第69話「二月十四日、律儀だよな」
二月十四日、金曜日。
目覚ましが鳴る少し前、
コトンっ。
壁の向こうで小さな音がした。
夜、声を漏らしてしまった直後に聞こえたのと同じ音。
一瞬、身体が固まったけど、今朝の私を眠らせてくれなかったのはそれだけじゃなかった。
枕元に紺色の小さな紙袋が置いてある。
今日はバレンタインデー。
ついに来てしまった。
布団から出て紙袋を持つと、中で箱がわずかに傾いた。
抹茶入りのビターチョコ。
――風宮が選んでくれ
係長がそう言ってくれたから私が選んだ。
箱の上には白いカードが一枚、乗っている。
『好きです』
昨夜に書いた。
これを書くために何枚もカードを無駄にした。
一度書いては字が震えている気がして捨てて、もう一度書いては、こんな字で気持ちまで幼く見えないだろうかと不安になって捨てた。
係長がこれを読むところを想像してみる。
いつもの無表情で読むのかな。
困った顔をするのかな。
それとも、何も言わずにそっと鞄にしまうのかな。
どの姿を想像しても胸が苦しくなって、私は紙袋からカードを取り出した。
もし伝えるなら、このカードじゃなくて自分の口で伝えたい。
声が震えても、途中で息が続かなくなっても、係長の顔を見て、自分で言いたい。
私はカードをテーブルの上に置いて、チョコだけになった紙袋を仕事のバッグに入れた。
◆
会社に着いて設計一課のフロアに入ると、係長の席にはもうメモ帳と黒いペンが出ていた。
そして椅子の上には、見慣れない大きな黒い革の鞄が置いてあった。
係長の姿はない。
私はいつものところに座って、バッグを足元に置いた。
「おはよ、しおりちゃん」
顔を上げると玲さんが立っていた。
私の顔を見て、次に足元のバッグを見る。
「持ってきた?」
「はい」
「そっかそっか」
玲さんは嬉しそうに笑った。
「もう渡した?」
「……まだです」
「じゃあ、今はまだ渡さないほうがいいよ」
「どうしてですか?」
「んーと、すぐ分かる」
玲さんはそう言って、自分の席に座った。
チンっ
九時の少し前になって、エレベーターの到着音が聞こえた。
係長がフロアに入ってくる。
ノートパソコンを脇に抱えて資料のファイルを持った、いつもの姿。
でも右手には、小さな紙袋が三つ、ぶら下がっていた。
赤いリボンと水色のリボンと白いリボン。
まだ九時にもなってない。
係長は私たちの前を通るとき、いつもの低い声で「おはよう」と言った。
そして席に着くと、三つの紙袋を、椅子に置いてあった黒い鞄の中に入れた。
玲さんが私を見て、くすくす笑った。
「ねっ」
去年もこの光景を見たんだろう。
午前中、係長の横に女性社員が立つたびに、黒い鞄は少しずつ膨らんでいった。
紙袋を差し出す手。
いつもより明るい声。
受け取った係長の、誰に対しても変わらない「ありがとう」。
私は仕事をしていた。
メールも返した。
図面も見た。
頼まれた修正も終わらせた。
それでも気づくと、係長の隣にある黒い鞄を見てしまってた。
私の紺色の紙袋も、あの中に入れば、たくさんあるうちの一つになる……
◆
十一時五十分を過ぎたころ、係長がきょろきょろと周囲を見回した。
それからコンビニの袋を持って、誰にも気づかれないように静かに席を立った。
「行った」
玲さんが時計を見て笑った。
十二時になると、玲さんも立ち上がった。
お弁当と、小さな紺色の紙袋を持っている。
私のと同じ色。
「しおりちゃん、行こっ」
私は朝から何度も触っていた紙袋の持ち手を握って、玲さんのあとを追った。
◆
オフィス横の細い路地に入ると、冬の空が高いビルの隙間に細長く見えた。
奥の石の花壇に、係長が腰かけている。
コンビニの袋とペットボトルのお茶。
