第2話「四月二日、見ない人」
翌朝、私は三十分早く家を出た。
フリーアドレスだから、早めに行った方が、いい席が取れるから。
設計一課のフロアに着くと、すでに数人が出社していた。
みんな黙々とモニターを見ている。
私は入り口で一瞬だけ立ち止まって、さりげなく、でも素早く、フロア全体を見渡した。
馬平係長の姿はなかった。
いなくてほっとした。そしてなぜか少しがっかりもした。
……何をやってるんだろ。
席を決めて、昨日配布された資料を読み返した。
設計一課の業務フロー、使用しているアプリの概要に進行中のプロジェクト一覧。
覚えることが山ほどある。
八時四十分ごろ、フロアの空気がかすかに動いた。
昨日と同じ感覚だ。
馬平係長が来たんだ。
昨日と同じ、無駄のない歩き方で、視線は真っ直ぐ前を見ている。
私は立ち上がって、挨拶しようと息を吸った。
「馬平係長! おはようございます!」
私より先に、声が飛んだ。
振り返ると、立ち上がった山本さんが、係長の方に体ごと向いていた。
ショートカットのかわいらしい雰囲気の先輩社員だ。
朝から全開の笑顔で係長に挨拶している。
私が立ち上がりかけていたことも、息を吸っていたことも、山本さんには見えていない。
「おはよう、山本」
「今日も早いですね! 私、早く来たのに、馬平係長、もうとっくに来てたんですよね。また負けました」
「お前も十分早い」
山本さんは笑っていた。
まっすぐで嫌みのない笑い方だった。
係長はまた何か短く答えて、自分のデスクへ向かった。
山本さんが「もう、係長ってば」と笑い続けている声が、後ろから聞こえてきた。
私は中途半端に立ち上がったまま、なんだか取り残されたような気持ちで立っていた。
もう少し早く立ち上がっていれば、先に挨拶できたのに……。
私はそっと息を吐いて、係長の席に向かった。
係長は着席して、もう分厚いファイルを開いていた。
「おはようございます、馬平係長」と声をかけると、係長は顔を上げた。
昨日と同じで、表情は動かないままだった。
「おはよう。 もう来てたのか」
「はい、少し早めに」
「そうか」
また。
無理に褒めたりするんじゃなくて、事実として受け取った。
係長はすでにファイルに視線を戻していた。
私は「失礼します」と言って、自分の席に戻ろうとした。
「風宮」
係長が呼んだ。
私は振り返った。
係長はファイルを見たまま、ほんの少し顎を引いて、静かに言った。
「ボタン、一つ外れてる」
一瞬、意味がわからなかった。
ボタン?
私は視線を自分の胸元に落とした。
白いブラウスの、ちょうど胸の上あたりのボタンが、一つ外れていた。
朝、急いで着たせいだろうか。
はめたつもりだったのに、留まってなかった。
ブラウスが、少し、開いていて、
――中が、見えてる。
頭の中が真っ白になった。
係長はそれに気づいていた。
気づいた上で今、教えてくれた。
……ということは、ずっと見えてた。
見えてたのに、係長は今の今まで、普通の係長だった。
………。
声が出なかった。
私は胸元を手で押さえて、後ろを向いた。
背中を係長に向けて、震える指でボタンをはめる。
指が言うことを聞いてくれなくて、なかなかはまらなかった。
大きく深呼吸を一回して、振り返った。
「あ、ありがとうございます」
係長はすでにファイルを読んでいた。
「気をつけてな」
顔を上げなかった。
私は自分の席に戻って、椅子に座った。
胸に手を当てたら、またドキドキしてた。
どうして私だけこんなに動揺してるんだろ。
あの人は見てたはずなのに、まるで何もなかったみたい。
……変な人。
◆
午前中、係長が私の席に来た。
「今進行中のプロジェクトの概要を説明する。午後からの打ち合わせに同席してもらうからな」
