第76話「二月二十二日、知らない週末」
再来週までに、係長には私の知らない週末が二回くる。
その最初の朝が来た。
二月二十二日、土曜日。
七時二十九分。
私はベッドの中で、スマートフォンの時計が変わるのを見てた。
係長はもう起きているんだろうか。
紺色のスーツに着替えているんだろうか。
そんなことを考えていた次の瞬間、
パタン。
隣の部屋の、玄関ドアの閉まる音がした。
聞き慣れた足音が廊下を遠ざかってく。
ピンっ。
エレベーターの到着音が鳴って、もうそれっきり何も聞こえなくなった。
係長は今日、森中バイオ製薬で講師をすることになっている。
四月から入社する学生たちを前に、スクリーンの横で話している係長を想像してみようとした。
……でも、だめだった。
お客様に説明をしている顔も、現場で監督さんに指示を出している姿も知ってる。
でも私の知らない会社で、私の知らない人たちから「先生」と呼ばれている係長は、どうしても想像できない。
◆
二月二十三日、日曜日。
今度は七時前に目が覚めた。
眠り直すことならできた。
でも私は布団の中でずっと耳を澄ましてた。
七時半。
パタン。
昨日と同じ時刻。
私は布団を顔の上まで引き上げた。
会いたい。
特別なことなんて何もなくていい。
顔を見て、軽く話をして、最後に「じゃあな」と言ってもらえればそれでいい。
なのに……。
午前中は部屋の掃除をした。
掃除機をかけて、キッチンの流しも磨いた。
何かしていれば時間が早く進むと思ったから。
でも掃除機を動かしながら考えるのも、洗濯物を干しながら考えるのも、係長のことばっかり。
今、どんな講習をしてるんだろ。
お昼は森中バイオの人たちと一緒に食べるのかな。
誰かに質問されて、困った顔を……、するわけない。
時計がなかなか進んでくれない。
◆
午後、近くのスーパーに買い物に出た。
野菜売り場を歩いていると、白菜が安いのに気が付いた。
今日は冷えるし、夕食はお鍋にしよう。
そう思ったところで、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
多めに作ろう。
大きな鍋で。
係長が帰ってきたころを見計らって、隣のインターフォンを押すんだ。
「すみません。 作りすぎてしまったんです」
そう言えばいい。
同じ会社なんだし、お隣同士なんだから、何も全然おかしくない。
帰ってきてまだネクタイも外していない係長は、困った顔をするかもしれない。
でも最後には、きっと言ってくれる。
「じゃあ、一緒に食べるか」
頭の中では、もう二人で鍋を囲んでいた。
係長がビールを飲む。
私はその隣に座ってる。
テレビはついているけど二人ともほとんど見ずに、何でもないことを話して、たまに目が合って、くすくす笑う。
しばらくして、係長が思い出したようにネクタイを緩める。
私は見ていないふりをしながら、その手を見てる。
帰る必要なんてない。
だって隣なんだから。
……もしあの日みたいにスカートを履かずにいたら、係長はどんな顔をするだろう。
慌てるのかな。
すごく困った顔をするのかな。
それとも――
そこまで考えて、私は慌てて首を振った。
こんなところで何を考えてるんだっ。
顔が熱い。
たぶん真っ赤。
私は大きな白菜をカゴに入れた。
豚肉と長ねぎと豆腐も二人分、入れた。
けれど、調味料売り場まで来たところで足が止まった。
二日間も初対面の人たちの前で話して疲れて帰ってきた係長の部屋に、まだ恋人でもなんでもない私が押しかけていいんだろうか……。
私は来た道を戻って、二人分だった食材を一つずつ、棚に戻した。
◆
二月二十四日、月曜日。
祝日。
係長はたぶん隣の部屋にいる。
昨日はスカートを履かずにお鍋を持っていくところまで想像した。
でも現実の私は、インターフォンすら押せなかった。
