第3話「四月三日、興味ゼロ」
「午後、現場に行く。同行しろ」
水曜日の朝、係長に声をかけられた。
「おはよう」とか、「よかったら」とか「都合はどうだ」とかも、なかった。
行く、同行しろ、以上。
「わかりました」と答えた。
――現場
今日私は、現場に行くんだ。
◆
午後一時、一階のロッカー室で着替えを終えて、駐車場に向かった。
会社から支給された作業服は、上下セットの薄い水色。
ヘルメットもある。
ちょうど昨日の退社前に総務の倉田さんから渡されて、「現場に行く時は必ず着用すること」と言われていた。
ヘルメットを片手に持って、駐車場に出た。
係長はすでに車のそばに立っていた。
同じ水色の作業服を着て、丸めた図面を脇に挟んで、スマホで何かを確認してる。
初めて見るその姿に一瞬、言葉が出なかった。
すごく似合っていた。
私が近づいた時、スマホから顔を上げて、私を見た。
一瞬。
係長の視線が、私の全体をざっと確認した。
新人がちゃんと作業服を着ているか、ちゃんとヘルメットを持っているか、それを確認しているだけだと思った。
係長は、何も言わずに上着を脱いだ。
「腰に巻け」
「え?」
係長が上着を差し出した。
「あ、でも係長が寒く――」
「早く」
有無を言わせない口調。
私は反射的に受け取った。
「いいから早く腰に巻け」
言われるがまま、腰に巻いた。
「戻るぞ。 俺の予備がある」
係長の背中はもう、会社のエントランスに向かっていた。
◆
ロッカー室まで二人で戻った。
係長が「俺はここで待ってる」と言いながら、自分の予備のズボンと一緒に、私を女子ロッカー室に押し込んだ。
真っ先に鏡の前に立った。
正面から見た自分は、普通だった。
ちょうどいいサイズの水色の作業服が、体のラインにぴたりと沿っている。
別に、おかしくない。
後ろを向いた。
鏡越しに、自分の後ろ姿が見えた。
「……うそ」
声が出た。
生地の薄い作業服が、体のラインにぴったり沿って張り付いてて……。
白いパンツが完全に透けてた。
もう一度正面を見た。
……食い込んでる。
係長に、駐車場で、外の光の下で、見られたんだ。
両手で顔を覆った。
後ろも、前も……。
初日は尻もちをついた。
昨日は胸元のボタンが外れてた。
三日目は、この作業服。
三日連続であの人に、こんなに恥ずかしい姿を見られてしまった。
……三日連続って、なに。
係長は何も言わなかった。
腰に巻けと言っただけで、それ以外は何も言わなかった。
淡々と、上着を脱いで、差し出してくれた。
私は深呼吸をして、顔から手を離した。
落ち着け、私。
係長の予備のズボンに履き替えて、鏡で、前も後ろも確認した。
今度は透けていない。
係長のズボンを履いている、と思ったら、なんとなくじわり……、もうそれ以上は考えるのをやめて、廊下に出た。
「履き替えました」
「そうか。 行くぞ」
私から上着を受け取った係長は、歩き出した。
私のお尻を、もう一度確認するようなことは、しなかった。
◆
車が動き出した。
沈黙。
窓の外を、四月の街が流れていく。
新しい葉の色が、春の光の中で柔らかく揺れている。
係長は前を向いたまま何も言わなかった。
作業服が透けていたことも、言わなかった。
まるでそんなことは最初からなかったみたいに、ただハンドルを握っている。
「現場は何の建物ですか」
私から聞いた。
「クリニックの新築だ。木造二階建て、延床面積は三百平米ほど。今日は基礎の仕上がりを確認する」
「基礎の確認は、具体的に何を見るんですか」
「寸法の精度、コンクリートの仕上がり、ボルトの位置。図面通りに作られているかを確認する。誤差が許容範囲内かどうかを判断するのが仕事だ」
「誤差が許容範囲を超えていたら?」
「やり直しになる。施工会社と協議して、修正方法を決める」
「それは、よくあることですか」
「ある。ただし、いい現場監督がいるところでは、ほとんどない」
係長が、私の方をちらりと見た。
一秒にも満たない、ほんの一瞬。
「今日の現場は、いい監督だ。たぶん問題はない」
私はメモを取った。
係長はまた前を向いた。
……沈黙が戻ってきた。
