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第71話「二月十四日深夜、お尻が冷たい」


係長が帰ってこなかったら、私は朝まで下着姿で玄関に座っていたと思う。


部屋に戻るなりシャワーを浴びた。

浴びているあいだも、篠原さんの「馬平君」が頭から離れなかった。


髪から雫を垂らしたまま下着を穿いて、棚にあったトレーナーを頭からかぶる。

スウェットパンツに手を伸ばした、そのときだった。


  ――ピンっ


廊下の向こうで、エレベーターの電子音が鳴った。


私はスウェットをソファに置いて玄関に走った。

ドアに耳をつけると硬い靴音が近づいてきた。


係長。


そう思ってドアノブに手をかけたけど、足音は隣の部屋も私の部屋も通り過ぎた。

知らない人の足音だった。


スマホを見ると、二十二時四十二分。


私はドアを背にして、そのまま玄関に座った。


ベッドにいたら次の音を聞き逃してしまうかもしれない。

ここなら、係長がこの階に降りた瞬間に分かる。


ソファの肘掛けには、はき損ねたスウェットパンツが引っかかっていたけど、取りに戻る気にはなれなかった。


◆


二十三時を過ぎて、もう一度エレベーターが鳴った。


今度も男の人の足音だった。

けど、速すぎた。


係長はあんなリズムで歩かない。


二十三時半には、買い物袋を鳴らしながら帰ってきた人が、向かいの部屋に入った。


そのたびに私は立ち上がって、そのたびにまた座った。


濡れて首に張りついていた髪は、いつの間にか乾いていた。

冷たい床に下着一枚で座り続けたせいで、お尻の感覚ももうほとんどない。

帰ってくる人の足音を待っているなんて、飼い主の帰りを待ってる犬みたい。


犬なら毛があるけど……

私はパンツ一枚だよ。


係長は今、篠原さんの向かいに座ってる。

私が何か月も言えずにいる言葉を、篠原さんは今夜、きっと言う。


もし篠原さんとうまくいってしまったら……。


二十三時五十七分。

もう日付が変わる。


それでも係長は帰ってこなかった。


◆


零時三十五分。

終電が駅に着く時間がきた。


駅からこのマンションまでは歩いて三分。

もし係長があの電車に乗っていたなら、あと三分で帰ってくる。


零時三十六分。

何も聞こえない。


零時三十七分。

エレベーターは動かない。


零時三十八分。

私はスマホの画面を伏せた。


  ――でも今日は……、私たちの負けだよ


玲さんの声が聞こえた気がした。


目を閉じると、涙が頬を伝って顎から落ちた。

もう誰の足音も聞こえなくなった。


  ……終わった。

  もうだめ。


  十八年だもん……。

  私じゃ無理だよ……。


……。


  もう私には届かない。

  ほんとやだ……


そのとき、



  ――ピンっ



顔を上げた。


廊下に足音が響く。

あの足音。


立ち上がるより先にドアを開けた。

冷たい空気が、トレーナーの裾から一気に入ってくる。

裸足のまま廊下に飛び出した。


すぐに濃紺のコートが見えた。

ネクタイを緩めた係長が、鞄を片手に歩いてくる。


 「風宮?」


係長が足を止めた。


でも私は止まれなかった。

そのまま係長にぶつかって、両腕を背中に回した。


ゴンっと、鞄が床に落ちる鈍い音がした。


頬にコートの硬い襟が当たる。

ウイスキーと何かが混じった匂いがする。


 「帰ってきた……」


一度出た声は止まらなかった。


 「帰ってきたっ」


何度も同じことを言いながら、係長のコートを握った。


 「おい、風宮。 どうした」


答えようとした途端、力が抜けて、膝から落ちた。


係長の片腕が背中に回って、もう片方の手が、落ちかけた私のお尻をつかんだ。


トレーナーの下にはパンツしかない。

パンツ一枚越しに、指の位置まではっきり分かった。


 「っ! 何だその格好」


普段なら叫んでいたと思う。

でも私は係長の首に腕を回して、もっと強くしがみついた。


 「離したら帰りますか?」


 「帰るって隣だ」


 「じゃなくて……」


自分でも何を言っているのか分からない。


係長は黙っていたけど、しばらくして、開いたコートの両側を私の背中に回してくれた。


 「部屋に戻るぞ。 歩けるか」


歩けます。

でも私は首を横に振った。


 「まったく」


係長は片腕を私の背中に、もう片方を膝の裏に入れた。


その瞬間、ふわりと、体が床から浮いた。


 「……っ」


慌てて首にしがみつくと、濡れた頬が係長の襟に触れた。


トレーナーの裾がおへその上までずり上がってる。

下げたくても両手を離せない。


係長はそのまま何も言わずに、私の部屋に入った。


ソファまで運ばれて、そっと下ろされる。

係長がコートを脱いで、私の丸出しの下半身を隠すようにかけてくれた。


 「待ってくださいっ」


私は、立ち去ろうとした係長の袖を掴んだ。


係長は袖を見て、それから私の隣に座りなおした。


 「ずっと玄関にいたのか」


私は頷いた。


 「馬鹿。 風邪ひくだろ」


また涙が出た。


 「もう帰ってこないと思いました」


係長はすぐには答えなかった。

それから、私の頭に手を置いた。


 「帰ってきただろ」


私は何度も頷いた。


係長が立ち上がる。


今度は袖を掴まなかった。


玄関まで歩いたところで、係長が振り返った。


 「服、着ろよ」


 「着てます」


 「下」


係長のコートの下から、自分の裸の足が見えた。


 「は、穿いてます!」


 「それは……」


一瞬で、廊下で何が起きたのかを思い出した。


廊下で力が抜けたとき、係長は私のお尻を片手で支えた。

パンツ越しに。


 「お尻、冷たくなってたぞ」


係長はそれだけ言って、部屋を出た。


  ……っ


私はソファの上で膝を閉じて、両手でお尻を隠した。

もう誰も見てない。

でももう遅い。


廊下から、隣のドアの閉まる音がした。

何時間も待っていた音。


係長は帰ってきた。

私の隣に、帰ってきてくれた。




◆第72話「また泣いているのか」、明日20時に更新します

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