第73話「二月十六日お昼、甘すぎる」
二月十六日、日曜日。
お昼過ぎのこと。
私はキッチンに立っていた。
フライパンの中では玉ねぎがじゅうじゅうと音を立てている。
木べらを動かしているうちに、昨夜の非常階段の光景がまた頭に浮かんできた。
白い封筒。
係長の涙。
私の頭に置かれた、大きな手。
あのあと部屋に戻ってからも、なかなか眠れなかった。
係長は眠れたのかな。
朝、ちゃんと起きられたかな。
隣の部屋にいるのに確かめることができない。
玉ねぎがきつね色になっていくのを見つめながら、私は何度目かのため息をついていた。
そのときだった。
ピンポーンと、
インターフォンが鳴った。
宅配便かな。
そう思いながらモニターを見て、固まった。
――係長っ
画面の向こうで、なんだか居心地の悪そうな顔して立っている。
私は慌てて通話ボタンを押した。
「はいっ」
すると係長はカメラを見ないまま言った。
「駅前に新しいパン屋ができたんだが……」
そこで言葉が止まった。
それから――
「一緒に行かないか」
パン屋?
一緒に?
私と。
意味を理解した瞬間、顔が熱くなった。
「十分だけ待ってください!」
声が大きくなりすぎたのか、係長が驚いた顔をした。
私は返事を待たずに通話を切った。
そして走った。
まず火を止めて、炒めかけの玉ねぎをフライパンからお鍋に移す。
蓋をして保冷剤をぽこぽこ乗せて、洗面所に走った。
鏡を見る。
ひどい。
休日モードの顔だ。
急いで髪を整えて、化粧をする。
クローゼットを開ける。
服を見る。
違う。
これも違う。
そして最後に引っ張り出したのは、持っている中で一番かわいいスカート。
丈がすごく短いけど。
鏡の前で深呼吸をした。
よし。
大丈夫。
いや全然大丈夫じゃない。
でも行く。
せっかく係長が誘ってくれたんだから。
私はバッグを掴んで部屋を飛び出した。
隣の部屋のインターフォンを押すのは初めてだった。
私がインターフォンを押すと、すぐに扉が開いた。
玄関で待ってたみたい。
ぬっと出てきた係長は、なんだかこわばった顔をしていた。
それから――
「だ……、大丈夫だったか?」
笑ってしまいそうになった。
なんだこの人。
十分前まで玉ねぎを炒めていたことなんて、もうどうでもいい。
「はいっ」
自分でも驚くくらい元気な声が出た。
◆
パン屋さんまでは歩いて五分ほどだった。
休日の昼間に、仕事でもないのに係長が隣を歩いてる。
いつもの道がまるで別の場所のように見えた。
係長は仕事のときよりゆっくりと歩いてる。
歩幅を合わせてくれているのかもしれない。
青いもこもこの袖がすぐ横にある。
もう少し腕を振れば触れてしまいそう。
私もいつもより小さな歩幅で歩いてた。
◆
パン屋さんは駅前の角にあった。
白い外壁に大きなガラス窓。
入り口には木製の看板が立っていて、横には開店祝いの花が並んでる。
扉を開くと、焼きたてパンとバターの香りが漂ってきた。
木製の棚には、焼きたてのパンが所狭しと並んでいた。
一階で購入して、二階のカフェスペースで食べられるらしい。
「おいしそうなのが、すごくたくさんありますね」
私がパンを眺めていると、係長がすぐにトレーを手に取った。
そしてずらりと並んでいる中から、迷わずに焼きそばパンを乗せた。
続いてカレーパン。
これも即決。
なんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
すると係長が不思議そうな顔をした。
「なんだ?」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「別にです」
絶対に言わない。
係長っぽいです、なんて。
そんなことを考えながら棚を見ていると、係長が急に足を止めた。
「ん?」
視線の先を見ると、小さな札が立っていた。
「試作パン」って書かれてる。
「なんだこれ」
怪しんでいるくせに、目は興味津々。
私は頬の内側を噛んで笑いを堪えた。
こんな顔、会社ではまず見ない。
係長はしばらくその札を見つめていた。
それから、
「おもしろそうだな」
そう言ってトレーに乗せた。
子供みたい。
私は笑いを堪えながら自分のパンを選んだ。
チョコクロワッサンとクリームパン。
レジでは係長が当たり前みたいにお会計に進んでて、私がお財布を出そうとしたときには、もう終わってた。
「係長、私の分……」
「次な」
◆
パンの乗ったトレーを受け取って、係長より先に階段を上った。
二階に続く木の階段。
真新しい木のいい香りで満ちていた。
後ろから係長の足音がついてくる。
聞き慣れた音。
そう思った瞬間に、別のことに気がついた。
このスカート、短いんだった。
おしゃれしたくて一番短いのを選んできてしまってた。
