第75話「二月二十一日、再来週」
次の週末、係長とどこに行こう。
月曜日の朝から私はそればかり考えていた。
昨日、自分からキスをして、返事も聞かずに逃げたくせに。
今朝、係長に「おはよう」と言われた私は、まともに顔も見れなかった。
あの唇に自分のを重ねた。
思い出したら机の下に潜りたくなる。
それなのに、次の週末も一緒にいたい。
恥ずかしい。
でもまた会いたい。
また駅前のパン屋さんでもいい。
少し電車に乗って、行ったことのない川沿いを歩くのもいい。
映画も楽しそう。
でも係長はどこに行きたいんだろ。
静かなところかな。
人が少ないところかな。
意外と賑やかな場所が好きだったりするのかな。
どんな景色を見たら足を止めるんだろ。
何を食べたら昨日みたいに笑ってくれるんだろ。
あの笑顔を思い出すと、嬉しくて仕方なくなる。
真っ赤になって固まっていた顔を思い出すと、またしたくなっちゃう。
朝、出勤するときも。
昼休みも。
夜、ベッドに入ってからも。
いつの間にか、係長と行けそうなお店の写真をスマホの中に何枚も保存してた。
正直に言うと、仕事に集中できてなかった。
もちろん図面は描いたしメールも返した。
打ち合わせにも出た。
ただ、ひとつの仕事が片づくたびに、次の週末のことを思ってた。
だから気づかなかった。
……全然気づいてなかった。
◆
それは木曜日の昼休みの出来事だった。
私が紅茶を飲みながらスマホに保存したカフェの写真を眺めていると、隣に座っていた玲さんが覗き込んできた。
「ここ、行くの?」
「まだ決めてないんですけど……」
係長と、とは言えなくて、私は紅茶を口に入れた。
玲さんは私の顔とスマホを交互に見たあと、呆れた顔で笑った。
「しおりちゃん」
「はい?」
「森中バイオの人、今週何回来てると思う?」
「今週、ですか?」
「そう。 佐伯さんと部長さん」
カップを持ったまま考えた。
森中バイオ製薬の佐伯さん。
当然覚えてる。
でも今週何回と聞かれても、その答えが浮かばなかった。
「……一回?」
玲さんが吹き出した。
慌ててカップを置いて、口元をハンカチで押さえながら私を見た。
「うそでしょ」
「え?」
「月曜と昨日と、今日。 三回」
「三回も……」
言われて、ようやく思い出した。
月曜日、課長と一緒に会議室に入っていった高そうなスーツ。
水曜日、廊下で係長と話していた。
そして今日。
さっきすれ違って、私はちゃんと頭まで下げてる。
全部見てた。
でも何も感じてなかった。
玲さんはとうとう肩を震わせ始めた。
「しおりちゃん」
「……はい」
「恋する乙女すぎるよ」
顔が熱くなって、私は慌てて目を逸らした。
「ち、違います」
「違わないでしょ」
玲さんは楽しそうに笑ってる。
私には森中バイオ製薬の人が来ていたことより、週末どこへ行こうかと考える方が大事だった。
さすがに浮かれすぎてる……。
「……すみません」
玲さんはまだ笑ってた。
「まあ、気持ちは分かるんだけどね」
◆
二月二十一日、金曜日。
今日も朝から浮かれてた。
明日になれば、また係長とお出かけできる。
まだ誘ってもいないのに、もう楽しみで仕方なくなってた。
先週、一緒にパン屋さんに行った。
さっきまで普通に話してたし、いつもと同じように私を「風宮」って呼んでくれた。
だからきっと明日もそう呼んでくれる。
勝手にそう思ってた。
腕時計の針が十二時を過ぎたとき、私はお弁当を持って立ち上がった。
いつもの路地に行くと、係長はもう石に腰掛けて、コンビニのおにぎりを開けていた。
「ああ、来たのか」
隣に腰かけた。
肩が触れてしまいそうな、先週末と同じ距離。
やっぱりこのまま先週末の続きができそうで、すごく幸せ。
私はお弁当の包みをほどきながら、何度も頭の中で練習してた言葉を口にした。
「係長」
「ん?」
「明日、また十二時から、一緒にお出かけしませんか?」
言えた。
あとは係長が、「ああ」って言ってくれるだけでいい。
………。
「明日か」
「はい」
短い間があった。
さっきまで無かった不安が、急に顔を出してきた。
「明日は、森中バイオの講習があるんだ」
「……講習?」
「ああ。 四月に入社する内定者向けの新入社員講習を頼まれてな。 明日がその一回目だ」
知らなかった、そんな話。
係長がそんな仕事を引き受けていたなんて。
「そう……、なんですか」
森中バイオの人たちが、今週三回も来ていた理由はこれだった。
「悪いな」
「……いえ。 じゃ、じゃあ……日曜日は?」
「同じ予定だ」
わかってる。
仕事なんだから。
「来週は?」
さすがに必死すぎたかも。
「来週末まで頼まれてる」
「……そう、ですか」
明日も。
明後日も。
来週末まで。
私がカフェを探している間に係長の週末は全部埋まってた。
係長は悪くない。
仕事なのは分かってる。
それなのに森中バイオ製薬という会社名が、急に嫌な人の名前みたいに思えてきた。
私が週末を楽しみにしていた間、係長の時間は私の知らないところで動いてた。
隣に座ってるのに、さっきよりすごく遠く感じる。
お弁当の蓋を開けたまま、お箸を持てなくなってた。
係長は何も言わずに、残りのおにぎりを食べている。
路地を冷たい風が吹き抜けた。
もうすぐ三月。
でも日陰はまだ冬の気温だ。
しばらくして、係長が食べ終えたおにぎりの袋を丁寧に畳み始めた。
「再来週はどうだ」
「……えっ」
「再来週の土曜日なら空いている」
係長は私を見ないまま、畳んだ袋をコンビニのレジ袋に片づけた。
「行きたい場所があるんだろ?」
カフェの写真が一気に頭に蘇ってきた。
係長が、私と出かけられる日を探してくれた。
「……はい」
再来週。
ちゃんと約束できた。
嬉しい。
でも、明日も明後日も、来週の土曜も日曜日も。
係長は私の知らない場所にいる。
次のお出かけまでに、係長には、私の知らない週末が二回来る。
それがどうしてこんなに怖いのか、そのときはまだ分かってなかった。
◆第76話「知らない週末」、明日20時に更新します




