第5話「四月八日、悪い」
週明けの月曜日。
私は書庫で、馬平係長と一緒に古い図面を探していた。
書庫は、設計一課のフロアの奥にあった。四畳半ほどの狭い部屋で、壁一面に天井まで届く棚が並んでいた。
過去の図面ファイルや資料が年代順に整理されていて、古いものになると手の届かない一番上の棚に追いやられている。
「八年前だから、この辺りのはずなんだが」
馬平係長が中段の棚を指でなぞりながら言った。
背表紙を一つずつ確認している。
私は反対側の棚を担当して、同じように背表紙を目で追った。
二人で書庫に入ると、そこは思った以上に狭かった。
お互いが棚に向かって立つと、背中と背中の距離は数センチ。
振り返ったら、すぐそこに係長がいる。
プリンターのときみたいにならないように、気をつけた。
「新宿ビルの図面、このあたりにはないですね」
「上かもしれん」
係長が上の棚を見上げた。
私も同じように見上げる。
一番上の棚に、年代の古いファイルが並んでいる。
背表紙の文字が小さくて、下からでは文字が読めない。
「脚立、使います」
部屋の隅に立てかけてあった折り畳みの脚立を広げて、棚の前に置いた。
「俺が上がる」
「大丈夫です、私の方が身軽なので」
係長が何か言う前に、私は一段目に足をかけた。
ヒールのあるパンプスだったけど、気をつければ問題ない。
一段、二段と上がって、三段目に足をかけたとき、スカートの裾が膝の上まで上がった。
でも書庫には二人しかいないし、係長は私の背後で棚を見ているはずだから大丈夫。
手を伸ばして、背表紙を一つずつ確認していく。
八年前、八年前。
新宿ビル……。
……。
あった。
一番端の、指先がぎりぎり届くかどうかという場所に、お目当てのファイルがあった。
私はさらに背伸びをして、腕をめいっぱい伸ばした。
あと少し。
あと少しで届く。
あと少し…、つま先に力を入れた、その瞬間――
――ぐらり
脚立が揺れた。
左右に大きく揺れてから、今度は後ろに、傾いた。
「きゃっ」
声が出た。
棚に手をかけようとしたけど、指が空を切った。
体が後ろに落ちていく。
――だめだ、落ちる
と思ったその瞬間、背後で空気が動いた。
係長が、動いてくれた。
太ももに手が当たった。
下から、両手で支えようとしてくれた。
でも私の体はもう崩れていた。
重心が後ろに傾いたまま、ずるずると落ちていく。
足が脚立から離れた。
体重が全部、係長の両手にかかった。
支えてくれている係長の手は、スカートの中に入っていた。
膝の裏あたりだった。
最初は。
でも私の体が止まらなかった。
ずるずると、ゆっくりと、ゆっくりと、でも確実に落ちていく。
係長の手から、ゆっくりと、滑り落ちていく。
手が上に、ずれていく。
太ももの、その上に。
……。
止まって。
でも体は止まってくれない。
重力には逆らえない。
ずるずると、まだ落ちていく。
手がさらに上に。
スカートが、ずり上がっていく。
わかった。
係長の顔が、今、どこにあるかが、わかった。
私の体の真下だ。
私がずり落ちていく方向の、真下に、係長の顔がある。
そしてスカートが今、どこまでずり上がっているかも、わかった。
腰のあたりまで。
もうほとんど裏返って、めくれ上がっている。
顔が燃えた。
耳の先まで、一瞬で熱くなった。
やだ、やだやだ!
止まって止まって!
体が落ちていく。
係長の手が腰を支えようとしてくれているのに、重力には勝てなくて、私はまだずり落ちていく。
スカートが、もう完全にめくれ上がった。
係長の顔の、すぐ前に、私のお尻がある。
それだけははっきりとわかる。
何が見えてるのかなんて、考えなくてもわかる。
お願いだから、もう、止まって!
