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第79話「早く一人前の設計士になれ」(最終話)


三月二十日、木曜日。

ついにこの日が来てしまった。

馬平係長の最終出社日。


朝からどうにも落ち着かなかった。

パソコンを立ち上げてメールを確認して、今日やることを順番に並べても、気づくと視線は係長の席に向かってる。


黒いメモ帳がある。

その横にはいつものペンも置いてある。


昨日までと何も変わらない。

でも今日が終わってしまえば、もうこの景色を見ることはない。


あと何時間でこの席は空になるんだろ。

あと何回、あの背中を見ることができるんだろ。


そんなことばかり考えてしまってた。


◆


午前中、私と玲さんは係長と一緒にAo no Yugasumiに向かった。


三人で並んで駅へ向かう道も、これまで何度も歩いてきた。

係長と玲さんが少し先を歩いて、私がその後ろをついていく。

いつもの並び……。


店の重い扉を押すと、ちりんっと、小さく鈴が鳴った。


少し暗めの照明に、静かな音楽と木の香り。

係長が設計した空間。


 「いらっしゃい」


篠原さんがカウンターの奥から出てきた。

いつものように笑っている。


四人で席に着くと、係長はすぐにファイルを開いた。


 「では、今日の打ち合わせの目的ですが」


驚くほどいつも通りの声。


設計の進捗、今後の工程、役所への申請。

係長はひとつずつ確認しながら説明していく。


篠原さんは真剣にメモを取っていた。

玲さんも。

私も。


私もちゃんと仕事をしなければいけないのに途中でふと、ペンを持つ手が止まりそうになった。


  ……これが最後なんだ


係長が資料を広げて、篠原さんが隣に座って、私と玲さんが向いでメモを取る。

この形で集まるのは、これが最後。


………。


 「それから、もう一点」


パタンっと、係長がファイルを閉じた。


篠原さんが顔を上げる。

係長は私たちを見た。


 「今後、この案件はこの二人が担当します」


玲さんと私。


 「山本と風宮が責任を持って進めます」


篠原さんの視線がこちらに向いた。


 「そうなんだ……」


それから、小さく笑った。


 「よろしくね」


 「はい。 よろしくお願いします」


玲さんと一緒に頭を下げた。

顔を上げると、係長は何も言わずに私たちを見てた。


  ……そんな顔しないでください


まだ行ってほしくない。


◆


打ち合わせが終わったのは、正午を少し回ったころだった。


篠原さんがカップを片づけようと手を伸ばしたとき、その手が震えているのに気がついた。


私が気づくのと同時に、係長が口を開いた。


 「美咲」


息が止まった。

玲さんも顔を上げた。


十八年間、一度も呼ばれなかった篠原さんの下の名前。


玲さんが静かに立ち上がって、私の腕を軽く引いた。


 「行こ」


二人でカウンターに移動して、距離を取った。


ゆっくりと顔を上げた篠原さんの目は真っ赤になっていた。


 「……ごめんなさい」


小さくて震えた声。


 「ずっと……、ずっとごめんなさいって思ってたの」


涙が落ちた。

一粒。

また一粒。


しばらくして、係長が口を開いた。


 「俺も悪かった。 俺のほうこそ、ちゃんと向き合えていなかった」


篠原さんの顔が歪んだ。

声を出さずに涙を流している。


係長はしばらくその顔を見ていた。


 「でも、もう大丈夫だ」


無理に笑顔を作ろうとした篠原さんは上手く笑えなくて、余計に涙がこぼれ出た。


 「十八年も引きずるほど、俺はいい男じゃないぞ」


篠原さんは泣きながら笑った。


 「ばか」


係長も小さく笑った。


 「幸せになってね」


篠原さんは涙を拭って係長を見た。


 「お前もな」


◆


店を出ると、三月の風が吹いてた。


玲さんが先に歩き出して、私はその後ろを歩いた。

さらに後ろから聞き慣れた足音がついてくる。


三人で駅に向かう。

誰も何も話さなかった。


風が吹くたび、歩道に落ちた葉っぱが転がっていく。


今日が終わってしまったら、次はいつこの足音が聞けるんだろ。

そんなことを考えていた。


 「風宮」


後ろから不意に名前を呼ばれて、慌てて振り返った。


 「はいっ」


係長は前を向いたまま、振り返った私を追い抜いた。



 「早く一人前の設計士になれ」



 「……」


そして今度は係長が振り返った。


 「あんまり待たせるなよ」


胸の奥がぐしゃっとなった。


 「……はい」


声が震えた。

今ぐらい、ちゃんと返したい。


 「はい、馬平係長っ」


もう一度返事した。


隣を見ると、玲さんが泣いていた。

笑いながら泣いていた。

さっきの篠原さんみたいに。


でも私も、同じ顔をしてるはず。


◆


会社に戻ってからも、時計の針は止まってくれなかった。


十六時になって、十七時になった。

お願いだから、ゆっくり進んで。


………。


十七時四十五分になって、課長が立ち上がった。


 「ちょっといいか」


キーボードの音が止まった。

電話をしていた人も、折り返しますと言ってすぐに切った。


設計一課のフロアが静かになっていく。

いつの間にか、周囲に人が増えていた。


入り口の近くに設計二課の神崎係長が立っていた。

その隣には設計三課の椎名さんもいる。


ほかの部署からも何人も来ていた。


 「最後に一言だけ。 馬平係長」


課長に言われて、係長が立ち上がった。


いつもの席。

毎朝、黒いメモ帳とペンが置かれていた席。


係長は設計一課のみんなを見て、それから入り口のほうにも目を向けた。


神崎係長は何も言わずに頷いた。

椎名さんはさっきから変な顔をしてる。


係長はみんなを見渡して、それから深く頭を下げた。


 「大変、お世話になりました」


……。


  それだけ?

