第12話「四月二十四日、篠原美咲」
四月が終わりに近づいている。
午後になってすぐ、馬平係長がモニターから視線を外さずに、私に声をかけた。
「風宮、ちょっといいか」
「はい」
修正するように指示されていた図面を抱えて席を立った。
係長の席に向かうと、私は図面を机いっぱいに広げた。
係長はパソコンの画面と机の図面を交互に見比べながら、ひとつの点を指先で示した。
「ここだ。 このデザインをもう一度詰め直したい。 寸法を出してくれ」
私は係長の隣に回り込んだ。
すぐ隣にいると、柔軟剤のような石けんのような、いつもの落ち着いた匂いがした。
「お前はどう思う」
私は少し考えてから言った。
「ここを少し広げられれば、窓の面積がもう少し取れます。 午前中の日差しが、この辺りまで入ると思います」
「なるほど」
係長が頷いた。
そして赤ペンを取り出そうと、引き出しに手を伸ばした。
……。
引き出しが開いたその隙間に、白い封筒が見えた。
細長くて、きれいな封筒。
……封が切られていない。
見てはいけないと思ったけど、左下に小さく書かれた差出人の名前を見てしまった。
――篠原美咲。
私は慌てて図面に目を戻した。
………。
係長は何事もなかったように引き出しから赤ペンを取り出して、閉めた。
「ここは壁を百ミリ逃がそう。 そうすると、ここが納まる」
「はい」
返事をしてるし、説明もちゃんと聞いてる。
赤ペンの動きもしっかり見てる。
――篠原美咲。
でもどうしても、思い出してしまってた。
美咲、……女性だよね。
字がとてもきれいだった。
係長はその封筒を受け取ったときに、開けていない。
読めないのかな。
どう思っているんだろ。
………。
「風宮」
不意に名前を呼ばれた。
「……はい」
「聞いてるか?」
「す、すみません」
係長は私を見た。
何か言われると思った。
でも係長は何も言わずに、また図面に赤ペンを入れている。
「これを修正して、明日の正午までに出してくれ。 やりかたは、もうわかるよな」
「はい」
私は赤ペンだらけの図面を抱えて席に戻った。
椅子に腰を下ろして、マウスを握る。
データに一本、線を引いて、数字を入力した。
周りの数字も、入力し直した。
……違う。
もう一度入力し直したけど、また間違えた。
……。
溜息をついて、マウスを放した。
係長の席を見た。
引き出しは、もう閉まってる。
篠原美咲……。
◆
帰宅して、夕飯を温めた。
テレビはつけたままにしてるけど、内容は何も入ってこない。
箸を動かしながら、気づけばスマホを手に取っていた。
篠原……
検索バーにそう入力したところで、指を止めた。
私は何をしてるんだ。
………。
食器を片づけて、お風呂にお湯を入れた。
湯船の縁に腕を乗せる。
白い湯気がゆらゆらと天井に上がってく。
その湯気を見ながら、昼間のことを思い出していた。
係長が開けた引き出しに見えた、あの白い封筒。
封は切られていなかった。
左下に書かれていた名前。
いつ届いた手紙なんだろ。
最近なのかな。
ずっと前からあそこにしまわれたままなんだろうか。
係長は確かにあの手紙を受け取っている。
だから机の中にしまってある。
でも、開けていない。
捨ててもいない。
普段のあの人は迷わない。
現場では誰よりも早く動く。
危ないと思えば、自分が先に走る。
図面だって、いい答えが見つかるまで何度でも考え直す。
そんな人が、あの手紙は、そのままにしている。
……どうしてなんだろ。
湯面を見た。
小さく揺れる水面が、天井の照明を歪ませている。
考えなくていい。
私には関係ない。
そう自分に言い聞かせようとしたけど、どうしても考えてしまう。
そのとき気づいた。
私は係長の手紙について考えてるんじゃない。
係長の気持ちを……。
◆
お風呂を出て、ベッドに入った。
枕元のスマホを手に取る。
画面をつけると、検索バーには途中まで入力した文字が残っていた。
篠原……
玲さんなら知ってるかもしれない。
一年間、係長の隣で仕事をしてきた玲さんなら。
そうは思ったけど、そんなの聞けないや。
聞けるはずない。
………。
スマホを消すと、部屋が真っ暗になった。
目を閉じて眠ろうとしたけど、浮かんでくる。
引き出しの中の、未開封の白い封筒。
左下に書かれた名前、篠原美咲。
眠ろうとしてるのに、浮かんでくる。
◆次話、第13話「よく頑張ったな」、明日20時更新◆




