第6話「四月十日、偉い」
月曜日の書庫での出来事が、頭から離れない。
もう二日も経っているのに。
馬平係長の耳が赤かったこと。
「悪い」と言ってくれたこと。
そして私が引きずっているのは、もうひとつ。
私の一番敏感なところに係長の顔が触れていたあの熱が、全然消えてないこと。
係長は普通にしてる。
昨日も今日も、いつもどおりに図面を見て指示を出して、必要以上に私の顔を見ない。
まるで何もなかったみたいに仕事をしてる。
なのに私は、係長の顔を見るたびに思い出すんだ。
近くで声が聞こえるたびに、思い出してしまうんだ。
私だけ、二日前の書庫に置き去りにされているみたい。
一人で勝手に、もんもんしてる。
不公平だ。
◆
昼休み、私は一人で外に出た。
向かった先は、入社式の日、係長と偶然ぶつかった、あの細い通路。
ビルの横の、日当たりのいい場所。
手作りのお弁当を持ってきた。
今朝、少しだけ早起きして作ったお弁当。
……いた。
馬平係長が、いた。
あの日とまったく同じように、石の花壇に腰掛けて、おにぎりをかじっていた。
係長もこちらに気がついて、目が合った。
特に驚いた様子もなく、ただこちらを見ている。
「……失礼します」
私は係長から少し離れたところに腰掛けた。
なるべく自然に、なるべく普通に、お弁当の蓋を開けた。
隣には係長がいる。
距離は充分あるのに、なぜか意識の全部が係長に向いてしまっていた。
「手作りか」
私のお弁当をちらりと見て、係長が言った。
「……はい、一応」
「そうか」
係長はまたおにぎりをかじった。
しばらく、二人で黙って食べた。
遠くで車の音がした。
風があって、気持ちいい。
係長の横顔が、視界の端に入っている。
入社式の日も、私が気づかなかっただけで、係長はこんな風に近くにいたんだろうか。
思い出したらあの恥ずかしかった気持ちもよみがえってきて、なんだか落ち着かなくなってきて、何か言わないといけない気がしてきた。
でも何を言えばいいかわからない。
まだわからないのに、勝手に、
「……馬平係長って」
気がついたら、口が動いてた。
「モテますよね」
どうしてこんなことを口走ってしまったんだ。
勢いがついてしまってた。
ずっともんもんしてた反動が、変な方向に出てしまったんだ。
係長が、私を見た。
「そうか」
間があった。
「風宮に言ってもらえると、嬉しい」
………。
え?
私はお箸を持ったまま、固まった。
係長はもうおにぎりに視線を戻していた。
何事もなかったみたいに、最後の一口を食べている。
今、嬉しいって、言った?
風宮に言ってもらえると、嬉しい、って。
社交辞令、かな。
でもこの人がそんな器用なことを言うなんて思えない。
それに、風宮にって。
ほんと、どういう意味なんだろ。
係長は立ち上がって、「戻る」と言った。
「は、はい。 お疲れ様です」
声が上ずった。
係長は気にしないまま、ビルの入口に向かって歩く。
背中が遠ざかっていった。
私はお弁当を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
また風が吹いた。
胸の奥が、熱くなってた。
もんもんしてたところと、たぶん同じ場所。
でも種類が違う。
お箸を持ったまま、まだしばらく動けなかった。
嬉しい、って言ったんだ、あの人。
……私に。
午後、デスクに戻っても、胸の熱さは収まらなかった。
モニターを見ているけれど、昼休みのことが頭をよぎる。
係長の横顔が出てくる。
――風宮に言ってもらえると、嬉しい
消そうと意識すると、浮かんでくる。
◆
夕方の五時すぎ、外壁の寸法を修正していた時、入力ミスに気がついた。
ほんの些細な数字のずれ。
でもそれが全体のバランスを崩していた。
……どうしよう。修正の仕方がわからない。
どのデータに触れて、どこを直せば整合するか。
モニターとにらめっこしたまま、時間だけが過ぎていった。
フロアの人数が、じわじわ減っていく。
午後六時。
残業は入社してから初めてだった。
「どこでつまずいてるんだ?」
顔を上げたら、係長がいた。
いつのまにか私の横に立ってた。
「……寸法の修正が、わからなくて」
「見せてみろ」
係長は隣の椅子を引いた。
………。
どうしてだろ。
隣に座られただけなのに落ち着かない。
胸の奥のざわつきがまたぶり返してきた。
なんでもいいから何か言わないと、またもうこの空気に耐えられなくなってきた。
……そしてまた言ってしまった。
「こんな単純なミス、怒らないんですか」
こんなことを言うつもりなんてなかったのに、また勝手に声が出ていた。
係長が、私の目を見た。
「俺が怒っても、風宮のためにならない」
少し間があって――
「むしろ自分で見つけられたのは、偉い」
…………。
……偉い?
え?
さっきの「嬉しい」と、今の「偉い」。
私の中で、二つ並んだ。
どちらも、言った本人はすぐに忘れてしまうんだろうけど。
「見てろ」と係長が言って、マウスを動かし始めた。
低い声が耳のそばにある。
肩と肩の距離が近い。
コーヒーの匂いがする。
係長の手が動くたび、図面が少しずつ整っていった。
「わかるか」
「……もう一度、お願いします」
「ああ」
何も言わずに、また最初から繰り返してくれた。
私はメモ帳に書き続けた。
手の動きを、修正の順番を、全部、書き留めた。
四十分かかって、図面が正しい形に戻った。
「次は自分でできるな」
「はい。 ありがとうございました」
係長が立ち上がって、自分のデスクに戻っていった。
フロアにはもうほとんど誰もいなくなっていて、窓の外は暗くなっていた。
私はしばらく、画面を見つめていた。
今日一日で、この人に何度……。
数えたらきりがない。
向こうは何も気づいてない。
いつもどおりに図面を見て、いつもどおりに仕事をしてる。
私だけ、一人でずっと、胸に熱を抱えてる。
やっぱり不公平だ。
………。
「お先に失礼します」
「よくがんばったな。お疲れ」
エレベーターのドアが閉じた。
……胸の奥が温かくなってた。
月曜日からずっと残っていた熱とは、種類の違う熱さ。
……あの人のことが、わからない。
わからないのに、なぜか明日も、声が聞きたい。
◆第7話、本日20時更新◆




