第72話「二月十五日、また泣いているのか」
二月十五日、土曜日。
年度末を前にした設計一課は、全員が休日出勤をしていた。
朝、出社すると係長はもう図面を広げていた。
いつもの紺色のスーツ。
いつものメモ帳。
右手にはいつものペン。
昨夜、廊下で崩れた私を支えて、抱き上げて、運んでくれた手。
思い出してしまって目を逸らしたのに、係長が声を掛けてきた。
「風宮、風邪ひいていないか」
「だ、大丈夫です」
係長の様子は昨日までと同じように見えた。
でも、どこか違う。
ペンを動かしている手が何度も止まるし、コーヒーカップを持ち上げても口をつけずにそのまま戻す。
お昼前、図面の寸法を見直したとき、係長が自分で書いた数字を二度見した。
そんな姿は初めて見た。
そしてときどき、テーブルの下の引き出しを見てる。
そこには篠原さんから届いた白い封筒が入ってる。
十五年前から、封を切られてないままの。
◆
結局係長は一日中、引き出しを開けなかった。
二十時を過ぎたころ、広いフロアにはいつもどおり、私と係長しか残っていなかった。
照明は半分落とされている。
昼間は気にならない空調の音が、今はやけに大きく聞こえる。
係長はずっとパソコンのモニターを見ていた。
「風宮、まだ残るのか」
「係長は帰らないんですか」
「もう少ししたら帰る」
係長の目が一瞬、引き出しを見た。
……やっぱり。
「じゃあ私も、もう少しだけやっていきます」
………。
しばらくして、マウスを動かす音が止まった。
係長がテーブルの下の引き出しを開けて、白い封筒を取り出した。
そして鞄もコートも持たずに歩いていった。
向かった先は、普段ほとんど使われない北側の非常階段のほう。
私はモニターを見てる。
見たまま三十秒くらい我慢した。
……でも無理だった。
私は席を立った。
非常階段の扉を少し押すと、ひやりと冷たい空気が頬に当たった。
隙間から覗くと、係長は踊り場に立っていた。
蛍光灯の白い光の下で、両手で封筒を持っている。
係長は宛名を見つめたまま、封の端に爪をかけた。
けどすぐに指が離れた。
手すりに手をついて、俯いたまま動かなくなった。
それでもしばらくすると封筒を持ち直した。
今度は途中で止めなかった。
びり、と紙の裂ける音がして、中から白い便箋が出てきた。
係長が開く。
係長の視線が、便箋の上から下に、ゆっくりと動いていく。
私には文字は見えない。
でも、何が書かれているのかは知っている。
――あの夜のことを謝って、本当は私も大好きでしたって書いたの
篠原さんはそう言った。
しばらくして係長の目が止まった。
最後まで読んだんだと思う。
係長はもう一度、便箋の一番上に視線を戻した。
もう一度読んでる。
――卒業して三年経っても、あの夜に言えなかった言葉が消えなかった。 だから、ようやく手紙にしたの
あの夜、篠原さんは泣きそうな声でそう言った。
そして「あの夜」、係長に返した言葉も私は聞いてる。
――男性として見られません
あの言葉を係長はずっと信じてた。
十八年も。
……本当の気持ちじゃなかったのに。
係長の視線が、また一番上に戻った。
同じところを何度も読んでる。
階段室には換気扇の低い音が響いていた。
十分だったのか、二十分だったのか分からない。
私は扉のところで、声をかけられないでいた。
………。
やがて、便箋を持っていた片方の手が下がった。
係長が息を吐いた。
いや、吐こうとした。
でも途中で止まった。
下がった手が手すりをつかむ。
係長は顔を上げようとした。
いつもみたいに、何でもない顔をしようとしてる。
でも、できてない。
今度は俯いた拍子に、係長の頬に涙が流れた。
……っ
篠原さんの手紙で泣いてる。
好きだった人から十八年越しに、本当は「私も大好きでした」って。
嫌だ。
でも。
係長がもう一度息を詰まらせた瞬間、そんなのもう全部がどうでもよくなった。
次の瞬間、私は扉を押し開けてた。
金属の扉が壁に当たって、バンっと大きな音がした。
係長が振り返るより先に私は駆け寄って、係長の背中を力いっぱい抱きしめた。
「係長っ」
そう言っただけで声が出なくなった。
涙が一気に溢れる。
息を吸っても次の言葉が出てこない。
係長をつかんだ指に力が入る。
私は背中に顔を押しつけた。
しがみついて、ぼろぼろ泣いた。
「係長……」
それしか言えない。
係長のスーツをつかんで、息ができなくなっていた。
係長は涙を拭わなかった。
便箋を持った手を下ろしたまま、私の腕の中で何度も呼吸を詰まらせた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて係長の手が私の腕に触れた。
離されると思った。
けれど係長は私の腕をほどかなかった。
腕の中でゆっくりと振り返る。
泣き濡れた顔が、すぐ目の前にきた。
目が赤い。
今も新しい涙が流れてる。
それなのに、便箋を持っていないほうの手が、ぽんと、私の頭の上に乗った。
「また泣いているのか」
なんて掠れた声。
自分だってこんなに泣いてるくせに。
「係長だって……」
最後まで言えなかった。
また涙が溢れてきて、私は係長の胸に顔を押しつけた。
頭の上の手が、ゆっくりと動いた。
撫でてくれてる。
こんなにも震えてる手で。
私はもう一度、係長を力いっぱい抱きしめた。
◆第73話「甘すぎる」、明日20時に更新します




