第77話「三月八日、正午……」
転籍出向が発表されてから、係長の席にはいつも誰かが来るようになった。
始業前にも昼休みにも、仕事が終わってからも。
「馬平さん、少しいいですか」
「係長、これ覚えてます?」
「向こうに行っても連絡してくださいよ」
最初は、いなくなる前に話しておきたい人が、それだけたくさんいるんだと思ってた。
でも何日か見ているうちに気がついた。
変わったのは周りじゃなくて、係長だ。
以前なら用事が済めば、ひとこと返してすぐにパソコン作業に戻ってた。
今は相手の話が終わってもまだ、その続きを待ってる。
雑談にも付き合うし、笑う回数も増えた。
係長の返事が前より少し長くなった。
そのわずかな違いが嬉しくて、みんなはもっと話していたくなるんだと思う。
白い封筒を読んで泣いたあの夜から、係長は少しずつ、昔の馬平忠司さんに戻り始めている気がする。
よく笑うようになって、今まで以上に人の話を聞くようになった。
誰かのそばにいることを、前ほど避けなくなってる。
……だから私は苦しいんだ
この係長と、もっといっぱい話したい。
もっと近くにいたい。
もっといろんな顔が見たい。
なのに私は近づけない。
今までどおりに仕事の話ならできる。
でも、それ以外を話そうとするとだめになる。
喉の奥が熱くなってきて、涙が出そうになってしまう。
……この人はもうすぐいなくなる
取り戻し始めた笑顔をせっかく見られるようになったのに。
私は係長のその先を、見られないのかもしれない。
どうすれば引き留められる?
どうすれば?
どうすれば?
気づけばそればかり考えるようになってた。
◆
三月八日、土曜日。
ついにこの日が来てしまった。
何度も時計を見て、何度も鏡を見た。
何度も服を着替えて、何度も笑顔の練習をした。
今日は泣かない。
そう決めた。
係長とお出かけできる日だ。
せっかく二人で会えるんだから。
ずっと楽しみにしていたんだから。
泣いてばかりいたらだめ。
笑っていよう。
「いい天気ですね」って笑顔で言う。
そして前みたいに楽しく。
何も心配なんてせずに今日を楽しむ。
そうしよう。
◆
十二時ちょうどになって、私は部屋を出た。
鏡の前ではちゃんと笑えた。
今日は転籍出向のことは考えない。
約束していたとおりに二人で出かけて、前みたいに楽しくお話をする。
そう決めて、私は隣の部屋のインターフォンを押した。
ピンポーン。
しばらくして、ガチャリと、ドアが開いた。
見慣れた顔。
見慣れた背丈。
「今日もいい天気ですね」
用意していた言葉も笑顔も、きちんと出せた。
ちゃんと笑えたはずだった。
係長は、私の顔を見た。
それから一秒もなかった。
「また泣いていたのか」
……っ
「泣いてません」って言おうとした。
「大丈夫です、今日は楽しみですね」って。
でも、声の代わりに涙が出た。
この人はごまかせなかった。
会いたかった。
やっと会えた。
でももうすぐ……。
係長の顔を見た瞬間、全部が一緒になって溢れてきた。
せっかくおしゃれしたのに。
せっかく笑顔を作ったのに。
全部台無し。
係長が、ふっと息を吐いた。
そして次の瞬間、大きな手が、私の肩に触れた。
引き寄せられて、気づいたときには――
――係長の胸に顔を埋めてた。
………。
マンションの廊下。
三〇四号室の玄関の前。
私は何も言えなかった。
言葉なんて出てこない。
ただ、ずっと我慢していたものが全部溢れてしまって、私はえんえん泣いた。
係長の服を握って。
しがみつくみたいにして、ただただ泣いた。
◆
しばらくして、
「入れ」
係長に促されて、私は初めて三〇四号室に入った。
短い廊下の先にあるリビングは、私の部屋と左右が反対になっているだけで、窓もキッチンも、壁の形も全部同じ。
なのにまるで知らない場所みたい。
部屋の中は驚くほどシンプルだった。
家具が黒っぽい茶色で統一されていて、一切の飾りがない。
でも不思議と冷たくはない。
「座れ」
係長がソファを指さした。
窓側に、外に向かって置かれていた。
座ると目の前に三月の空が広がった。
青い空。
流れていく白い雲。
係長が隣に腰を下ろした。
風の音が聞こえる。
私は窓の外を見たまま、掠れた声を絞り出した。
「どうして言ってくれなかったんですか……」
係長は黙っていた。
「どうして……」
そこで言葉が途切れてしまった。
どうして一人で決めてしまったんですか。
どうして相談してくれなかったんですか。
どうして私を置いていくんですか。
どれも言葉にならなかった。
………。
……。
長い沈黙のあと、係長がゆっくりと息を吐いた。
「もしお前に止められたら」
……え
「お前に止められたら俺は、行かないという選択をしてしまいそうだったから」
係長は空を見ていた。
その横顔は、私が見たことがないくらい苦しそうに見えた。
だったら、そんなに苦しいのなら、行かないでください。
私は唇を噛んだ。
「じゃあ……」
また涙が溢れてきた。
「どうして行ってしまうんですか」
返事はなかった。
「どうして……」
もう涙が止まらなくなっていた。
嫌だ。
離れたくない。
黙っていた係長が、私の顔を見た。
しばらく見つめ合ったあと、係長が口を開いた。
「俺は……」
私の大好きな、穏やかな声。
「お前といる時間が楽しかったんだ」
……やだ
係長は続ける。
「最初は違った。 お前はただの部下だった。 気を使う新人だった。 ただ最初から放っておけないやつだったがな」
係長が苦笑いをした。
「気がついたらお前と話すのが当たり前になっていた。 朝も、昼も、夜も。 隣にお前がいるのが当たり前になっていた」
涙が頬を流れ続ける。
「お前といるとな、過去にとらわれているのが馬鹿らしくなったんだ」
「……」
「十八年も同じ場所に立ち止まってたのにな。 それが気づいたら、明日のことを考えられるようになっていた」
やめて
もう言わないで
「お前のおかげで俺は、もっと先を見たくなったんだ」
◆第78話「三月八日夕方」、本日16時に更新します‼




