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第7話「四月十二日、仕方ないな」

山本玲さんのことは、入社してすぐに覚えた。


明るくて、よく気がついて、誰に対しても屈託なく笑う人。

私の一つ上の先輩。

私より先に馬平係長の指導を一年間受けた人。

その玲さんが係長のことを好きだということは、ランチでもう、聞いていた。



今日は金曜日。

社会人になって、二回目の金曜日。


今朝も係長がフロアに入ってきた瞬間、玲さんが一番に顔を上げた。


 「おはようございます!」


フロア全体に響くくらいの元気な声。


係長は「ああ、おはよう」と言って自分のデスクに向かった。

玲さんはその背中をしばらく目で追って、それから私に「おはよ、風宮さん」と笑った。


そのときなんとなくだけど、玲さんの横顔が気になった。

係長の背中を目で追う時の玲さんの顔がほんの少し、いつもと違って見えたから。

何かを考えているみたいに見えたから。



午前中、係長が玲さんのところに来て、午後の打ち合わせ資料の作成を頼んでいた。

いつもみたいに要点だけ伝えて、すぐ戻っていった。


玲さんは十分ほど作業して、立ち上がった。

係長の席に近づいて、


 「係長、すみません。 もう少し詳しく教えていただけますか」


係長は「ああ」と言って、モニターを見た。


玲さんが後ろから覗き込んだ。

係長が画面を指でなぞりながら説明する。


私は自分のモニターを見ていたけど、視界の端に見える二人の姿に集中してしまっていた。


玲さんが少しずつ、前に身を乗り出していく。

係長の肩に、顔が近づいていった。

もう少し、もう少し、っていうふうに。


そして次の瞬間、玲さんの体がぴくんと跳ねて、一瞬だけ固まった。

慌てたように胸元を押さえて、顔が一気に赤くなった。


何があったかは、なんとなく、わかった。


係長は画面を見たまま説明を続けている。

まったく気づいていない。


玲さんは少し後ろに下がって、真っ赤な顔のまま、うなずいていた。


私はキーボードに手を置いたままになっていて、自分の頬が熱くなっているのに気がついた。

どうして私まで、こんな風になっているんだろ。



昼休み、玲さんがお弁当を持って係長の席に向かった。


 「係長、一緒にお昼食べませんか? どうせ今日もコンビニのおにぎりでしょ? お弁当、多めに作りすぎちゃって」


 「気を遣わなくていい」


 「遣ってないです。 本当に余ったんです」


 「そうか。 でもいい」


係長はまた手元の図面に視線を戻した。


玲さんの表情が一瞬固まったけど、でもすぐ気を取り直してた。

お弁当を脇に抱えたと思ったら、係長の腕をつかんだ。


私は思わずキーボードの手を止めた。


 「毎日おにぎりだけじゃ、体がもちませんよ」


係長が玲さんを見た。

困った顔をしている。


それでも玲さんは、笑顔で係長を引っ張った。


 「行きましょっ」


係長は少し抵抗したけど結局、「……仕方ないな」と言って立ち上がった。


二人でエレベーターに向かっていった。


私はその二つの背中を、ドアが閉じるまで、目で追ってしまってた。

フロアが一気に静かになった。


私は自分の手を見た。

キーボードの上に置いたまま、止まっていた。


玲さんは、係長の腕をつかんだんだ。

断られても、困った顔をされても、係長の腕をつかんで強引に引っ張った。

それで係長が立ち上がって、


 ……一緒に行った。


私にはできない。

絶対にできない。

そんなことをしようとしたら、心臓が口から飛び出てしまう。

手が震えて、顔が燃えて、たぶん何も言えなくなってしまうだけ。


なのに玲さんはあんな自然に、あんなにまっすぐに。


胸の奥が、ぎゅっとなった。



午後の打ち合わせに、私も同席することになった。


一階のロビーで、お客様と向き合った。

玲さんが作った資料を使いながら係長が話を進めて、お客様と一緒に数字を整理していった。


私はひたすらメモをとった。

係長の言葉の選び方、間の取り方、お客様の表情が変わる瞬間も。

全部を手帳に書き留めた。


打ち合わせは一時間ほどで終わった。


お客様を見送って、三人でエレベーターに乗り込んだ。


ドアが閉まると、係長が玲さんの顔を見た。



 「山本、今の資料、よくできていたぞ」



玲さんがくるりと、係長に背を向けた。


玲さんの肩が小さく震えた。

嬉しくて、でもそんな顔を見られたくなくて、でも押さえきれない。

そんな気持ちが伝わってきた。


エレベーターの扉を見つめたまま、玲さんはまだ丸く震えてる。


 「……ありがとうございます」


声も震えてた。


係長は「ああ」とだけ言った。


胸が、痛くなった。

お昼にきゅっとした痛みが、もっと強くなって戻ってきた。

痛くて、苦しい。

うまく息ができない。


………。


係長に一言褒めてもらっただけで、玲さんはああなるんだ。


 なるよ。

 だってわかる。

 私だって、わかるんだから。


エレベーターのドアが開いて、三人でフロアに戻った。


玲さんはもういつもみたいに笑ってる。

係長はもうモニターに向かってる。


私は席に戻ってきても、さっきから止まっていた息の続きが、うまく吸えないままだった。



夕方、玲さんが係長に声をかけた。


 「係長、風宮さんのプチ歓迎会しませんか? 三人で」


係長は少し考えて、「風宮がよければ」と言って私を見た。


 「え、あ、はい……」


断る理由がなかった。


定時を過ぎると、三人で居酒屋に向かった。

夜の空気が少し冷たくて、街灯が道を照らしていた。


玲さんは係長の隣を歩いた。

私は少し後ろを歩いていた。


玲さんが係長に話しかけて、係長が短く答える。

また玲さんが笑っている。


私はその二人の後ろを歩きながら、今日一日を思い返していた。


朝の玲さんの横顔。

覗き込んで、ぴくんと跳ねた瞬間。

腕をつかんで、引っ張った場面。

エレベーターの中の、震える肩。


玲さんは全力で好きなんだ。

腕をつかんで、肩を震わせて、全部さらけ出して、それでも前に進んでる。


怖がらない。

めげない。

真っ直ぐに係長に向かっていく。


その気持ちは、わかる。


係長がそばにいると、意識が全部係長にいってしまう。

係長の声が近くで聞こえると、鼓動が早くなる。

係長に何か言ってもらうと、それだけで体の奥が、きゅんとする。


 ……わかるんだ、私も。


でも私は、腕をつかめないし、引っ張れない。

震えなんて、見せられない。


街灯の光の下を、三人で歩いた。

係長の低い声と玲さんの笑い声が聞こえる。


二人の間に入れないまま、私はひとりでその後ろを歩いていた。



◆第8話、本日21時更新◆

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