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第3話「四月三日、興味ゼロ」

 「午後、現場に行く。同行しろ」


水曜日の朝、係長に声をかけられた。


「おはよう」とか、「よかったら」とか「都合はどうだ」とかも、なかった。

行く、同行しろ、以上。


「わかりました」と答えた。


 ――現場


今日私は、現場に行くんだ。



午後一時、一階のロッカー室で着替えを終えて、駐車場に向かった。


会社から支給された作業服は、上下セットの薄い水色。

ヘルメットもある。


ちょうど昨日の退社前に総務の倉田さんから渡されて、「現場に行く時は必ず着用すること」と言われていた。


ヘルメットを片手に持って、駐車場に出た。


係長はすでに車のそばに立っていた。

同じ水色の作業服を着て、丸めた図面を脇に挟んで、スマホで何かを確認してる。

初めて見るその姿に一瞬、言葉が出なかった。

すごく似合っていた。


私が近づいた時、スマホから顔を上げて、私を見た。


一瞬。


係長の視線が、私の全体をざっと確認した。

新人がちゃんと作業服を着ているか、ちゃんとヘルメットを持っているか、それを確認しているだけだと思った。


係長は、何も言わずに上着を脱いだ。


 「腰に巻け」


 「え?」


係長が上着を差し出した。


 「あ、でも係長が寒く――」


 「早く」


有無を言わせない口調。

私は反射的に受け取った。


 「いいから早く腰に巻け」


言われるがまま、腰に巻いた。


 「戻るぞ。 俺の予備がある」


係長の背中はもう、会社のエントランスに向かっていた。



ロッカー室まで二人で戻った。

係長が「俺はここで待ってる」と言いながら、自分の予備のズボンと一緒に、私を女子ロッカー室に押し込んだ。


真っ先に鏡の前に立った。

正面から見た自分は、普通だった。

ちょうどいいサイズの水色の作業服が、体のラインにぴたりと沿っている。


別に、おかしくない。


後ろを向いた。

鏡越しに、自分の後ろ姿が見えた。



 「……うそ」



声が出た。


生地の薄い作業服が、体のラインにぴったり沿って張り付いてて……。

白いパンツが完全に透けてた。


もう一度正面を見た。


 ……食い込んでる。


係長に、駐車場で、外の光の下で、見られたんだ。

両手で顔を覆った。


後ろも、前も……。


初日は尻もちをついた。

昨日は胸元のボタンが外れてた。

三日目は、この作業服。


三日連続であの人に、こんなに恥ずかしい姿を見られてしまった。


 ……三日連続って、なに。


係長は何も言わなかった。

腰に巻けと言っただけで、それ以外は何も言わなかった。

淡々と、上着を脱いで、差し出してくれた。


私は深呼吸をして、顔から手を離した。



落ち着け、私。



係長の予備のズボンに履き替えて、鏡で、前も後ろも確認した。


今度は透けていない。


係長のズボンを履いている、と思ったら、なんとなくじわり……、もうそれ以上は考えるのをやめて、廊下に出た。


 「履き替えました」


 「そうか。 行くぞ」


私から上着を受け取った係長は、歩き出した。

私のお尻を、もう一度確認するようなことは、しなかった。



車が動き出した。


沈黙。


窓の外を、四月の街が流れていく。

新しい葉の色が、春の光の中で柔らかく揺れている。


係長は前を向いたまま何も言わなかった。

作業服が透けていたことも、言わなかった。

まるでそんなことは最初からなかったみたいに、ただハンドルを握っている。


 「現場は何の建物ですか」


私から聞いた。


 「クリニックの新築だ。木造二階建て、延床面積は三百平米ほど。今日は基礎の仕上がりを確認する」


 「基礎の確認は、具体的に何を見るんですか」


 「寸法の精度、コンクリートの仕上がり、ボルトの位置。図面通りに作られているかを確認する。誤差が許容範囲内かどうかを判断するのが仕事だ」


 「誤差が許容範囲を超えていたら?」


 「やり直しになる。施工会社と協議して、修正方法を決める」


 「それは、よくあることですか」


 「ある。ただし、いい現場監督がいるところでは、ほとんどない」


係長が、私の方をちらりと見た。

一秒にも満たない、ほんの一瞬。


 「今日の現場は、いい監督だ。たぶん問題はない」


私はメモを取った。

係長はまた前を向いた。


