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第74話「二月十六日夕方、好きです」


私が試作パンの最後のひとかけを飲み込むと、係長は安心したようにブラックコーヒーを一口飲んだ。

それから窓の外に目を向けた。


休日の表通りを、たくさんの人が行き交っている。

買い物袋を提げた人。

手を繋いで歩く親子。

制服姿の高校生たち。


係長はその流れをしばらく眺めてから、ふと思い出したように言った。


 「そういえば」


私はチョコクロワッサンを手に持ったまま、顔を上げた。


 「なんですか?」


 「俺の足音って、変なのか?」


落としそうになった。


 「変じゃありませんっ」


思ったより大きな声が出た。

近くの席の人と目が合って、私は慌てて声を小さくした。


 「ぜんぜん変じゃないです」


 「この前、足音で分かったんだろ? 俺って。 どうして分かったんだ?」


 「それは……」


好きだから。

毎日、係長の足音を意識してるから。

廊下を歩く速さも靴底が床を叩く音も、全部覚えてしまってるから。


……ってそんなこと言えるわけない。


 「なんとなく……、です」


 「なんとなくで足音まで分かるのか」


係長は納得してない顔をしたけど、それ以上は聞いてこなかった。


 「変じゃないです」


もう一度、小さな声で言った。


 「そうか」


私はこっそり息を吐いて、落ち着いてゆっくりとコーヒーカップに口を付けた。


  ……助かった


と思った次の瞬間、係長がまた言った。


 「ずっと玄関に座ってたのか?」


  ……っ!


今度はコーヒーを吹きそうになった。


答えられない。

答えられるわけがない。


何時間も玄関に座って待ってたなんて。

係長の足音を待ち続けてたなんて。

言えるわけない。


私が黙っていると、係長は困った顔をした。


 「お尻が冷たくなってたから」


顔が一気に熱くなった。


あの夜のことを思い出す。

力が抜けて床に落ちかけた私を、係長の腕が支えてくれた。


背中と、お尻を。

しかも私はトレーナーと、下にはパンツしか穿いてなかった。


椅子に触れているお尻が急にもぞもぞし始めた。


 「まだ……、覚えてるんですか」


 「何を?」


 「私の……、冷たかったこと」


最後のほうは、たぶん聞き取れないくらい小さな声になってたと思う。


係長は飲みかけたコーヒーカップを慌ててテーブルに置いた。


 「あれは風宮が倒れそうになったから」


 「分かってます」


助けてくれたことくらい、ちゃんと分かってる。

係長が支えてくれなかったら私は廊下に尻もちをついてた。

それでもあの大きな手の感触まで一緒に思い出してしまって、顔を上げられなくなった。


 「あれはほんの少し触れただけだ」


 「ほんの少しで分かるわけないですっ」


また声が大きくなった。


 「いや」


 「分かるわけないです」


 「……そうかもな」


係長が急に素直になった。


私はもっと恥ずかしくなった。

絶対顔が真っ赤になってる。


係長は咳払いをした。

なんだか居心地が悪そうな顔。


私はその顔を見て思わず言ってしまった。


 「係長って、エッチです」


………。


二秒。


三秒。


係長の耳が、はっきりと赤くなった。


私は目を丸くしてしまった。


係長が目を逸らして苦笑いをした。


 「そういうこと、言うな」


 「だって」


 「言うなって」


係長は慌ててた。


私は思わず笑ってしまった。

係長も笑った。


赤くなって。

笑って。

また赤くなって。

本当に忙しい。


こんな係長は初めて見た。


会社ではいつも落ち着いているのに。

何を言われても動じないのに、今日は違う。

表情がコロコロ変わる。


すごくかわいい。


そんなことを考えていると、係長が不意に言った。


 「風宮が無防備すぎるんだ」


 「無防備?」


 「ああ」


係長はコーヒーを飲んだ。

それから視線を逸らしたまま続ける。


 「さっきだって」


 「さっき?」


 「ほら階段で」


少し間が空いた。


嫌な予感がする。

ものすごく嫌な予感がする。


係長は咳払いをしてから、小さな声で言った。


 「丸見えだったぞ」


息が止まった。


 「……え」


 「だからその、スカートの中」


 「うそ……」


 「白」


両手で顔を覆った。

死ぬ。

本当に死ぬ。


あの階段。

この短いスカート。

後ろに係長。


全部思い出した。


 「もう! 係長ってほんとにエッチですっ!」


係長が吹き出した。

今度ははっきりと、声を出して笑った。

昨夜泣いていた人とは思えない。


 「もう、笑わないでください」


 「悪い」


そう言いながら、まだ笑ってる。


 「ぜんぜん悪いと思ってませんよね」


 「思ってる」


 「じゃあ忘れてください」


 「努力する」


◆


気づけば十六時を過ぎていた。

窓際の席には新しい客が座り始めている。


係長が時計を見て、最後の一口を飲んだ。


 「そろそろ出るか」


 「……はい」


頷いたけど、本当はまだ帰りたくなかった。


もっと話してたい。

笑ってる係長をもっと見たい。


でもそんなこと、言えるはずない。


◆


店を出ると、冬の陽射しはずいぶんと傾いていた。

二人の影が来るときより長く伸びてる。


私はわざと少し、歩幅を小さくした。

気づかれない程度に。


隣を見る。

係長は何も言わない。

私に合わせるみたいに、同じ速さで歩いてる。


歩道の段差を越える。

信号を渡る。

コンビニの前を通る。


何でもない帰り道。


でも私には全部が特別に思えた。

自宅への道を、係長と並んで歩いてる。


◆


マンションに着いてエレベーターに乗った。

三階で降りて、廊下を歩く。


……そして、三〇五号室の前で立ち止まった。


終わってしまう……。


 「ありがとうございました」


 「ああ」


 「楽しかったです」


 「俺もだ」


係長が笑ってくれた。

今日何度目だろ。


その笑顔に私の胸が、どくんと鳴った。


今日一日、この人はたくさんたくさん笑ってた。

見たことないくらい笑ってた。

何度も赤くなって、慌てて、困ってた。

今まで知らなかった顔をたくさん見せてくれた。


  どの顔も好き。

  大好き。


気づけば口が動いてた。


 「私、係長のことが好きです」


係長が固まった。


目を丸くして、私を見てる。

耳が赤くなってる。

顔も赤い。


何か言おうとしてる。

でも言葉になってない。


その顔までかわいくて、もうたまらなかった。


  好きだ。

  どうしようもなく。

  好き。


いつの間にか、私は背伸びをしてた。



そしてほんの一瞬、


  ――唇が、重なった。



本当に一瞬。

自分でも何をしたのか分からなくて、分かった瞬間に顔が燃えた。

私は慌てて後ろに下がった。


 「お、おやすみなさいっ!」


逃げるように部屋に飛び込んだ。


扉を閉める寸前、最後にもう一度廊下を見たら、係長はまだ同じ場所に立ってた。

真っ赤なまま。

まったく動いていなかった。


私は扉を閉めて、玄関ドアに背中を預けた。


唇に触れる。

あたたかい。


………。


しばらくして、ようやく靴音が鳴った。

すぐに着くはずの隣の部屋まで、係長はずいぶん時間をかけて歩いていった。


やがてパタンと、隣のドアが閉まった。


あの足音は、少しも変じゃない。

私がずっと待っていた音。




◆第75話「再来週」、明日20時に更新します

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