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第6話「四月十日、偉い」

月曜日の書庫での出来事が、頭から離れない。

もう二日も経っているのに。


馬平係長の耳が赤かったこと。

「悪い」と言ってくれたこと。

そして私が引きずっているのは、もうひとつ。


私の一番敏感なところに係長の顔が触れていたあの熱が、全然消えてないこと。


係長は普通にしてる。

昨日も今日も、いつもどおりに図面を見て指示を出して、必要以上に私の顔を見ない。

まるで何もなかったみたいに仕事をしてる。


なのに私は、係長の顔を見るたびに思い出すんだ。

近くで声が聞こえるたびに、思い出してしまうんだ。

私だけ、二日前の書庫に置き去りにされているみたい。

一人で勝手に、もんもんしてる。


不公平だ。



昼休み、私は一人で外に出た。

向かった先は、入社式の日、係長と偶然ぶつかった、あの細い通路。

ビルの横の、日当たりのいい場所。


手作りのお弁当を持ってきた。

今朝、少しだけ早起きして作ったお弁当。


 ……いた。


馬平係長が、いた。


あの日とまったく同じように、石の花壇に腰掛けて、おにぎりをかじっていた。


係長もこちらに気がついて、目が合った。

特に驚いた様子もなく、ただこちらを見ている。


 「……失礼します」


私は係長から少し離れたところに腰掛けた。

なるべく自然に、なるべく普通に、お弁当の蓋を開けた。


隣には係長がいる。

距離は充分あるのに、なぜか意識の全部が係長に向いてしまっていた。


 「手作りか」


私のお弁当をちらりと見て、係長が言った。


 「……はい、一応」


 「そうか」


係長はまたおにぎりをかじった。


しばらく、二人で黙って食べた。


遠くで車の音がした。

風があって、気持ちいい。


係長の横顔が、視界の端に入っている。

入社式の日も、私が気づかなかっただけで、係長はこんな風に近くにいたんだろうか。


思い出したらあの恥ずかしかった気持ちもよみがえってきて、なんだか落ち着かなくなってきて、何か言わないといけない気がしてきた。

でも何を言えばいいかわからない。

まだわからないのに、勝手に、


 「……馬平係長って」


気がついたら、口が動いてた。


 「モテますよね」


どうしてこんなことを口走ってしまったんだ。


勢いがついてしまってた。

ずっともんもんしてた反動が、変な方向に出てしまったんだ。


係長が、私を見た。


 「そうか」


間があった。



 「風宮に言ってもらえると、嬉しい」



………。


え?


私はお箸を持ったまま、固まった。


係長はもうおにぎりに視線を戻していた。

何事もなかったみたいに、最後の一口を食べている。


今、嬉しいって、言った?


風宮に言ってもらえると、嬉しい、って。


社交辞令、かな。

でもこの人がそんな器用なことを言うなんて思えない。


それに、風宮にって。


ほんと、どういう意味なんだろ。


係長は立ち上がって、「戻る」と言った。


 「は、はい。 お疲れ様です」


声が上ずった。


係長は気にしないまま、ビルの入口に向かって歩く。

背中が遠ざかっていった。


私はお弁当を膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。


また風が吹いた。


胸の奥が、熱くなってた。

もんもんしてたところと、たぶん同じ場所。

でも種類が違う。


お箸を持ったまま、まだしばらく動けなかった。


嬉しい、って言ったんだ、あの人。


……私に。


午後、デスクに戻っても、胸の熱さは収まらなかった。


モニターを見ているけれど、昼休みのことが頭をよぎる。

係長の横顔が出てくる。


 ――風宮に言ってもらえると、嬉しい


消そうと意識すると、浮かんでくる。



夕方の五時すぎ、外壁の寸法を修正していた時、入力ミスに気がついた。


ほんの些細な数字のずれ。

でもそれが全体のバランスを崩していた。


 ……どうしよう。修正の仕方がわからない。


どのデータに触れて、どこを直せば整合するか。

モニターとにらめっこしたまま、時間だけが過ぎていった。


フロアの人数が、じわじわ減っていく。


午後六時。

残業は入社してから初めてだった。


 「どこでつまずいてるんだ?」


顔を上げたら、係長がいた。

いつのまにか私の横に立ってた。


 「……寸法の修正が、わからなくて」


 「見せてみろ」


係長は隣の椅子を引いた。


………。


どうしてだろ。

隣に座られただけなのに落ち着かない。

胸の奥のざわつきがまたぶり返してきた。

なんでもいいから何か言わないと、またもうこの空気に耐えられなくなってきた。


……そしてまた言ってしまった。


 「こんな単純なミス、怒らないんですか」


こんなことを言うつもりなんてなかったのに、また勝手に声が出ていた。


係長が、私の目を見た。


 「俺が怒っても、風宮のためにならない」


少し間があって――



 「むしろ自分で見つけられたのは、偉い」



…………。



……偉い?


え?


さっきの「嬉しい」と、今の「偉い」。

私の中で、二つ並んだ。

どちらも、言った本人はすぐに忘れてしまうんだろうけど。


「見てろ」と係長が言って、マウスを動かし始めた。


低い声が耳のそばにある。

肩と肩の距離が近い。

コーヒーの匂いがする。


係長の手が動くたび、図面が少しずつ整っていった。


 「わかるか」


 「……もう一度、お願いします」


 「ああ」


何も言わずに、また最初から繰り返してくれた。


私はメモ帳に書き続けた。

手の動きを、修正の順番を、全部、書き留めた。


四十分かかって、図面が正しい形に戻った。


 「次は自分でできるな」


 「はい。 ありがとうございました」


係長が立ち上がって、自分のデスクに戻っていった。

フロアにはもうほとんど誰もいなくなっていて、窓の外は暗くなっていた。


私はしばらく、画面を見つめていた。


今日一日で、この人に何度……。


数えたらきりがない。

向こうは何も気づいてない。

いつもどおりに図面を見て、いつもどおりに仕事をしてる。

私だけ、一人でずっと、胸に熱を抱えてる。


やっぱり不公平だ。


………。


 「お先に失礼します」


 「よくがんばったな。お疲れ」


エレベーターのドアが閉じた。


 ……胸の奥が温かくなってた。


月曜日からずっと残っていた熱とは、種類の違う熱さ。


 ……あの人のことが、わからない。


わからないのに、なぜか明日も、声が聞きたい。



◆第7話、本日20時更新◆

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