった。
「係長、一緒にお昼食べませんか? どうせ今日もコンビニのおにぎりでしょ? お弁当、多めに作りすぎちゃって」
「気を遣わなくていい」
「遣ってないです。 本当に余ったんです」
「そうか。 でもいい」
係長はまた手元の図面に視線を戻した。
玲さんの表情が一瞬固まったけど、でもすぐ気を取り直してた。
お弁当を脇に抱えたと思ったら、係長の腕をつかんだ。
私は思わずキーボードの手を止めた。
「毎日おにぎりだけじゃ、体がもちませんよ」
係長が玲さんを見た。
困った顔をしている。
それでも玲さんは、笑顔で係長を引っ張った。
「行きましょっ」
係長は少し抵抗したけど結局、「……仕方ないな」と言って立ち上がった。
二人でエレベーターに向かっていった。
私はその二つの背中を、ドアが閉じるまで、目で追ってしまってた。
フロアが一気に静かになった。
私は自分の手を見た。
キーボードの上に置いたまま、止まっていた。
玲さんは、係長の腕をつかんだんだ。
断られても、困った顔をされても、係長の腕をつかんで強引に引っ張った。
それで係長が立ち上がって、
……一緒に行った。
私にはできない。
絶対にできない。
そんなことをしようとしたら、心臓が口から飛び出てしまう。
手が震えて、顔が燃えて、たぶん何も言えなくなってしまうだけ。
なのに玲さんはあんな自然に、あんなにまっすぐに。
胸の奥が、ぎゅっとなった。
◆
午後の打ち合わせに、私も同席することになった。
一階のロビーで、お客様と向き合った。
玲さんが作った資料を使いながら係長が話を進めて、お客様と一緒に数字を整理していった。
私はひたすらメモをとった。
係長の言葉の選び方、間の取り方、お客様の表情が変わる瞬間も。
全部を手帳に書き留めた。
打ち合わせは一時間ほどで終わった。
お客様を見送って、三人でエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まると、係長が玲さんの顔を見た。
「山本、今の資料、よくできていたぞ」
玲さんがくるりと、係長に背を向けた。
玲さんの肩が小さく震えた。
嬉しくて、でもそんな顔を見られたくなくて、でも押さえきれない。
そんな気持ちが伝わってきた。
エレベーターの扉を見つめたまま、玲さんはまだ丸く震えてる。
「……ありがとうございます」
声も震えてた。
係長は「ああ」とだけ言った。
胸が、痛くなった。
お昼にきゅっとした痛みが、もっと強くなって戻ってきた。
痛くて、苦しい。
うまく息ができない。
………。
係長に一言褒めてもらっただけで、玲さんはああなるんだ。
なるよ。
だってわかる。
私だって、わかるんだから。
エレベーターのドアが開いて、三人でフロアに戻った。
玲さんはもういつもみたいに笑ってる。
係長はもうモニターに向かってる。
私は席に戻ってきても、さっきから止まっていた息の続きが、うまく吸えないままだった。
◆
夕方、玲さんが係長に声をかけた。
「係長、風宮さんのプチ歓迎会しませんか? 三人で」
係長は少し考えて、「風宮がよければ」と言って私を見た。
「え、あ、はい……」
断る理由がなかった。
定時を過ぎると、三人で居酒屋に向かった。
夜の空気が少し冷たくて、街灯が道を照らしていた。
玲さんは係長の隣を歩いた。
私は少し後ろを歩いていた。
玲さんが係長に話しかけて、係長が短く答える。
また玲さんが笑っている。
私はその二人の後ろを歩きながら、今日一日を思い返していた。
朝の玲さんの横顔。
覗き込んで、ぴくんと跳ねた瞬間。
腕をつかんで、引っ張った場面。
エレベーターの中の、震える肩。
玲さんは全力で好きなんだ。
腕をつかんで、肩を震わせて、全部さらけ出して、それでも前に進んでる。
怖がらない。
めげない。
真っ直ぐに係長に向かっていく。
その気持ちは、わかる。
係長がそばにいると、意識が全部係長にいってしまう。
係長の声が近くで聞こえると、鼓動が早くなる。
係長に何か言ってもらうと、それだけで体の奥が、きゅんとする。
……わかるんだ、私も。
でも私は、腕をつかめないし、引っ張れない。
震えなんて、見せられない。
街灯の光の下を、三人で歩いた。
係長の低い声と玲さんの笑い声が聞こえる。
二人の間に入れないまま、私はひとりでその後ろを歩いていた。
◆第8話、本日21時更新◆