でも気まずくなかった。
◆
信号で止まった時、私は少し試してみた。
係長の方に顔を向けて、微笑んでみたんだ。
別に深い理由なんてなかった。
ただこの人がどうなるか、見てみたかっただけ。
これまでの人生で私が男性の近くで微笑んだとき、何も起きなかったことはなかった。
目が泳ぎだしたり、声のトーンが高くなりすぎたり。
…………。
なのに、私がずっと係長に微笑みかけているのに、係長は前を見たまま変わらない。
信号が青になって、車が動き出した。
……。
完全に、スルーされた。
私は前に向き直った。
笑いそうになった。
笑いそうになってしまって、唇を引き結んだ。
……この人、私の顔に、本当に興味ゼロだ。
はっきりそう確信したとき、ほっとした。
じわっと、肩の力が抜けていく感覚があった。
そうか、この人は違うんだ。
下心を警戒しなくていい。
愛想笑いのエネルギーも使わなくていい。
私はこのまま、ここにいていいんだ。
そう思った。
◆
現場は住宅街の一角にあった。
フェンスで囲まれた工事現場に入ると、現場監督の橋本さんという四十代の男性が出迎えてくれた。
がっしりとした体格で、日焼けした顔に人懐っこい笑顔を持つ人だった。
「馬平さん、お待ちしてました」
「橋本さん、お疲れ様です。新人を連れてきました、風宮です」
係長が私を紹介した。
「風宮さん、はじめまして。あ…」
橋本さんが、私を見た瞬間、表情が変わった。
よく見る変わり方だった。
目が少し大きくなって、背筋がわずかに伸びる。
現場の職人さんたちも、全員がこちらを振り返った。
視線が集まってくる。
私は愛想笑いを作りかけた。
「橋本さん、今日の基礎の状況を見せてください」
係長が言った。
それだけで、橋本さんの視線が係長に移った。
職人さんたちも、それぞれの仕事に戻っていった。
「こちらです」と橋本さんが歩き出して、係長がその後に続いた。
私も慌てて後を追った。
係長はもう図面を広げて橋本さんと話している。
私のことなど、もうどこにもない。
偶然だとわかっていても、係長のおかげで息がしやすくなった。
現場の確認は一時間ほどかかった。
係長は図面と現場を交互に見ながら、橋本さんと細かい数字のやりとりをした。
私はその横でメモを取り続けた。
専門用語がいくつかわからなくて、後で調べようと片仮名でそのまま書き留めた。
帰り際、橋本さんが「馬平さん、一点だけ確認したいことが」と係長を呼んだ。
二人が少し離れた場所で話し始めた。
私は入り口のフェンスのそばで待った。
現場の職人さんが一人、通りかかった。
三十代くらいの男性で、私を見てにやりとした。
「お嬢さん、設計事務所の方? 馬平さんのとこの新人さん?」
「はい、今日から同行させてもらっています」
「いや、びっくりした。最近はこんな若い子も来るんだな」
私は「ありがとうございます」と答えて愛想笑いを作った。
慣れた作業。でも苦しい。
「今度飯でも――」
そのとき、
「風宮」
係長の声がした。
気づけば係長が戻ってきていた。
職人さんと私を一瞬だけ見て、「行くぞ」と言った。
私は「はい」と答えて、係長の後に続いた。
係長は何も言わなかった。
助けてくれたとも、気を遣ったとも、何も言わなかった。
たぶん本当に、ただ戻ってきただけだったと思う。
でも歩きながら、私の胸の奥が少しだけ、緩んだ気がした。
◆
帰りの車も、行きと同じだった。
必要なことだけを話して、あとは沈黙だった。
今はもう、沈黙が全然気にならない。
窓の外を流れる夕方の景色を見ながら、私は今日一日を思い返した。
駐車場で、係長が私の姿を見た。
何も言わずに上着を脱いで、腰に巻けとだけ言った。
あの時の、係長の目を思い出した。
一瞬、私の全身を見た、あの目。
思い出すと耳が熱くなった。
信号で車が止まった。
夕日が、フロントガラスに斜めに差し込んできた。
係長の横顔が、その光の中にあった。
私はすぐに窓の外に目を戻した。
帰り道の助手席が、行きよりも居心地よくなっている。
その理由はまだ私には、わからない。
◆第4話、本日17時更新◆




