第10話「四月十七日、食えてるか」
眠れなかった。
目を閉じると耳の奥で、あの音が何度も鳴った。
――グッシャァァンッ
舞い上がる砂埃の向こうに視線が吸い寄せられる。
鉄骨が地面へ突き刺さった光景が鮮明によみがえってきて、息が詰まる。
でも、その次の瞬間には必ず、係長が現れた。
後ろから力いっぱい抱き寄せてくれた腕も、背中越しに伝わってきた体温も、何も言わず泣かせてくれた胸の温もりも、過去の出来事だとは思えないほど、全てが鮮明だった。
――本当に、無事でよかった
あの低い声は、事故の恐怖よりも深く胸に残ってくれている。
目を閉じれば事故を思い出す。
けれどその記憶の最後には、必ず係長が出て来てくれて、私のことを助けてくれる。
恐怖と温もりが何度も入れ替わって、気づけば窓の外から小鳥のさえずりが聞こえていた。
枕元の時計に目をやると、もう朝の五時を過ぎていた。
もう眠るのは、諦めた。
顔を洗って着替えを済ませ、冷たい夜の空気がまだ残っている街に出た。
◆
フロアに着いたのは、七時の少し前だった。
照明は半分しか点いていなくて、まだ私しかいないこのオフィスで、空調の音がやけに大きく聞こえていた。
鞄を机に置いてノートパソコンを開いたところで、私はようやく自分がどの席を選んでいたのかに気がついた。
そこは、顔を上げれば、ちょうどいつも係長が座っている席の見える場所だった。
そんなことを考えてここに座ったつもりはなかったけど、無意識にこの席を選んでたみたい。
少し恥ずかしくなったけど、別の席に移ろうとは思わなかった。
……。
パソコンを開いてはみたものの、目で追っている文字の内容がまったく頭に入ってこない。
ほとんど眠れなかったせいか、目の奥がとても重たくなっていた。
よし、気分を変えよう
席を立って、トイレに行った。
用を足して、パンツを上げて、手を洗った。
鏡に映った顔は、思っていた以上に疲れていて、目の下にはうっすらと隈ができていた。
こんな顔じゃ駄目
小さく息を吐いて廊下へ出た、そのタイミングで――
「風宮」
聞き慣れた低い声が、私の背中を呼び止めた。
振り返ると、スーツ姿の係長が鞄を持って立っていた。
どうしてこんな時間に……
胸の奥で何かが弾けた。
昨夜ベッドで何度も思い出していた人が今、目の前にいる――
――足が勝手に前に出た。
係長……
気づけば駆け寄っていた。
あと一歩踏み出せば触れられるところまで来たところで、ギリギリで、我に返った。
――危なかった。
勢いで抱きついてしまうところだった。
急に駆け寄って、目の前で急に足を止めたこの私を、係長は静かに見つめていた。
あ……、なにか、言おうとしてる?
係長の視線が、私の顔から下に、ゆっくり動いた。
「風宮」
「は、はい」
「後ろ」
「え?」
淡々とした声だった。
「スカート」
何を言われたのかわからないまま後ろへ手を回して、全部理解した。
パンツを上げたとき、スカートの裾を一緒に挟んでしまってた。
後ろっ側を丸出しにして、そのまま廊下に出てきてしまってた。
「ひゃっ」
情けない声が出た。
慌ててパンツからスカートを引き出しながら両手で押さえた。
顔が一気に熱くなった。
耳も首も熱くて、自分でもびっくりするくらい真っ赤になってるのがわかった。
………。
恐る恐る、係長を見た。
……笑ってた。
声を出して笑ってたんじゃない。
口元がほんの少し、緩んでた。
この三週間、一度も見たことのない笑顔だった。
「……っ、もぅっ、ばかっ!」
気づけば口から飛び出していた。
そのまま逃げるように席まで走った。
自分の席に飛び込んでパソコンを開いたけど、画面がぼやけて文字なんて何ひとつ読めなかった。
言ってしまった。
係長に「ばか」って、言ってしまった。
入社してまだ三週間しか経ってないのに。
係長がフロアに入ってきた頃には、もういつもの無表情に戻ってて、何事もなかったかのようにいつもの席に向かっていった。
私は最後まで顔を上げられなかった。
恥ずかしくて見られない。
それにもう一度あの笑顔を見てしまったら、今度こそ駆け寄った足を止められない、そんな気がしたから。
◆
午前九時を回ったフロアは、いつもと何も変わらなかった。
係長は朝から図面を広げて、部下への指示もいつもどおり簡潔で、昨日のあんな事故なんて、まるでなかったみたいに仕事を進めている。
でも私は、落ち着かなかった。
図面を描いていても集中できない。
マウスを持つ手が止まるたび、無意識に顔を上げてしまう。
係長は図面を見ている。
……と思った次の一瞬、私を見た、気がした。
目が合った?
係長は何事もなかったようにまた図面を見ていて、私も慌てて手元に目を落とした。
気のせい、だったのかな。
そう思って仕事に戻った。
でもしばらくすると、また同じことが起こった。
係長が図面から顔を上げる。
一瞬、目が合って、どちらともなく、逸らす。
それを何度繰り返しただろう。
心臓が、朝からずっと鳴っていた。
係長は昨日のことを心配してくれている、そんな気がした。
神崎係長が言っていた。
馬平係長は、言葉じゃなくて行動で伝える人なんだって。
だからきっと今日もそうなんだ。
大丈夫か、と聞く代わりに、何度もこちらを見てしまう。
そう思った瞬間、胸の奥がふと温かくなった。
……なんだろう、この気持ち。
仕事中に図面を書いているだけなのに。
係長と目が合うたびに、胸の奥が熱くなる。
また目が合ってほしいな。
そんなことばかり考えてしまってた。
そんなことを思いながらふと顔を上げたら、また目が合った。
今度は少しだけ長かった。
係長が先に視線を外した。
そのあとでようやく私も目を逸らした。
……頬が熱い。
その熱は、午後になっても少しも冷めなかった。
◆
夕方。
帰り支度をしていた私の横を、係長が通り過ぎた。
こちらを見ることはなく、そのまま歩いてく。
すれ違った、その瞬間だった。
「飯、ちゃんと食えてるか?」
返事を待つことなく、係長は自分の席に戻っていった。
私は鞄を持ったまま、その背中を見送った。
……飯、ちゃんと食えてるか。
あの係長が仕事じゃなくて私のこと……。
胸がいっぱいになった。
◆
家に帰ってからも、ずっと消えなかった。
夕飯を食べながら。
お風呂に入りながら。
布団に入って目を閉じても。
思い出すのは、あの低い声。
――飯、ちゃんと食えてるか。
昨日、事故のあとに言ってくれた。
――本当に、無事でよかった。
あれも嬉しかった。
でも今日のは、少し違う。
昨日は命を助けてもらった。
今日は、私の毎日を気にかけてくれた。
あの人は多くを語る人じゃない。
心配してるとも言わない。
でも、たった一言で全部伝わってきた。
――飯、ちゃんと食えてるか。
あの人の伝えたかったことが、全部聞こえた。
……。
天井を見た。
昨夜は眠れなかった。
今夜は違う。
あの声を思い出すと、不思議なくらいに胸の中がいっぱいになって、体全部が幸せな気持ちに包まれる。
目を閉じた。
最後に浮かんできたのは、やっぱり係長だった。
◆つづきの第11話「お隣さん」、明日20時更新◆




