表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/30

第2話「四月二日、見ない人」

翌朝、私は三十分早く家を出た。

フリーアドレスだから、早めに行った方が、いい席が取れるから。


設計一課のフロアに着くと、すでに数人が出社していた。

みんな黙々とモニターを見ている。

私は入り口で一瞬だけ立ち止まって、さりげなく、でも素早く、フロア全体を見渡した。


馬平係長の姿はなかった。


いなくてほっとした。そしてなぜか少しがっかりもした。


 ……何をやってるんだろ。


席を決めて、昨日配布された資料を読み返した。

設計一課の業務フロー、使用しているアプリの概要に進行中のプロジェクト一覧。

覚えることが山ほどある。


八時四十分ごろ、フロアの空気がかすかに動いた。


昨日と同じ感覚だ。

馬平係長が来たんだ。


昨日と同じ、無駄のない歩き方で、視線は真っ直ぐ前を見ている。


私は立ち上がって、挨拶しようと息を吸った。


 「馬平係長! おはようございます!」


私より先に、声が飛んだ。


振り返ると、立ち上がった山本さんが、係長の方に体ごと向いていた。

ショートカットのかわいらしい雰囲気の先輩社員だ。

朝から全開の笑顔で係長に挨拶している。


私が立ち上がりかけていたことも、息を吸っていたことも、山本さんには見えていない。


 「おはよう、山本」


 「今日も早いですね! 私、早く来たのに、馬平係長、もうとっくに来てたんですよね。また負けました」


 「お前も十分早い」


山本さんは笑っていた。

まっすぐで嫌みのない笑い方だった。

係長はまた何か短く答えて、自分のデスクへ向かった。

山本さんが「もう、係長ってば」と笑い続けている声が、後ろから聞こえてきた。


私は中途半端に立ち上がったまま、なんだか取り残されたような気持ちで立っていた。


もう少し早く立ち上がっていれば、先に挨拶できたのに……。


私はそっと息を吐いて、係長の席に向かった。


係長は着席して、もう分厚いファイルを開いていた。


「おはようございます、馬平係長」と声をかけると、係長は顔を上げた。

昨日と同じで、表情は動かないままだった。


 「おはよう。 もう来てたのか」


 「はい、少し早めに」


 「そうか」


また。

無理に褒めたりするんじゃなくて、事実として受け取った。

係長はすでにファイルに視線を戻していた。

私は「失礼します」と言って、自分の席に戻ろうとした。


 「風宮」


係長が呼んだ。

私は振り返った。

係長はファイルを見たまま、ほんの少し顎を引いて、静かに言った。


 「ボタン、一つ外れてる」


一瞬、意味がわからなかった。


 ボタン?


私は視線を自分の胸元に落とした。

白いブラウスの、ちょうど胸の上あたりのボタンが、一つ外れていた。

朝、急いで着たせいだろうか。

はめたつもりだったのに、留まってなかった。


ブラウスが、少し、開いていて、


 ――中が、見えてる。


頭の中が真っ白になった。


係長はそれに気づいていた。

気づいた上で今、教えてくれた。


 ……ということは、ずっと見えてた。


見えてたのに、係長は今の今まで、普通の係長だった。


 ………。


声が出なかった。

私は胸元を手で押さえて、後ろを向いた。

背中を係長に向けて、震える指でボタンをはめる。

指が言うことを聞いてくれなくて、なかなかはまらなかった。


大きく深呼吸を一回して、振り返った。


 「あ、ありがとうございます」


係長はすでにファイルを読んでいた。


 「気をつけてな」


顔を上げなかった。


私は自分の席に戻って、椅子に座った。

胸に手を当てたら、またドキドキしてた。

どうして私だけこんなに動揺してるんだろ。

あの人は見てたはずなのに、まるで何もなかったみたい。


 ……変な人。



午前中、係長が私の席に来た。


 「今進行中のプロジェクトの概要を説明する。午後からの打ち合わせに同席してもらうからな」


そう言って、椅子を引いて私の隣に座りながら、係長はA3の図面を広げた。

建物の図面だ。


私はその図面を見た。

図面を見ながら、視界の端で係長の横顔を見ていた。


 「ここが今回のメインになる外観で、相手さんはここの素材にこだわっている。打ち合わせでは俺が全て話す。だからお前はメモを取って、気になったことはなんでも書き留めておけ」