◆
二月二十五日、火曜日。
今日こそ会える。
金曜日の仕事終わりから、ずっと会えていない。
玄関ドアの閉まる音と足音を聞いてただけ。
だから会社に向かう電車の中でも、エレベーターを降りてからも、私は係長の顔を見ることばかり考えてた。
設計一課のフロアに入って、いつも係長がいる席を見た。
……。
ない。
黒いメモ帳がない。
ペンも。
椅子の背にも、何も掛かってない。
いつもなら本人がどこかに行っていても、あの席には必ず何かがある。
ここに来ていると分かるものが置かれてる。
今日はそれが、一つもない。
パソコンを立ち上げてもメールを開いても、目が勝手にあの席を見てしまう。
ちょうど九時になったところで、課長が前に立った。
「ちょっといいかー」
みんなが顔を上げた。
「馬平係長は、今日は休みだ。 この週末、外部で講師をしていたので、今日は代休を取ってもらった。 体調不良ではないから心配しなくていいぞ」
その瞬間、設計一課がざわついた。
「外部講師ってすごくないですかっ!」
「どこの会社なんですか?」
「森中バイオ製薬だ」
「え、やっぱりあの森中バイオ?」
「マジですか……」
みんなが驚いていた。
そして自分たちの係長が大企業に選ばれたことを、誇らしそうに話してる。
私も誇らしい、はず。
誰もが知っている大企業が、これから入社してくる人たちの、最初の授業を任せる人。
でも私が知っているのは、パン屋さんで試作パンを食べて、甘すぎると言って困っていた係長。
同じ人。
みんなの話に出てくる「馬平忠司」は、私の知らない人みたい。
◆
次の週末も同じだった。
三月一日、土曜日。
七時半。
パタン。
廊下を遠ざかる足音とエレベーターの音。
それから静寂。
私はベッドの中で聞いていた。
――再来週はどうだ
あの低い声を何度も思い出した。
次の週末になれば会える。
それだけを支えにした。
◆
三月二日、日曜日。
また七時半。
パタン。
会いたい。
顔を見せて。
声を聞かせて。
◆
三月三日、月曜日。
出勤して最初に見たのは、いつも係長がいる席。
今日も何もない。
でももう驚かない。
先週と同じように、九時になると課長が前に立った。
「馬平係長には本日も代休を取ってもらった」
周囲がざわざわと反応して、しばらくすると仕事に戻った。
私もノートパソコンのモニターを見た。
午前中が終わった。
昼休みも終わる。
係長がいないまま、いつもどおりの一日が進んでいく。
午後三時を少し過ぎたころ、上の階に行っていた課長が戻ってきた。
隣に森中バイオ製薬の佐伯さんがいた。
先週は三回も見て覚えていなかった佐伯さんの顔が、今日は一目で分かった。
「少しいいかー」
課長の声にみんなが顔を上げて、フロアが静かになった。
「先ほど正式に決定した」
佐伯さんが、私たちの前に立っている。
……森中バイオ製薬。
嫌な予感がする。
理由なんてわからない。
でも、続きを聞いてはいけない気がした。
課長は続けた。
「馬平係長は来月より、森中バイオ製薬株式会社さんに、転籍出向することになった」
――転籍出向
課長は続けて何かを話してる。
来月。
森中バイオ。
転籍出向。
でも聞き取れたのは、その三つだけ。
玲さんが手を上げた。
「て、転籍出向って……、どういう意味、ですか?」
声が震えてた。
「我が社から森中バイオさんへ席を移す、ということだ」
――席を移す
言葉の意味はわかる。
係長がいなくなる。
この会社から。
毎日見ていたあの席から。
お昼休みのあの路地から。
そして私の隣から。
もうすぐ。
……いなくなる。
……いなく、なる。
……。
――再来週はどうだ
係長の声がした。
――再来週の土曜なら空いている
――行きたい場所があるんだろ?
◆第77話「三月八日、正午……」、明日は正午に更新します!