そう言って、椅子を引いて私の隣に座りながら、係長はA3の図面を広げた。
建物の図面だ。
私はその図面を見た。
図面を見ながら、視界の端で係長の横顔を見ていた。
「ここが今回のメインになる外観で、相手さんはここの素材にこだわっている。打ち合わせでは俺が全て話す。だからお前はメモを取って、気になったことはなんでも書き留めておけ」
係長は図面を見ながら話した。
図面だけを見て、話した。
私の顔は、一度も見なかった。
これだけ近い距離なのに、視線が顔にも、胸にも全く来ない。
説明している間も、指が図面の上を動く間も、ずっと図面だけを見ていた。
どうして……
いや、見てこなくていいんだ。むしろ見てこない方がいいんだ。
なのになぜか妙な感じがする。
まるで私がそこにいない、みたいな。
気付けば私が係長のことを見ていた。
ふと「質問は?」と係長が言った。
「この外観の素材、最終的にはどちらが決めるんですか? お客様と、こちらと」
そのとき係長が突然、私を見た。
今度は私から視線を逸らさない。
…………。
瞬きもせずに、まっすぐ、私の目を見ている。
「両方で決める。相手さんの意向を聞いて、こちら設計側の技術的判断を合わせて、最終的に折り合いをつける。どちらかが一方的に決めることはない」
「……わかりました」
「いい質問だ」
それだけ言って、係長は図面に視線を戻した。
――いい質問だ
その言葉が耳に残った。
褒められた、と気づいたのは、係長が席を立って自分のデスクに戻った後だった。
◆
午後の打ち合わせから戻って、メモをノートパソコンに打ち込んでいた。
フロアの奥に、大きなプリンターが置いてある。
共用のもので、各自が出力した書類をそこに取りに行く仕組みになっている。
係長がプリンター横のホワイトボードの前に立って、何かを書き込んでいた。
片手にマーカーを持って、静かにボードと向き合っている。
ちょうどそのタイミングで、私のプリントアウトが終わった。
プリンターはホワイトボードのすぐ隣。
係長の、すぐ隣。
私は立ち上がって、プリンターに向かった。
プリンターの出力トレイは、思ったより奥の方だった。
身体を少し傾けて、書類に手を伸ばした。
届かなくてもう少し、身体を前に傾けた。
ヒールのせいか、体がぶれた、その瞬間だった。
むにゅっ
バランスを取ろうと突き出してしまった私のお尻が、係長に当たった。
「んあっ」
私は反射的に、体を反らした。
書類を胸に抱えて、振り返った。
顔が燃えていた。
係長はホワイトボードを向いたままだった。
マーカーの動きが、一瞬だけ止まって、また動いた。
「す、すみません」
私は絞り出すように言った。
係長がちらりとこちらを見る。
「書類、落とさなかったか?」
表情が変わっていない。
彼は再びホワイトボードに向き直って、マーカーを動かし始めた。
私はその場に立ち尽くした。
どうして?
どうしてそんなに普通なの?
当たってしまって、私の方は、耳の先まで熱くなってるのに。
この人は「落とさなかったか」の一言で、もうホワイトボードに向かってる。
今朝のボタンの時もそうだった。
この人は何も感じないんだろうか。
◆
帰り際、私はエレベーターで一人になった瞬間、今日一日を思い返した。
朝のボタンにプリンターのお尻。
どちらの時も、係長は動じなかった。
私が真っ赤になっていたことに、まるで気づかなかったみたいに。
そんな係長が今日、私の目をまっすぐ見たのは、あの一回。
いい質問だと言った、あの数秒だけ。
見てこなくていい。
そう思ってるはずなのに、エレベーターの鏡に映った自分は、なんだか不満そうな顔してる。
エレベーターのドアが開いた。
明日の朝も、早く来よう。
フリーアドレスだから、早く来たほうが、いい席が取れるから。
そういうことにしておこう。




