第13話「四月二十六日、よく頑張ったな」
四月二十六日、金曜日。
四月最後の出社の日。
なのに馬平係長がこっちを見ない。
朝からずっと、私のほうを一度も見ない。
係長の視線は、机の図面とモニターの間を、ずっと行き来している。
あの日は違ったのに。
鉄骨が落ちてきた次の日は、係長は一日中、何度も何度も私を見てた。
目が合うたびに恥ずかしくなって、二人で一緒に逸らした。
あの日はあんなに目が合ったのに。
……今日は、まだ一度もない。
だから私は一日中、係長を見てしまってた。
手元の図面から目を上げて、あの横顔を見た。
……気づかない。
視線を図面に戻して少し経って、また見た。
やっぱり彼は気づかない。
コーヒーを入れるとき、わざと近くを通ったのに、図面を見たままで気づいてくれなかった。
……どうして見てほしいんだろ
男性の視線は重くて好きじゃない。
見られるのがほんとに嫌。
ずっとそう思ってきた。
なのに今は見てほしい。
目が合ってほしい。
自分でも、よくわからないけど。
◆
午後、設計の打ち合わせがあった。
大きな机に図面を並べて、係長と二人で。
今月、何度も修正してきた図面を、一枚ずつ確認していく。
係長の指摘は的確で無駄がなかった。
私は必死にメモをとった。
「ここの窓、どうしてこのサイズにした」
「光の入り方を想像すると、こちら側をできるだけ大きくしたほうがいいと思ったので」
「………」
係長は図面を見たまま、言った。
「風宮ってほんと、設計が好きだよな」
私は顔を上げた。
係長は図面を見ていて、私の顔は見ていない。
「そうなんですか……」
「そういう考え方は、設計が好きじゃないとできない」
メモを取っているペンが止まった。
大学で建築学科を選んだのは、たまたまだった。
なんとなく選んだ学科で、大学にいるときも、好きかどうかなんて考えたことがなかった。
でも係長に言われて今、そうかもしれないと思った。
この一か月、図面に書かれた建物を、頭の中で組み立てるのが楽しかった。
今みたいに、どうすればもっと良くなるか、この人とこうして一緒に考えているこの時間が、たまらなく嬉しかった。
自分では気づいてなかった。
でもこの人は、気づいてくれてた。
「……ありがとうございます」
「褒めてない。事実を言っただけだ」
係長はそう言って、次の図面に目を移した。
私はメモ帳を持ったまま、次の言葉が出てこなかった。
◆
夕方、退社の時間。
フロアの人数が減っていく。
明日からのゴールデンウィークを楽しみにしている人たちが、いつもより早足に帰っていった。
私は図面の最終確認を終えて、今日もう何度目かわからない視線を、係長に向けていた。
係長はまだ図面を見ていた。
今日は一度も目が合わなかった。
打ち合わせの時でさえ、係長は図面ばっかり見て、私の目を一度も見てくれなかった。
もう……、やだ……
もやもやが、一日かけて積み重なってた。
少し腹が立った。
帰り支度を始めた。
鞄を持って、椅子を引いて、立ち上がろうとした、そのとき――
………。
足音が聞こえた。
係長の足音だ。
係長がこっちに歩いてきた。
私は動けなくなった。
椅子に座ったまま、近づいてくる足音を聞いていた。
足音が、私の横で止まった。
……っ!
急に、私の目の高さに、係長の顔が来た。
――んっ
目が合って、心臓が止まった。
一日中、見てよ見てよって思ってたあの目が今、ほんのすぐ目の前にある。
真っすぐ。
真っすぐに、私を見てる。見つめてる。
逸らせない。
息ができない。
「風宮」
「……っ」
「この四月、よく頑張った」
……頭の中が、真っ白になった。
「1か月でここまで図面を書けるようになるやつは、ほとんどいない」
係長の目が、まだ私のことを見つめてる。
――よく頑張った
――1か月でここまで
視線と言葉が一緒になって、私の中に、どさっと一気に入ってきた。
「ゴールデンウィーク、しっかり休めよ」
係長が立ち上がった。
ぽん、と。
頭に、手が乗った。
え……っ!
係長は自分の席に戻っていった。
私は、握った鞄を放してた。
椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いて、動けなくなってた。
顔が燃えてた。
ううん、顔だけじゃない。
頭のてっぺんから足の先まで全部が燃えて、燃えながら、震えてた。
今日一日かけて、積み重なってきてた胸のもやもやが、一瞬で全部、どこかに吹き飛んだ。
そしてその場所に、別の熱い何かが一気に流れ込んできた。
なにこれ……
これが何なのかは、全然わからない。
わからないまま、ただ私は、燃えながら震えてた。
◆
やっと動けるようになってから、慌ててエレベーターに駆け込んだ。
ドアが閉まった瞬間に、壁にもたれた。
頭の上にまだ、あの手があるような気がする。
ぽん、というあの感触――
よく頑張ったな、って言ったあの声――
まっすぐに私を見てきた、あの目――
全部がいっぺんに蘇ってきて、エレベーターの中で一人で、どうしていいかわからなくなった。
涙が溢れそうになった。
エレベーターのドアが開いた。
エントランスを通って外に出ると、四月の夜風が冷たかった。
明日からゴールデンウィークだ。
十日かぁ
十日間、会えないや……
◆次話、第14話「気づいていない」、明日20時更新◆