係長は図面を見ながら話した。

図面だけを見て、話した。

私の顔は、一度も見なかった。

これだけ近い距離なのに、視線が顔にも、胸にも全く来ない。

説明している間も、指が図面の上を動く間も、ずっと図面だけを見ていた。


 どうして……


いや、見てこなくていいんだ。むしろ見てこない方がいいんだ。

なのになぜか妙な感じがする。

まるで私がそこにいない、みたいな。


気付けば私が係長のことを見ていた。


ふと「質問は?」と係長が言った。


 「この外観の素材、最終的にはどちらが決めるんですか? お客様と、こちらと」


そのとき係長が突然、私を見た。

今度は私から視線を逸らさない。


 …………。


瞬きもせずに、まっすぐ、私の目を見ている。


 「両方で決める。相手さんの意向を聞いて、こちら設計側の技術的判断を合わせて、最終的に折り合いをつける。どちらかが一方的に決めることはない」


 「……わかりました」



 「いい質問だ」



それだけ言って、係長は図面に視線を戻した。


 ――いい質問だ


その言葉が耳に残った。

褒められた、と気づいたのは、係長が席を立って自分のデスクに戻った後だった。



午後の打ち合わせから戻って、メモをノートパソコンに打ち込んでいた。


フロアの奥に、大きなプリンターが置いてある。

共用のもので、各自が出力した書類をそこに取りに行く仕組みになっている。


係長がプリンター横のホワイトボードの前に立って、何かを書き込んでいた。

片手にマーカーを持って、静かにボードと向き合っている。


ちょうどそのタイミングで、私のプリントアウトが終わった。


プリンターはホワイトボードのすぐ隣。

係長の、すぐ隣。


私は立ち上がって、プリンターに向かった。


プリンターの出力トレイは、思ったより奥の方だった。

身体を少し傾けて、書類に手を伸ばした。

届かなくてもう少し、身体を前に傾けた。

ヒールのせいか、体がぶれた、その瞬間だった。


 むにゅっ


バランスを取ろうと突き出してしまった私のお尻が、係長に当たった。


 「んあっ」


私は反射的に、体を反らした。

書類を胸に抱えて、振り返った。


顔が燃えていた。


係長はホワイトボードを向いたままだった。

マーカーの動きが、一瞬だけ止まって、また動いた。


 「す、すみません」


私は絞り出すように言った。


係長がちらりとこちらを見る。


 「書類、落とさなかったか?」


表情が変わっていない。

彼は再びホワイトボードに向き直って、マーカーを動かし始めた。


私はその場に立ち尽くした。


 どうして?

 どうしてそんなに普通なの?


当たってしまって、私の方は、耳の先まで熱くなってるのに。

この人は「落とさなかったか」の一言で、もうホワイトボードに向かってる。


今朝のボタンの時もそうだった。

この人は何も感じないんだろうか。



帰り際、私はエレベーターで一人になった瞬間、今日一日を思い返した。


朝のボタンにプリンターのお尻。


どちらの時も、係長は動じなかった。

私が真っ赤になっていたことに、まるで気づかなかったみたいに。


そんな係長が今日、私の目をまっすぐ見たのは、あの一回。


いい質問だと言った、あの数秒だけ。


見てこなくていい。

そう思ってるはずなのに、エレベーターの鏡に映った自分は、なんだか不満そうな顔してる。


エレベーターのドアが開いた。


明日の朝も、早く来よう。

フリーアドレスだから、早く来たほうが、いい席が取れるから。

そういうことにしておこう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