第70話「二月十四日午後、帰りたくない」
お昼休みに係長にチョコを渡してから、私は見積表データのD十二セルを何度も見ていた。
――お前がくれるって言ったからな
思い出すたびに口元が緩む。
係長は私の言葉を覚えていた。
しかも、私がその先を言うのを待っていた。
それなのに私は二度も「私も」と言って、結局チョコしか渡せなかった。
「しおりちゃん。 そのセル、そんなに怪しい数字?」
隣から玲さんが画面を覗き込んだ。
慌てて画面を見る。
見積表のD十二。
たしかに、カーソルはもう何分もそこから動いていなかった。
「確認してました」
「ふうん」
玲さんは私の顔を見て、目を細めた。
「ど、どうしてですか」
「いや。 帰ってきてからずっと嬉しそうだから」
「……そんなこと」
「係長となんかあった?」
私は慌てて画面に目を戻した。
「係長、今日ほんとは休めたみたいなんです」
「うん」
「でも……、私がチョコを渡すって言ったから休まなかったって」
「待ってたんじゃん」
耳まで熱くなった。
「それで? 今度こそ言えた?」
私は首を横に振った。
「悔しいね」
「……はい」
◆
十五時を少し回った頃、係長がファイルを抱えて席を立った。
「風宮、山本。 十五分後に出るぞ」
「はい」
玲さんと二人で返事をすると、係長はロッカー室のほうに歩いていった。
今日はAo no Yugasumiで打ち合わせがある。
終わるのは十八時の予定で、そのまま直帰していいと言われた。
「今日、このあと誘おうよ」
係長の姿が見えなくなると、玲さんが椅子ごとこっちに寄ってきた。
「ご飯ですか?」
「うん。 しおりちゃんが誘って?」
「私が?」
「今日、言えなかったんでしょ。 だったら今度こそ、ねっ」
玲さんは私の顔を覗き込んだ。
「三人がいい? 二人で行きたい?」
膝の上で両手を握った。
「……二人で行きたいです」
玲さんが目を丸くしてから、すぐに笑った。
「うん。 じゃあ私は、直前で用事を思い出すね」
玲さんは立ち上がり、私の肩を叩いた。
「言葉、今度は飲み込んじゃだめだよ?」
◆
十六時。
Ao no Yugasumiの重い扉を開けると、まだ客のいない店内に琥珀色の灯りが浮かんでいた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がして、私は足を止めた。
篠原さん。
黒いワンピースは、いつも打ち合わせで見る服より身体の線が出ていた。
肩に流していた髪はひとつにまとめられ、耳元で小さな銀色の飾りが揺れている。
篠原さんが係長を見た。
ほんの一瞬、笑う前に唇が止まった。
「今日もよろしくお願いします」
係長はいつもの声で頭を下げて、私たちの席に資料を置いた。
私はバッグの持ち手を握る指に、いつの間にか力が入ってた。
打ち合わせが終わったら、私が係長を食事に誘う。
そう決めてここに来た。
◆
打ち合わせが始まると、篠原さんはいつものオーナーの顔に戻った。
新しい店舗の完成予想図と、修正された平面図がテーブルに広げられる。
私はノートを開いて、係長の説明を書き取った。
「西日がこの角度から入ります。 ガラスだけだと、夏場はこの席が使いにくい」
係長が図面の窓際をペンでなぞった。
「だからここに格子を入れます。 縦型を使うと、通りから客の顔は見えなくなります」
篠原さんが図面を覗き込む。
「中は見えなくても、夜は明かりが見える?」
係長のペンが止まった。
「はい。 今度は暗くしすぎません」
篠原さんも一瞬止まって、それから吹き出した。
篠原さんは「あの案」とさえ言わなかった。
それでも、二人には通じていた。
私はノートを見つめるしかなかった。
◆
打ち合わせは予定どおりに進んだ。
十八時が近づくにつれて、私のノートに書く文字が乱れていく。
資料を閉じたら、すぐに誘おう。
今度は飲み込まない。
やがて係長が最後の確認事項に丸をつけて、ペンを置いた。
「では、今日の打ち合わせはここまでにしましょう」
そう言って、係長はテーブルの図面を揃えている。
今だ。
息を吸った。
「係長、このあ――」
「馬平君」
声が重なった。
係長が篠原さんを見る。
私の口には言い残した言葉が残ってしまった。
打ち合わせの資料を片づけ終わった篠原さんが、カウンターにグラスを二つ置いた。
「今晩、ここで飲んでいってくれない?」
グラスは二つ。
玲さんがカウンターに並んだグラスを見た。
しばらくして係長が小さく頷いた。
「……ああ」
係長が私たちを見た。
「お前たちはもう直帰でいいぞ」
――二人で行きたいです
けどこのままじゃ、二人になるのは係長と私じゃない。
「私も残ります!」
係長が私を見た。
篠原さんも私を見た。
「私も、ここで――」
その瞬間、手首を掴まれた。
「帰ろ、しおりちゃん」
玲さん。
いつもの明るい声。
でも手首に食い込む指が痛いほど強い。
「玲さん、離してください」
「篠原さん、今日はお忙しいところ、ありがとうございました」
私の言葉を無視して、玲さんは深く頭を下げた。
「山本?」
「お疲れさまでした」
玲さんは振り返らない。
掴んだ手を離さないまま、私を扉の外に引っ張り出した。
お店の重い扉が閉まる。
琥珀色の灯りと係長の姿が見えなくなった。
「離してください!」
店から少し離れたところで、私は玲さんの手を振りほどいた。
白い息が夜風に千切れた。
「玲さんも、言えって言ったじゃないですか」
「うん」
「だったら、どうして!」
玲さんが振り返った。
……泣いていた。
「十八年って言えば、私たちは全部譲らなきゃいけないんですか」
「私だって譲りたくないよ!」
初めて玲さんが声を荒らげた。
「二人きりになんてしたくない。 今すぐ戻って、係長の隣に座りたい。 私を選んでって言いたいよ」
「じゃあ、戻りましょう」
「でも篠原さんだけ、まだ一度も言えてないんだよ」
私は店の扉を見た。
「十八年もだよ。 あの人ずっと言えなかったんだよ」
玲さんが唇を噛んだ。
「あの人も今日、言わなきゃだめなんだよ。 今度こそ、自分の口で」
「それで係長が、篠原さんを選んだら?」
玲さんは答えなかった。
すぐそこに扉がある。
けれど、もう開けられなかった。
「帰りたくないです」
「うん。 私も」
玲さんは閉じた扉を見つめたまま言った。
「でも今日は……、私たちの負けだよ」
◆第71話「お尻が冷たい」、明日20時に更新します




