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第1話「四月一日、最悪の予感」

桜が散ってる。

ビルのエントランスを抜けながら、私はそれを横目で見た。


綺麗。


でも今はそれをゆっくり見ていられる気分じゃない。

新しいパンプスがすでに左の小指に食い込んでる。


株式会社アトリエ・フォルム。

設立三十二年、社員数百四十名の建築設計事務所。


今日からここが私の職場になる。

期待と不安の混じったため息をのみこんで、エレベーターに乗り込んだ。


入社式は、六階の大会議室で行われる。


新入社員は私を含めて八人。

設計志望、営業志望、工事監理志望と、志望先はばらばらだ。


私は隣に座った女の子と小声で自己紹介を交わした。

山形から出てきたという彼女は、緊張で手が震えていると小さく笑った。


式が始まると、当然のように視線が集まってきた。


もう慣れている。


中学生のころからずっとそうだったから。

廊下を歩けば振り返られ、電車に乗れば周りの席が埋まり、コンビニに入ればレジの店員が二度見する。

悪意があるわけじゃないのは知ってる。

でも視線って、重い。


まだ社長の挨拶が続いている。

できるだけ目線を手元のパンフレットに落として、その重さをやり過ごした。


次の会社説明は、総務部の担当者が淡々と進めた。

就業規則、給与体系、フリーアドレスの運用ルール。

フリーアドレスというのは、固定席を持たずに毎日好きな席に座るシステムのこと。

他にも、ロッカーの使い方、経費精算のフロー、社内ツールのアカウント発行手順。

情報量が多くて、ノートを取る手が追いつかない。



午前の終盤、司会者が「では次に、設計一課の馬平係長から避難経路の説明があります」と言った。


私は特に気にも留めなかった。

避難経路の説明なんて、どの会社でもある。

どうせ「非常階段はこちらです」とか「消火器はあそこです」とか、そういう話だと思う。

ノートのページを一枚めくって、新しい見出しを書こうとした、その時だった。


 ………。


会場の空気が、かすかに変わった。

気のせいかと思ったけど、一応私は顔を上げた。


変わったのは空気じゃなくて、周囲の女性社員たちの姿勢。


左隣の島に座っている経理部らしき女性社員が、背筋を伸ばした。

右隣の島にいる営業部の若い女性社員が、耳を赤くして前を見た。

会場の前方に立っている女性社員がさりげなく、髪を耳にかけた。


それは一人の男性が壇上に立った瞬間の出来事だった。


私は男性を見た。

四十歳前後だろうか。

特別に背が高いわけじゃない。

ブランドものとは程遠い、ごく普通の紺のスーツ。

ネクタイは几帳面に締められているけれど、特にどうといったことはない。

整った顔立ち、とは言えないかもしれない。


でもなんというか、佇まいに無駄のない、余計なものを全部削ぎ落としたような立ち姿。

入社式で大勢の前に立っているのに、そこにあってあたりまえのように不思議なくらい馴染んでる。


 「馬平です。 設計一課で係長をしています」


低くて、穏やかな声だった。

マイクを使っていないのに、会場の隅々にまで響き渡った。


 「非常口は三箇所あります。メインの非常階段は………」


説明は簡潔だった。

余計な言葉がなくて、必要なことを過不足なく説明して、それで終わった。

二分もかからなかった。


周囲の女性社員たちは、彼が壇上を離れた後もなんとなくそわそわしていた。

前方の女性は、彼が会場を出て行く背中を目で必死に追っていた。


私は首をかしげた。


何だったんだろう、今の。

避難経路の説明をしただけだ。

避難経路の、説明を。



昼休みになった途端に、私は包囲された。

比喩ではなく、文字通りそうなった。


 「風宮さん!ランチ一緒にどう?」

 「近くにいいパスタのお店があって」

 「俺、この辺詳しいから案内するよ」

 「よかったら名刺を……」


新入社員ではなかった。

先輩社員たちだ。

名前も部署もわからない。

全員男性。

全員、さっきまで入社式の会場で、まじめな顔をしていた人たちだ。


私は愛想笑いを顔に貼り付けながら、「ありがとうございます、今は少しひとりでゆっくりしたくて」と言って、その場を離れた。

エレベーターホールに向かう途中でも、廊下で二人に声をかけられた。



 ……最悪。



みんな感じはいい。

だから余計に断りづらいんだ。