……止まらなかった。
むにゅり。
次の瞬間、二人でどさっと床に倒れた。
私が上、係長が下。
上下重なるように、書庫の床に倒れ込んだ。
……………。
………。
動けなかった。
今、自分がどういう状態にあるかを、ゆっくりと把握した。
私は係長の上に乗っている。
私には係長のズボンが見える。
私のスカートは、裏返ってめくれ上がったまま……。
つまり係長の顔は今、私の、その、真下に、ある。
私の一番敏感なところに、係長の熱い息が、かかってる……。
顔どころか、全身から熱が出た。
恥ずかしいとか、そういうの、全然、足りない……。
消えてしまいたい……。
このまま溶けてなくなってしまいたい……。
係長が、動いた。
私の腰をそっと横にずらして、床に降ろした。
起き上がる前に、係長の顔が視界に入った。
耳が赤かった。
首筋まで赤くなっていた。
いつも何があっても表情の変わらないこの人が、首まで赤く染めていた。
「……悪い」
声はいつもの低いまま。
私の目を一瞬だけ見て、すぐに逸らした。
そして立ち上がって、私に背を向けた。
「怪我はないか」
こちらを向かないまま、聞いた。
「あ、ありません……」
声が震えた。
「そうか」
係長はそれだけ言って、背を向けたまま、落ちたファイルを一つ拾い上げた。
「これか」
背表紙を確認して、私に差し出した。
やっぱりこっちを見ないまま。
私はファイルを受け取った。
「……はい、これです」
「戻るぞ」
係長は書庫を出ていった。
私は床に座ったまま、しばらく動けなかった。
………。
スカートを直して、乱れた髪を手で直す。
息を整えようとしたけど、あまりにも乱れてて、なかなか整わない。
一番恥ずかしくて敏感なところに、係長の顔の熱が残ってる。
恥ずかしい。
ほんとに恥ずかしいよ。
今まで生きてきた中で、一番かもしれないというくらい、恥ずかしい。
でも同時に、頭の中でぐるぐる回っていることがある。
係長の耳が、赤かった。
この一週間で、係長がそういう顔をするところを、私は一度も見たことがない。
初日に私が目の前で尻もちをついてしまっても、翌日に胸元のボタンが外れていても、作業服が透けていても、プリンターの横でお尻が当たってしまっても。
何があっても、係長の表情は変わらなかった。
なのにさっき、耳が赤くなってた。
一瞬目が合って、すぐに逸らした。
こっちを見ないまま、怪我はないかと聞いた。
私の全部を見てしまって、顔で触れた後で、この人は見たことのない表情をしてた。
その事実が恥ずかしさと一緒になって、私の胸を鳴らしてる。
いつも私のことなんてどこにも見えていないみたいなのに、今だけはきっと私のことが、見えてしまってる。そんな気がする。
……めちゃくちゃ恥ずかしかったのに、ほんの少しだけだけど、私はそれが嬉しいって思ってしまってた。
立ち上がって最後にもう一度、スカートを確認した。
◆
書庫を出ると、フロアは普通だった。
みんな自分のモニターを見ている。
係長は自分のデスクに戻っていて、もう図面を広げていた。
私はファイルを係長の席に持っていった。
「お待たせしました」
「ああ」
係長は私の顔を見ずにファイルを受け取った。
図面に視線を落としたまま。
耳はもう赤くない。
いつもの係長。
私は席に戻りながら、さっきの「悪い」という一言を思い返した。
ああいう状況になってしまったことを、咄嗟に、反射的に、悪いと思って謝った。
ふつうの男の人なら、たぶん、謝らない。
笑うか、冗談にするか、もしかしたらエッチなことを言うかもしれない。
でもこの人は謝った。
落ちそうになった私を助けようとしてくれて、謝ってくれるのなんて、この人だけだと思った。
私は椅子に座って、手元のノートを開いた。
ペンを持ったまま、ぼんやりしてしまう。
係長の耳が赤かったことをまた思い出した。
あれが嬉しかった。
どうして嬉しかったんだろうって、考えた。
……考えたけど、答えは出なかった。
でも、出なくていい。
出てしまったらたぶん、困ることになるから。
◆第6話、本日19時更新◆




