第4話「四月五日、係長って素敵だよね」
金曜日の昼休み、私は給湯室でお湯を沸かしていた。
一週間が終わろうとしている。
月曜の入社式から数えてまだ五日しか経っていないのに、ずいぶんと長かった気がする。
一か月分くらいの何かが、もう自分の中に積み上がっている気がする。
「風宮さん!」
明るい声が給湯室に飛び込んできた。
振り返ると、山本玲さんが立っていた。
ショートカットをふわっと揺らして、満面の笑顔で私を見ている。
「一緒にランチどう? 近くにおいしいお店があって、新人の子が入った時は絶対に連れて行くって決めてたんだ」
「ありがとうございます、ぜひ」
◆
山本さんが連れて行ってくれたのは、事務所のビルから徒歩三分のイタリアン。
カジュアルなお店で、ランチセットが千円以内で食べられる。
山本さんは慣れた様子でメニューも見ずにパスタを頼んだ。
私はサラダセットにした。
「風宮さん、今週どうだった? 設計一課って独特の雰囲気があるでしょ? 最初はとっつきにくいかなって思って」
「独特、ですか?」
「なんていうか、みんな仕事に集中してる感じで、わいわいしてないじゃない? 私が最初に配属された時なんて、しばらく居場所わかんなくてさ」
山本さんはそう言って、少し眉を下げた。
「居心地は悪くないです。 静かで、集中できる感じで」
「わかるわかる。 慣れるとあの空気、好きになるんだよね」
パスタが運ばれてきた。
山本さんはフォークを手に取って、「いただきます」と言った。
「風宮さんって、大学は建築?」
「はい、建築学科です」
「あ、そっかー。 私は建築じゃなくて、インテリアデザイン専攻だったんだー。 設計の仕事、最初から希望してたの?」
「はい、ずっと」
「偉いなあ」
山本さんは屈託なく笑った。
声が大きくて、表情がよく動いて、一緒にいると場が明るくなる。
こういう人が職場にいてくれると単純に、嬉しいなって思った。
しばらく、当たり障りのない話が続いた。
おいしいカフェの場所。
通勤経路。
社員食堂のメニューのこと。
そして、山本さんがパスタを一口食べてから、ふと顔を上げた。
「そうだ。 風宮さんの指導係、馬平係長だよね?」
フォークを持つ手が止まった。
「はい、そうです」
「どう? 係長の指導」
「丁寧に教えてもらっています。 昨日、現場にも同行させてもらって」
「いいなあ」
山本さんがフォークを置いた。
頬杖をついて、少し遠くを見るような目になった。
「馬平係長に現場連れて行ってもらうの、最高なんだよねー。 私、去年何回も一緒に行かせてもらって。 その時のこと、今でも覚えてるもん」
「山本さん、去年、馬平係長が指導係だったんですか」
「そう! 一年間お世話になって。 ほんとに、去年のあの一年は……」
山本さんの目が遠くなった。
何度か見たことのある、係長を見ている時の目だ。
「係長って、素敵だよね」
山本さんが言った。
独り言みたいな言い方で。
「……そうですか?」
私は答えた。
山本さんがはっと顔を上げた。
「え、まだわからない? 一週間じゃそうかー。 でも絶対わかるよ。 一緒にいたら、絶対」
「何が、わかるんですか」
私は少し首をかしげた。
山本さんは少し考えるように視線を動かして、それから言った。
「最初はさ、係長、私のこと全然見てくれないなって思ったんだよ。 顔は見ないし、仕事の話しかしないしね」
私は黙って聞いた。
山本さんは笑ってた。
「でもね…」
フォークをくるくる回す。
「ある日、残業してたらさ。 気づいたら机の上に缶コーヒーが置いてあったの」
「係長が?」
「そう」
山本さんが少し笑った。
「しかも私がいつも飲んでる銘柄の」
山本さんは頬杖をついた。
「図面で詰まった時もさ、答えは教えてくれないんだよ。 でもヒントはくれるんだ」
「……」
「それで私が完成させるとね、柄にもないのに、照れながら褒めてくれるの」
山本さんが目を細めた。
「そういうの、何回かやられるとね。 気づいたときにはもう遅いんだよ」
最後のほうは、もうほとんど呟きになってた。
私はサラダをフォークで刺して食べたけど、味がわからなくなってた。
「山本さんは」
「ん?」
「係長のことが好きなんですか?」
聞いてしまってから、踏み込みすぎたと思った。
でも山本さんは気分を害した様子もなく、むしろすっきりした顔で笑った。
「好きだよ。 大好き。 全然隠してないし、本人にも言ってるし。 でも全然気づいてもらえないんだよね、あの人には。 鈍感にもほどがあるっていうか」
「……言ってるんですか、本人に」
「言ってるよ! 会いたくて早く来てるって、今朝も言ったし。 でも係長、毎回ちゃんと受け取らないんだよ。 冗談だと思ってるのか、本気だってわかってないのか。 とにかく、馬の耳、なんだよ」
山本さんはそう言って、ケラケラ笑った。
傷ついている様子はなかった。
「応援してます」と私は言った。
「ありがとね! でも風宮さんも気をつけてね」
「え?」
「だから、係長に。 気づいたときにはもう、遅いんだ」
山本さんはいたずらっぽく笑った。
「私みたいになっちゃうよ?」
私は「そんなことないです」と、はっきりと答えた。
なのに帰り道、山本さんの言葉が、頭の中で聞こえてきた。
――気づいたときには、もう遅いんだ
私は空を見て、その声を打ち消して、歩くペースを少し上げた。
◆
午後のフロアに戻ると、係長は自分のデスクで図面を見ていた。
私は席に座って、ノートパソコンを立ち上げた。
係長の横顔が視界の端に入った。
素敵だよね、という山本さんの言葉を思い返してしまって、改めてその横顔を見た。
整った顔ではないかもしれない。
でもなんというか、座っているだけで様になる人だ。
図面を見る時の目の動き、ペンを持つ手、たまに腕を組んで考え込んだときの静かな気配。
普通のおじさんのはずなのに。
どうしてだろ。
視線をモニターに戻した。
私は山本さんみたいにはならない。
そう決めた。
決めたそばから、係長がふと顔を上げて、私の方を見た。
「さっきの打ち合わせのメモ、清書できたか」
「あ、はい。 もうできます」
「そうか、ありがとう。 疲れたろ。 今日それ終わったら」
「……」
「ちゃんと休めよ」
係長はまた図面に視線を戻した。
私も、慌ててモニターに戻した。
心臓が鳴ってた。
でもそれは山本さんの話のせいだ。
そういうことにしておいた。
◆第5話、本日18時更新◆