その横には、小さな紙袋がまた一つ、置かれていた。
「相変わらずモテますねー」
玲さんがそう言いながら、係長の隣に座った。
私も玲さんの隣に座ろうとすると、玲さんが目で違う違うって言ってる。
私は言われるまま反対側に回った。
係長を真ん中にして、三人で並んで座る。
係長はおにぎりの包装を剥がしながら、横に置いた紙袋を見た。
「みんな、律儀だよな」
玲さんが私を見た。
私も玲さんを見た。
そしてほとんど同時に二人で吹き出した。
「どうした?」
「いえ、何でもないです」
玲さんは肩を揺らしたまま、お弁当を開けた。
係長は本気で、全部義理チョコだと思ってる。
これだけ渡されても、人の好意はきれいに見落としてる。
「来月、全員にお返しするんですか?」
私が聞くと、係長は当然のように頷いた。
「もらったんだから返すだろ」
「律儀なの、係長のほうじゃないですか」
玲さんが言うと、係長は路地の入口を見ながら大きな溜息を吐いた。
「やっぱり有休を使えばよかったな……」
しばらくして、玲さんは膝の上に置いていた紺色の紙袋を両手で持った。
「そういえば私、まだ返事をもらってませんよね」
係長の手が止まった。
「ああ。 それなんだが――」
「ダメです」
玲さんがすぐに止めた。
「返事は保留です」
「山本……」
「保留にしておいてください」
紙袋を握る指が白くなってる。
「私は諦めません」
風が吹いて、玲さんの髪が揺れた。
「係長の返事が私にとって嬉しい返事に変わるまで、私は好きって言い続けます。 それまで返事を受け付けません」
玲さんは大きく息を吸った。
唇が震えてる。
それでも、係長から目を逸らさなかった。
「だって、私がこの人生で、一番好きになった人なんですから」
しばらくしてから、係長がわずかに頷いた。
「……ありがとう」
「はい」
玲さんは紙袋を係長に渡すと、お弁当箱を片づけて立ち上がった。
「お先に戻りますねっ」
私の横を通るとき、ぽんっと玲さんの手が肩に触れた。
………。
玲さんの足音が遠ざかると、周りが急に静かになった。
残されたのは、係長と、私。
今なら言える。
私は膝の上の紙袋を握った。
「係長」
「ん?」
係長が私を見た。
私も逃げずに、その目を見た。
「私も……」
係長は何も言わずに、続きを待ってる。
「私も……」
好きです。
あとはそれだけ。
口を開けばそれでいい。
でも、その先に係長の返事があることに、今さら気づいた。
「好きです」と言ったら、この人はきっと、曖昧にせず何かを返そうとする。
その答えが、私の欲しいものじゃなかったら。
明日から、今までみたいに隣に座れなくなったら。
昼休みに三人で笑えなくなったら。
名前を呼ばれるだけで嬉しかった毎日まで、全部なくなってしまったら……。
私は紙袋を差し出した。
「……これ」
違う。
「私から……、です」
係長は紙袋を受け取った。
「ありがとう」
今朝から何度も、他の人に言っていたのと同じ言葉……。
◆
昼休みが終わりに近づいて、係長と二人で会社に戻る。
玲さんの言葉がまだ、私の中に残ってる。
――私がこの人生で、一番好きになった人ですから
玲さんは言えた。
私は言えなかった。
隣を歩く係長の横顔を見ることもできずに、アスファルトのデコボコばかり見てた。
何か言わなければ、この沈黙に押し潰されそう。
「やっぱり有休、使えばよかったですよね」
係長がちらりと私を見た。
私は前を向いたまま歩いた。
少し間があって、それから、低い声がした。
「それは無理だな」
「どうしてですか?」
係長は前を向いたまま。
「こないだカフェで、お前がくれるって言ったからな」
◆第70話「帰りたくない」、明日20時に更新します