下心の上に笑顔っていうラッピングをして話しかけられると、断るのにとてもエネルギーがいるんだ。


ビルを出て、一ブロック歩いてコンビニに入った。

サンドイッチと紅茶を買って、誰にも見つからない場所を探した。


ビルの横に、細い通路があった。

駐車場の脇で、人通りがなさそう。

植え込みの縁に腰を掛けて、サンドイッチの袋を開けた。

パンプスを脱いで足の指を見たら、小指の皮がうっすら赤くなってた。


やっとひとりになれた。


深呼吸をして、サンドイッチを一口食べた。

たまごサラダ。

おいしかった。


 ……っ。


せっかく落ち着いたと思った矢先、さっき来た道に、誰かを探しているようなスーツ姿の男性が見えた。


急いで立ち上がって、サンドイッチを袋に戻して、もっと奥に進もうとした、その時。


慣れないヒールが、歩道の段差に引っかかった。

体が前のめりになった。

受け身を取ろうとしたけれど、もう片方のヒールもぐらついて、体勢が崩れた。


止まれない。



 倒れる――と思った瞬間、



私の胸が、どんっと、何かにぶつかった。


私の胸が、誰かの胸に受け止められた。

硬くて温かくて、ほんのり石鹸の香りがした。

私の両手がその人の両腕をつかんでいて、三秒か四秒か、私はその人の胸に、顔を押し付けていた。


手におにぎりを持ったまま、私に抱き着かれている男性の顔を、私は見た。


……あ。


さっき入社式で避難経路の説明をしていた人だ。



 「怪我は?」



 「ないです……」


私は離れようとして、急いで後ずさった。


そしたら、また――



 ――段差に足を取られた。



今度は後ろに倒れた。

アスファルトの上に、尻もちをついた。

スカートがめくれ上がって、膝が開いた。


気づいた瞬間、顔が燃えるように熱くなった。

片方のヒールが引っかかったせいで、スカートが考えたくないくらいめくれ上がっている。

膝が大きく広がっていた。


この距離で、この角度。



 ………っ!



その男性は、無言で右手を差し伸べた。

左手はおにぎりを持ったまま、視線は私の顔に向けられていた。

顔、だけに。


私は震えながらその手を取って、立ち上がった。


 「す、すみません、その、ヒールが」


 「段差がある。気をつけてな」


驚きも笑いも、からかいも気まずさも、感情が、どこにもなかった。

彼はただ事実として「段差がある」と言って、「気をつけて」と言った。


彼はおにぎりに視線を戻して、また一口かじった。


私の心臓がありえないほど高鳴った。

ものすごく恥ずかしかったから、たぶんそのせい。


男性はもうこちらを見ていなくて、おにぎりを食べながら空を見ている。

あまりにもその普通の横顔を見ているのに、なぜか心臓はうるさいまま。


私は逃げるようにその場を離れた。


背中に視線を感じなかった。

きっと彼は私のことを見ていない。

それがなんだか不思議で、ふと、私のほうが振り返った。


彼は空を見ながらおにぎりを食べていた。

彼の中に、私のことなど、もうどこにもないみたい。



午後、新入社員は各々の配属先に移動した。


私は設計一課に案内された。

広いフロアにずらりと並ぶモニター、デスクに広げられている図面、そして人の背中。

私はその入り口に立っていて、案内担当の先輩から「ここが風宮さんの配属先です」と言われた。


 「指導係の方がいるので、ご紹介しますね」


先輩が奥に向かって声をかけた。


 「馬平係長、新入社員の風宮さんが来ました」


椅子が引かれる音がした。

立ち上がった人が、こっちを見た。

手に、コーヒーのマグカップを持っていた。


 ……っ!


入社式で避難経路の説明をしていた人だ。

さっき、私の下着を見た、あの彼だ。


 「馬平だ」


低くてよく響く声が、また聞こえた。


 「今日からよろしく」


私は顔に血が上るのを感じながら、なんとか頭を下げた。



 やばい。

 これは、やばい。


 ……最悪だ。



でもその時の私はまだわかっていなかった。

本当にやばいのは、この人の隣にずっといた一年後の私、だった。




【あとがき】

最後まで読んでいただき、ほんとうにほんとうにありがとうございます。

ブックマーク登録していただけますと、筆者は泣いて喜びます。

どきどきの第2話へ、まだまだ続きます!

(全79話、私の中では完結ずみです)

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