  もう少しくらい……。


どこからか拍手が起きた。

一人、また一人と手を叩き始めて、やがてフロア全体に広がった。


玲さんは泣いていた。

気づけば私の頬も濡れていた。


拍手が大きな波になってから、やがて、止んだ。


係長はコートを着て、鞄を持った。

そしていつもみたいに、「じゃあな」と言って歩いていった。


また、それだけ。


返事ができなかった。

隣で玲さんも、唇を噛んだまま黙っていた。

神崎係長は腕を組んだまま俯いていた。


係長が歩いていく。


椎名さんの前を通ったとき、椎名さんが何か言おうと口を開いた。

でも結局何も出てこなかった。


そのままフロアを出ていく。


私はその背中を見ていた。

入社式の日から、ずっと見てきたあの背中。


エレベーターの前で、係長が立ち止まってボタンを押した。


扉が開いて係長が乗り込んだ。

振り返って、ほんの少し、笑って……


……扉が閉まった。


しばらく誰も動かなかった。


そのとき、


 「……うぅ」


変な声がした。

見ると、椎名さんが泣いていた。


 「ちょっと、椎名さん」


玲さんが慌てて近寄った。


 「そんなに泣かなくても……」


 「だってよぉ……」


椎名さんは袖で目元を乱暴に拭った。


 「もう馬平係長、いねえんだぞ……」


玲さんが背中をぽんぽん叩いた。


 「もう会えないわけじゃないですよ」


 「そういうことじゃねえんだよ」


 「大丈夫ですって」


その瞬間、椎名さんが顔を上げた。

そして涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、眉間に皺を寄せた。


 「……何がだ」


無理して出した低い声。


玲さんの手が止まった。

私も目を丸くした。


椎名さんは鼻をすすった。

それなのに、なんだか口元が笑ってる。

もう一度、今度はさっきよりもそれらしく――


 「何がだ」


玲さんが最初に吹き出した。


 「ちょっと……、椎名さん、それ」


設計一課のあちこちから笑いが起きた。

泣いてた人まで笑ってる。


玲さんも涙を拭きながら、「似てます。すごい似てます」って言ってる。


 「だろ」


また椎名さん。

でもその笑顔はすぐに崩れた。


 「……俺、馬平さんみたいになりたいんだよな」


椎名さんは俯いたまま鼻をすすった。


 「俺もああなりてえって、ずっと思ってた……」


玲さんは何も言わず、もう一度背中をぽんと叩いた。


すると椎名さんが顔を上げた。

まだ目には涙が残っている。

それでも、また眉間に皺を寄せた。


今度はみんなが笑った。

神崎係長まで、呆れたように横を向いて笑っていた。


私も泣きながら笑っていた。

涙を拭って顔を上げると、係長の席にはもう誰もいなかった。


ペンも。

ノートも。

コーヒーも。

何も。


  ――早く一人前の設計士になれ


ふと、七夕の短冊を思い出した。



  ――風宮が一人前の設計士になること



……なんて人だ。

涙が溢れてきて止まらなくなった。



◆◆◆



四月一日、火曜日。

風が吹くたびに桜の花びらが舞い上がり、会社の前の歩道を淡い色で染めていた。


エントランスで社員証を通して、エレベーターに乗った。

鏡の中に映る自分を見る。

一年前と同じ、黒のスーツ。


六階。


大会議室に向かう。

入社式の会場。


……。


扉を開けると、中には十人ほどの新入社員が座っていた。

真新しいスーツを着て、緊張した面持ちで、落ち着かなげに周囲を見回している。


一年前の私も、あんな顔をしてたんだろうか。


私は会場の後ろの席に座った。

