第11話「四月十九日、お隣さん」
「馬平係長の指導、どう?」
四月十九日の昼休み、山本玲さんに誘われて会社の近くのカフェへ来ていた。
窓際の席では春の日差しが店内を明るくしていた。
玲さんがパスタをフォークでくるくる巻きながら、何気ない感じで聞いてきた。
「丁寧に指導していただいています」
「そうなんだー」
玲さんは嬉しそうにうなずいた。
「係長って、教えるの上手いよね。 怒らないし」
「はい」
「何があっても、ちゃんと向き合ってくれるし」
「……はい」
玲さんは窓の外へ目を向けた。
「やっぱり、しおりちゃんもそう思うんだね」
玲さんがうなずきながら言った。
「去年ね、私、何回もミスしたの。 いっぱい迷惑かけた。 でも係長、一度も怒らなかったんだ」
少し笑って続ける。
「『俺が怒っても図面は直らない』って。 そんなことばっかり」
「……私も、言われました」
「でしょ?」
また嬉しそうな笑顔になった。
「ねえ、風宮さん」
玲さんがフォークを置いた。
「係長ってさ、隣に座って一緒に直してくれるじゃない」
「……はい」
「あの距離って、近くない?」
肩が触れそうなくらいの近さ。
あの声。
コーヒーの香り。
「……近いです」
「声も近くて」
「はい」
「しかも、あの声、ずるいんだよね」
思わず笑ってしまった。
「……はい、低いんです」
玲さんも笑った。
「そうそう」
二人で顔を見合わせて、笑っていた。
しばらくして玲さんがまた、パスタをくるくるし始めた。
「今日、金曜日だよね。 また飲みに行かない?」
◆
仕事が終わると、玲さんは小さな居酒屋に連れて行ってくれた。
「ここね、係長がよく連れてきてくれるお店なんだー」
玲さんは笑顔でそう言いながら、カウンター席に座った。
「とりあえず、生中ふたつ、お願いしまーす」
玲さんが注文すると、すぐに目の前にふたつのジョッキが現れた。
「お疲れさまー」
「お疲れさまです」
一口飲んで、玲さんが笑った。
「ねえ、風宮さん」
「はい」
「係長ってさ、誰に対しても同じじゃない?」
「……はい」
「優しいんだよね。誰にでも」
ジョッキを手で回しながら、小さく笑った。
「それが、ずるいんだよ」
黙って続きを待った。
「自分だけ特別じゃないってのは、ちゃんとわかってるの。 なのにどうしてあんなに気になっちゃうんだろ」
「……わかります」
玲さんが顔を上げた。
目が、ぱっと明るくなった。
「やっぱり?」
嬉しそうに笑った。
「ねえねえ。 初めて褒められたときって、どうだった?」
ずっと図面しか見てなくて、一度も私を見なかったのに、なのに急に私の目を見て――
――いい質問だ
「……頭から離れませんでした」
「そうなの!」
玲さんが思わず笑った。
「離れないよね、あれ」
勢いがついたみたい。
「私なんて去年の六月に初めて褒められた日の夜、何回思い出したかわかんないもん。 寝ようとしても、また思い出して。『よくできてる』ってあの低い声が頭の中で何回も聞こえてさ」
笑いながら首を振る。
「全然眠れなくてさ」
そこで少しだけ照れたように視線を落とした。
「……そのまま、一人でしちゃったよ」
急にドキドキしてきた。
「……わかります」
玲さんの目が丸くなった。
「もうわかるの? しおりちゃんも、しちゃったの?」
………。
二杯目のジョッキが運ばれてきた。
玲さんがまたひとくち、飲んだ。
「係長ってさ」
「はい」
「褒めるとき、ちゃんと目を見るじゃない」
「……はい」
「あれが反則なんだよ」
笑った。
「しかも長々と言わないし。 一言。 だから余計に残るんだよね」
うなずくしかなかった。
「本心から私だけに言ってくれたって思っちゃうんだよね…」
「……はい」
玲さんはさらに三口ほどビールを飲んだ。
「去年の七夕ね、会社で短冊を書くイベントあったんだけど」
「……」
「係長はね、短冊に『部下の成長』って書いてたの」
玲さんはジョッキを両手で包んでいた。
「願い事がね、自分の昇進とか健康とかじゃないんだよ」
少し笑う。
「部下の成長って、それ私のことをお願いしてくれてたんだよ、七夕で」
照れくさそうに笑う。
「そのとき私ね、もう終わったと思ったよ。 好きになるしかないじゃん、そんな人のこと」
何も言えなかった。
あの人なら本当にそう書くかもしれない。
「現場でもそう」
玲さんが続ける。
「あの人、何かあるときって、絶対に自分が前に出るじゃない」
あのとき、突然引き寄せられて、背中に伝わってきた熱と鼓動、腕の強さ。
「かっこつけようとしてる感じが全然ないんだよ。 もう全部が全部、そういう人なんだよね」
「……そう、ですね」
「でしょ?」
玲さんが私を見た。
「しおりちゃん、わかる顔ってしてる」
「…… 」
三杯目が空くころには、玲さんの頬は赤く染まっていて、私も酔いが回り始めていた。
玲さんが空になったジョッキを置いた。
「しおりちゃんってさ」
「はい」
「係長のこと、好きでしょ?」
………っ
「……そ、そんなこと」
「顔に出てる」
思わず口をついて出た。