……沈黙が戻ってきた。


でも気まずくなかった。



信号で止まった時、私は少し試してみた。

係長の方に顔を向けて、微笑んでみたんだ。


別に深い理由なんてなかった。

ただこの人がどうなるか、見てみたかっただけ。


これまでの人生で私が男性の近くで微笑んだとき、何も起きなかったことはなかった。

目が泳ぎだしたり、声のトーンが高くなりすぎたり。



 …………。



なのに、私がずっと係長に微笑みかけているのに、係長は前を見たまま変わらない。

信号が青になって、車が動き出した。



 ……。



完全に、スルーされた。


私は前に向き直った。

笑いそうになった。

笑いそうになってしまって、唇を引き結んだ。



 ……この人、私の顔に、本当に興味ゼロだ。



はっきりそう確信したとき、ほっとした。

じわっと、肩の力が抜けていく感覚があった。


そうか、この人は違うんだ。


下心を警戒しなくていい。

愛想笑いのエネルギーも使わなくていい。


私はこのまま、ここにいていいんだ。


そう思った。



現場は住宅街の一角にあった。

フェンスで囲まれた工事現場に入ると、現場監督の橋本さんという四十代の男性が出迎えてくれた。

がっしりとした体格で、日焼けした顔に人懐っこい笑顔を持つ人だった。


 「馬平さん、お待ちしてました」


 「橋本さん、お疲れ様です。新人を連れてきました、風宮です」


係長が私を紹介した。


 「風宮さん、はじめまして。あ…」


橋本さんが、私を見た瞬間、表情が変わった。

よく見る変わり方だった。

目が少し大きくなって、背筋がわずかに伸びる。

現場の職人さんたちも、全員がこちらを振り返った。

視線が集まってくる。


私は愛想笑いを作りかけた。



 「橋本さん、今日の基礎の状況を見せてください」



係長が言った。

それだけで、橋本さんの視線が係長に移った。

職人さんたちも、それぞれの仕事に戻っていった。


「こちらです」と橋本さんが歩き出して、係長がその後に続いた。

私も慌てて後を追った。


係長はもう図面を広げて橋本さんと話している。

私のことなど、もうどこにもない。


偶然だとわかっていても、係長のおかげで息がしやすくなった。


現場の確認は一時間ほどかかった。

係長は図面と現場を交互に見ながら、橋本さんと細かい数字のやりとりをした。

私はその横でメモを取り続けた。

専門用語がいくつかわからなくて、後で調べようと片仮名でそのまま書き留めた。


帰り際、橋本さんが「馬平さん、一点だけ確認したいことが」と係長を呼んだ。

二人が少し離れた場所で話し始めた。


私は入り口のフェンスのそばで待った。


現場の職人さんが一人、通りかかった。

三十代くらいの男性で、私を見てにやりとした。


 「お嬢さん、設計事務所の方? 馬平さんのとこの新人さん?」


 「はい、今日から同行させてもらっています」


 「いや、びっくりした。最近はこんな若い子も来るんだな」


私は「ありがとうございます」と答えて愛想笑いを作った。

慣れた作業。でも苦しい。


 「今度飯でも――」


そのとき、



 「風宮」



係長の声がした。

気づけば係長が戻ってきていた。

職人さんと私を一瞬だけ見て、「行くぞ」と言った。


私は「はい」と答えて、係長の後に続いた。


係長は何も言わなかった。

助けてくれたとも、気を遣ったとも、何も言わなかった。

たぶん本当に、ただ戻ってきただけだったと思う。

でも歩きながら、私の胸の奥が少しだけ、緩んだ気がした。



帰りの車も、行きと同じだった。

必要なことだけを話して、あとは沈黙だった。


今はもう、沈黙が全然気にならない。

窓の外を流れる夕方の景色を見ながら、私は今日一日を思い返した。


駐車場で、係長が私の姿を見た。

何も言わずに上着を脱いで、腰に巻けとだけ言った。

あの時の、係長の目を思い出した。

一瞬、私の全身を見た、あの目。


思い出すと耳が熱くなった。


信号で車が止まった。

夕日が、フロントガラスに斜めに差し込んできた。


係長の横顔が、その光の中にあった。


私はすぐに窓の外に目を戻した。

帰り道の助手席が、行きよりも居心地よくなっている。


その理由はまだ私には、わからない。



◆第4話、本日17時更新◆

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