新入社員たちの背中を見る。


去年はあちら側に座っていたのに、今日は新入社員の背中を見る側にいる。


◆


もうすぐ避難経路の説明が始まる。


去年は馬平係長が壇上に立って説明したことを、今年は私が説明する。


課長から頼まれたときは、正直、断りたかった。

人前で話すのは今でも苦手だ。


手のひらは汗ばんでいるし、心臓の鼓動もだいぶ速い。

でも逃げようとは思わない。

だって去年、係長がしたことだから。


今度は私がする。


目を閉じて、一年前の光景を思い出した。


◆


総務の担当者が前に出て、説明を進めている。

会社概要。

就業規則。

福利厚生。


……。


だんだん私の番が近づいてきた。


やっぱり緊張してきた。

もうすぐ私が壇上に立って、もうすぐ私に視線が集まる。

声が震えたらどうしよう。

手が震えたらどうしよう。


……。


目を閉じて、もう一度、あの人を思い浮かべた。


………。


プレゼンのときみたいに、あの人に説明すればいいんだ。

そうだ。


  ……あの人に。


司会者が私の名前を呼んだ。


 「では次に、この建物の避難経路について説明します。 設計一課の風宮――」


――よし、いける。


◆


出番を終えた私は、後ろの席に戻る前に立ち止まって、窓の外を見上げた。


青い空。


  大丈夫でした。

  ちゃんと説明できました。


  まだ全然一人前じゃありません。

  でもちゃんと進んでいます。

  だからちょっとだけ、待っててください。


私は窓から離れた。

そして、歩き出した。



―― 完 ――





【あとがき】

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました!


四月一日、桜が散る入社式の日。避難経路の説明に立った馬平係長を見て、しおりが「……この人?」と首をかしげるところからこの物語は始まりました。


風宮しおりと馬平忠司の366日。

『このおっさんは、なぜかモテる~40歳で独身な係長を、なぜか好きになってしまう女の子たちの366日~』はこれで完結です。


最終話でしおりが同じ避難経路の説明をする側に回る場面は、書いていて一番感慨深かった場面です。一年前は「この人?」と見ていた側が、今度は誰かに同じ言葉を伝える番になる。そこまで見届けてくださって、本当に嬉しいです。


この物語を全79話をひとつの作品としてゆっくり読める形に残したいと思い現在、完全版を作っています。


完全版には公開済みの本編に加えて、登場人物紹介とあとがきを収録する予定です。挿絵を加えた版や、特別加筆(ムフフ)版についても検討しています。


詳しい内容や制作の進み具合はnoteやXでお知らせしていきます。よかったらそちらもぜひ覗いてみてください。


▼完全版についてのお知らせ

https://note.com/yukishiro_noa/n/n1276fd8c0141


▼Xはこちら

https://x.com/yukinoa1107


改めまして、風宮しおりと馬平忠司の366日にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

注)実は二人の物語はまだまだ続きます。ただいま絶賛準備中!

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『このおっさんは、なぜかモテる』全79話完結
全79話に登場人物紹介とあとがきを加えた完全版を制作しています。
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