「玲さんこそ」
「うん、大好き」
迷いがなかった。
「去年からずっと。 全然気づいてくれないんだけどね」
「………」
「何回も諦めようと思ったんだけどね。 私じゃ届かないなって。 でも、無理だった。 諦められないんだよ、あの人のこと。 もうわかってるんだ」
「私は……」そう言いかけたとき、玲さんは首を横に振った。
「いいよ、言わなくて。 しおりちゃんはまだ、自分でもよくわかってないんでしょ?」
「…… 」
返事ができなかった。
それが、そのまま答えになっていたかもしれない。
「すみませーん。 生中、もう一杯ずつくださーい」
玲さんが店員さんを呼んだ。
◆
どれくらい飲んだだろ。
気づけば、玲さんと二人でずっと笑ってた。
何がおかしかったのかは覚えてない。
ただ二人で笑った。
「あ、いらっしゃいませー」
店員さんの元気な声が聞こえて、入口から誰かが店に入ってきた。
頬が熱くて、もう頭がふわふわしていた、そんなとき――
「……何やってんだ、お前ら」
聞き覚えのある低い声。
スーツ姿のまま、呆れた顔で私たちを見ていた。
「かかりちょおー! ほら来てくれた!」
玲さんが勢いよく手を振って、係長は苦笑いした。
「来るって言った覚えはない」
そう言いながら、私たちの前まで歩いてくる。
玲さんは満足そうに笑ってた。
「でも来てくれたー」
係長は小さくため息をついた。
「山本。 また飲み過ぎたろ」
「今日は特別ー」
「毎回そう言ってるぞ」
玲さんはえへへ、と笑った。
「風宮まで」
「……すみません」
「謝ることじゃない」
係長が深くため息をついた。
「送ってく」
◆
三人でタクシーに乗った。
玲さんが窓側、私が真ん中、係長が反対の窓側。
タクシーが走り出すと、玲さんはすぐに眠ってしまった。
頭を窓にもたれさせ、小さく寝息を立てている。
私も酔いが回ってた。
街の灯りが流れていく。
係長の肩が触れていたけど、そのまま窓の外を見てた。
しばらく走っていたタクシーが、背の高いマンションの前で止まった。
「すいません、少し待っていてください」
係長は運転手さんにそう言うと、玲さん側のドアに回って、肩を軽く叩いた。
「山本、着いたぞ」
「……うーん」
係長は慣れた手つきで玲さんのバッグから鍵を取り出すと、玲さんをゆっくり背負った。
その動きにも、ためらいはなかった。
玲さんも安心しきったように、係長の背中へ体を預けている。
二人の後ろ姿が、マンションの入口に向かっていった。
私はその背中を見送っていた。
……こんなこと、初めてじゃないんだ。
玲さんが酔っぱらうたびに、係長はいつもこうやって送り届けていたんだろう。
だから玲さんは、あんなにも自然に背中へ寄りかかったんだ。
私も……
そんなことを考えているうちに、眠たくなってきた。
「すいません、お待たせしました」
十分ほどして、係長が戻ってきた。
運転手さんへ頭を下げると、今度は私を見た。
「住所は?」
「……」
「マンションの名前は?」
「……グリーンコート…です」
間があった、気がした。
「部屋番号は?」
「……305です」
「そうか」
係長が運転手さんに行き先を告げると、タクシーが動き出した。
………。
窓の外を眺めていると思ってたのに、気づいたら私のマンションの前で止まっていた。
係長が運転手さんにお礼を言って、支払いを済ませてた。
「鍵は?」
「……ここです」
バッグを指さすと、係長は鍵を取り出して、うまく歩けない私の腰をしっかりと支えてくれた。
マンションの玄関に着くと、係長はオートロックを開けた。
エントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押した。
三階で降りて、すんなりと私の部屋の前に到着した。
私は何もしていないのに、係長は一度も立ち止まらなかった。
ぼんやりした頭で、不思議だな、とは思った。
「靴は脱げるか?」
「……はい」
部屋へ入ると、係長は暗闇の中にある壁のスイッチを押した。
そして靴を脱いだまま玄関で座っていた私を、ベッドまで運んでくれた。
「もう寝ろ」
「……はい」
天井がぐるぐる回って見えて、眠気が一気に押し寄せてきた。
「……係長」
「なんだ」
「どうして……」
「……なんとなくだ」
係長はそう言って、部屋の明かりを消した。
……玄関ドアが静かに閉まった。
暗闇の中で目を開けたまま、小さく笑ってしまう。
――なんとなく
そんなわけない、とは思った。
でも眠気には勝てなかった。
◆
その頃、廊下では――
馬平忠司が、304号室の前に立っていた。
ポケットから鍵を取り出すと、音を立てないように静かに、入った。
隣から、物音はしていない。
風宮しおりが今、壁一枚隔てたすぐそこで、305号室のベッドの上で眠っている。
スーツを脱ぎながら、今知ってしまったことを静かに抱えていた。
何も言わない。
誰にも何も、言うつもりは、ない。
ただこの事実を、知ってしまった。
◆つづきの第12話「篠原美咲」は、明日20時に更新します◆




