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第78話「三月八日夕方、抱いてください」


 「……やだ」


声にならないような声。

自分でも、本当に口にしたのか分からないくらい小さな声。


 「やだ……」


もう一度。


係長がゆっくりと私を見る。


私は何度も首を横に振った。


イタリアに行くことも。

転籍出向も。

離れてしまう未来も。


全部。

全部、嫌だ。


 「私から離れて行かないでください」


声はみっともないほど震えていた。

それでも私は係長から目を逸らさなかった。


 「私を置いて行かないでください……」


泣き声になってる。


係長は俯いて、短く息を吐いた。


 「すまん」


違う。

謝ってほしいんじゃない。

行かない、そう言ってほしい。


 「どうして……」


続けようとしたのに、息が漏れて声にならない。


 「どうしてですか……」


係長は何も言わない。


 「あんなに思わせぶりなことをしておいて……」


係長の眉がわずかに動いた。


 「あんなに優しくしておいて。 毎日会って、隣に住んで」


声が掠れた。


 「こんなに好きにさせておいて……、いなくなってしまうなんて……」


涙が止まらない。

膝の上で握った手にぽろぽろ落ちる。


 「ひどいです」


部屋の中は静かで、窓の外では風が強く吹いている。


係長はしばらく何も言わなかった。


………。


長い沈黙。


今ならまだ間に合う。

今ならまだ、この人を引き留められるかもしれない。


でも係長は前に進むために行くんだ。

だから応援しないといけない。

でも全然、応援できない。


 「すまない」


係長がもう一度、そう言った。


 「何年かかるか分からないんだ」


係長は窓の外を見た。


 「それでも俺は、イタリアで勝負がしたくなったんだ」


 「じゃあ私も行きます」


考えるより先に言っていた。


係長が驚いた顔で私を見る。


 「私も行きます。 一緒に連れて行ってください」


 「風宮……」


 「だって離れたくないんです」


係長は目を閉じた。

そして、首を振った。


 「駄目だ」


 「どうしてですかっ」


 「お前は今、ようやく設計士として歩き始めたところだ。 俺について来るためにその時間を使わせることはできない」


 「……」


 「だから、連れては行けない」


この人は……。

私が何も言えなくなることばかり言う。

優しすぎて腹が立つ。


 「いやです…。 行かないって言ってください…」


涙を拭った。


 「やです…」


何度拭っても、次から次へと流れてくる。


それでも息を吸った。

震える胸を押さえて。


 「いやです。 ……でも、待ちます」


 「風宮……」


 「ここで一人前になります。 ここでちゃんと設計士になります」


 「……」


 「だから待ちます」


係長は何も言わなかった。


私は唇を噛んだ。

ここから先は、どうしても言わなければいけない。


怖い。

言ってしまったらもう戻れない。

でも言わないと。


 「でもその代わりに……」


何も残せないまま離れてしまうほうがもっと怖い。


 「私のことを忘れないでいてください」


喉が震えた。

心臓が痛いほど鳴ってる。


 「………」


涙がまた落ちた。


 「私のことを覚えていてください」


部屋が静かになった。


 「そして何年経っても」


 「……」


 「向こうでどんな人に会っても」


 「……」


 「私のことを、私だけを覚えていてください。 だから……」


わがまま。

わかってる。

でも。


 「だから……、抱いてください」


言ってしまった。

私は必死に、泣きながら笑った。


 「ずるいですよね、私。 こんなところで女の子を使っちゃいます」


 「風宮」


 「でも、一番でいたいんです。 頭だけじゃなくて、体でもずっと、私を覚えていてほしいんです」


声が震えてる。

でももう止まれない。


 「係長の中で、ずっと一番でいたいんです……」


しばらく係長は動かなかった。

私も動かなかった。

黙って見つめ合ってた。


そして係長の手が、私の頬に触れた。

親指が涙の跡をゆっくり拭う。

そのまま手が耳の後ろに回ってきて、顔を上げさせられた。


係長の顔が近づいてくる。

目を閉じることを知らなくて、唇が重なったその瞬間までじっと見てた。


温かくて、……柔らかい。


そう思ったときにはもう離れてた。

短すぎ。


私は係長の服を掴んで、離れた唇を追いかけた。

私から触れると、係長の息が一瞬止まった。


次の瞬間、後頭部に手が回ってきた。


二度目は、触れるだけでは終わらなかった。


重ねた唇をゆっくり開かされて、舌先が触れた。

驚いて息を吸ったら、その隙間からさらに深く入ってきた。


どう返せばいいのか分からない。

私は係長の肩に両腕を回した。

係長も私の背中に腕を回した。


体が強く引き寄せられる。

何度も角度を変えて口づけされるうちに、いつの間にか泣いていたことも忘れてた。


ようやく唇が離れたとき、もう下着の中が濡れていた。

係長の呼吸も乱れてる。


 「風宮」


聞いたことのないくらい低い声。


 「来い」


係長が立ち上がって、私に向かって手を差し出した。

私は迷わずその手を取った。



◆◆◆



最後に覚えているのは、係長に下の名前を呼ばれたとき。

気づいたときには、雲の向こうに半分隠れた月が見えた。

私は生まれて初めて、好きな人の腕の中にいた。


 「係長」


 「ん」


 「忘れないでくださいね」


係長の唇が耳に触れた。


 「忘れられるわけないだろ」






◆第79話「早く一人前の設計士になれ」(最終話)、本日20時に更新します‼

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