今さらだけど、係長はすぐ後ろにいる。
階段を上ってる。
ということは、今の係長の目の高さにはちょうど……。
……っ
振り返れない。
絶対に振り返れない。
私は必死に前を向いたまま、一段ずつ階段を上った。
後ろからは相変わらず係長の足音が聞こえてきて、お尻のあたりがむずむずする。
かわいいの履いてたかな。
二階はすぐそこなのに、そこまでの数段が、やけに長い。
◆
二階の窓際に空いているテーブルを見つけた。
昼下がりの陽射しが柔らかく差し込んでいる。
私はトレーを置いてすぐに立ち上がった。
「ドリンクは私が買ってきます!」
係長が何か言いかけたけど、その前にカウンターに向かった。
本当は向かい合って座る前に、一度顔を冷ましたかったの。
カウンターで飲み物を二つ注文した。
待っている間に振り返ると、係長は窓の外を見ていた。
図面もパソコンもない。
電話も鳴らない。
日曜日の昼下がりに、私を待ってくれている。
その姿をこっそり見ていたら、店員さんに呼ばれた。
「ブラックコーヒー、おふたつです」
私が席に運ぶと、係長がカップを見て目を丸くした。
「風宮もブラックなのか」
「はい。 甘いものと一緒だと、意外と合うんですよ」
チョコクロワッサンとクリームパン。
「だからこんなに甘いのばかり選んだのか」
係長の呆れたような声に、私は思わず反論してしまった。
「係長だって焼きそばパンとカレーパンですよっ」
「何か問題あるか」
「高校生みたいです」
「失礼だな」
そう言いながら係長は笑った。
私は次の言葉を忘れて、その顔を見てしまってた。
まただ。
今日の係長は本当によく笑う。
昨日までの係長とは全然違う。
笑った顔がすごく増えてる。
私にはそれが嬉しかった。
どうしようもなく嬉しかった。
係長はブラックコーヒーを一口飲んだ。
それから私のクロワッサンを見て、「それやっぱり甘そうだな」と呟いた。
「甘いですよ。 食べてみます?」
係長が一瞬、固まった。
それから、「いや、いい」。
そう言って目を逸らした。
私は慌ててクロワッサンにかじりついて、ブラックコーヒーを一口飲んだ。
ブラックの苦味とチョコの甘さが口の中で混ざってる。
向かいでは係長がカレーパンを食べてる。
その何でもない光景が、今の私にはたまらなく幸せ。
◆
「試作パン」は、最初になくなると思ってた。
係長が興味津々で選んだくらいだから、真っ先に食べ終わるって思ってた。
でも違ってた。
係長は試作パンを持ち上げると、一口かじった。
もぐもぐ、もぐもぐ。
そして顔をしかめた。
「……甘い」
「甘いんですか?」
「ああ」
係長はもう一口食べた。
今度は長めにもぐもぐした。
それから小さな声で言った。
「甘すぎる……」
私は肩を震わせて笑いを堪えた。
普段の係長は好き嫌いを言わない。
出されたものは全部食べるし残さない。
味に文句も言わない。
だから余計に面白かった。
係長は試作パンを見ている。
試作パンも係長を見返している気がする。
しばらく睨み合いが続いたあと、係長はブラックコーヒーを飲んで、もう一度試作パンを見た。
「残すのは、いけないよな」
真剣に。
本気だ。
私はとうとう吹き出した。
「係長」
「なんだ」
「そんな顔してまで食べなくても」
「いや、残すのはよくないんだ」
係長は試作パンを睨んだまま言った。
「ほんとにこれはなかなかだぞ」
「そんなにですか?」
「ああ」
本当に深刻そう。
係長は再び試作パンに手を伸ばした。
でも私の手が、その手よりも先に届いてた。
「残り、私がもらいます」
自分でも驚くくらい自然に言った。
係長が目をぱちぱちさせてる。
「いいのか」
「はい」
平然とした顔を作ったつもり。
たぶん作れてなかったけど。
だってそれ、係長の食べかけだから。
係長が口をつけたパンだから。
そんなことを意識している自分が恥ずかしくて、でも嬉しくて、どうしようもなかった。
……。
パンを見た。
かじられた跡がある。
見た瞬間にまた顔が熱くなった。
……そこを、かじった。
一口。
……甘い。
確かに、笑ってしまうくらい甘い。
確かにこれはブラックコーヒーが必要だ。
でも全然平気。
むしろ美味しかった。
係長のだからかな。
そう思った瞬間、もっと顔が熱くなった。
「どうだ」
係長が聞いてきた。
私はパンを飲み込んで頷いた。
「甘いです」
「だろう」
「でも美味しいです」
係長がまた呆れた顔をして笑った。
「風宮は甘いものに強いな」
「係長が苦手すぎなんですよ」
「そうかもしれん」
また笑った。
今日の係長は。
係長が笑うたびに、私の胸がほかほかする。
昨日はあんなに苦しかったのに。
今はただ、向かいに座って笑っている係長が見られるだけで、すごく幸せ。
◆第74話「好きです」、明日20時に更新します




