↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
68/79

第68話「二月十一日、このフロアに」


二月八日、土曜日。

夜。


家に帰ってからも係長の声が消えてくれなかった。


エプロンをつけて、刻んだチョコを湯煎にかける。

木べらで混ぜていると、また聞こえた。


  ――俺は、この二つ、好きだ


  ……っ


唐辛子と、ブランデー。

分かってる。

チョコの話。


  ――風宮が選んでくれ


もう……


私はブランデーを量って、溶けたチョコに混ぜた。

チョコの甘い香りが大人っぽく変わる。


木べらについたチョコを、人差し指ですくって舐めてみた。

最初にカカオの苦みが来て、そのあとにブランデーの香りが広がった。


今日、係長が食べた味。

私がかじったものを、係長が口に入れた。


  ……っ


慌てて人差し指を口から離した。


今のは味見。

さっきから何度もしてたこと。


でもチョコを舐めれば、係長の口の中にあった味が私の口の中に広がってくる。

そんなことを考えてしまって、お腹の奥が熱くなった。


 「何考えてるの……」


誰もいない台所で呟いた。

返事はない。

代わりに壁の向こうから、どこかの部屋で水道を使う音が、かすかに聞こえた。


◆


湯船につかっても身体の熱は引かなかった。


目を閉じると、また係長がチョコを食べた瞬間が浮かんできた。


私がかじったところ。

そこをそのまま。


  ………。


どうしてそこばっかり思い出すんだろう。


私は無意識に自分の唇に触れていた。

指の腹で、ゆっくり撫でる。


……ここ。


私がかじったところを、係長が――


そこから先を、考えるのをやめた。

目を開けて手を離す。


ぱしゃっと湯船のお湯を顔に当てた。


◆


髪を乾かした後、部屋の灯りを消してベッドに入った。

目を閉じると、係長の声がする。


  ――俺は、この二つ、好きだ


好きだと言ったのは、チョコのこと。


  ――それは、風宮が選んでくれ


選ばせてくれたのは、味。


頭では分かってる。

でも布団の中に閉じ込められた熱は、言葉の正しい意味なんて聞いてくれない。


寝返りを打つたびに太ももが擦れる。

身体の中心に集まっていた熱を意識してしまう。


 「……だめ」


右手が、お腹に滑った。

パジャマのゴムから手を入れて、下着の上に触れる。


指先が触れたところが、熱を持っていた。


 「……っ」


小さく息が漏れた。

係長のことを考えながら……。

恥ずかしすぎる。

でも、


指が下着の中に入ってきた。


  ――好きだ


違う。

チョコ。

チョコのこと。


  ――風宮が選んでくれ


 「んぁっ……、係長っ」


  ……え


声、出た。


その直後だった。

壁の向こうで、


  コトンっ


身体が固まった。

指を止める。

部屋の中は静かだ。


  聞こえた?

  今の声、隣の人に聞こえちゃった?


私は下着の中から手を抜いて、布団を頭までかぶった。



◆◆◆



二月十一日、火曜日。

建国記念の日。


お昼過ぎ、チョコの材料と明日からのお弁当の材料を買うために、近所のスーパーに出かけた。


製菓コーナーでブランデーを籠に入れようとして、ふと思った。


  ――それは、風宮が選んでくれ


私はこれまで、係長みたいな味ばかり探してた。

唐辛子、ブランデー、ジンジャー、シナモン。


でも係長は、私に選んでくれと言った。


抹茶の袋を手に取った。

係長っぽいかどうかは分からない。

でも私はこれが好き。


 「……これにしよ」


籠に入れる。

入れてから、ちょっと笑えた。


買い物を終えてスーパーから外に出る。

両手の袋は思っていたより重かった。

冬の冷たい風の中、マンションに向かう。


入口が見えてきた。


……その前に、男の人が立っていた。


青いもこもこのダウン。

黒いパンツ。


あの背中。


  ……っ


足が止まった。


  どうして?

  どうしてここにいるの?


係長は慣れた手つきでキーをかざしてオートロックを解除した。

自動ドアが開くと、躊躇することなく入っていった。


私は急いでオートロックを解除した。

エントランスに入ったとき、ちょうど正面のエレベーターの扉が閉まったあとだった。


階数表示が上がってく。


二階。

三階。


止まった。


  ……三階?


私の階。


隣のエレベーターを呼ぶ。

来ない。


 「早く……」


やっと到着音が鳴って、扉が開く。

買い物袋を抱えたまま乗り込んで、三階のボタンを押した。


私の住んでいる階。


私が三階の廊下に着いたときにはもう誰もいなかった。


どこかの部屋からテレビの音が聞こえている。

換気扇の回る音。

料理の匂い。

休日の午後に、いつも聞いていた生活の音と匂い。


閉じた玄関扉が並んでいる。


 三〇一。

 三〇二。

 三〇三。

 三〇四。


きっとこのどこかに係長がいる。

同じマンションの、同じ階に住んでいる。


私はしばらく廊下に立ち尽くしてから、自分の部屋に戻った。


玄関の鍵を閉めて、買い物袋を床に置く。

やっぱり静かだ。


そのとき壁の向こうで、


  コトンっ


と、何かが鳴った。

土曜の夜、あのときも。


ベッドをくっつけている向こうの壁。


違う。

そんなわけない。


 「……聞こえていませんよね?」


壁に向かって小さく呟いた。

今日も返事は返ってこない。


それでもその夜、私は壁から遠い側のベッドの端で、落ちそうになりながら寝ることにした。




◆第69話「律儀だよな」、明日20時に更新します

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『このおっさんは、なぜかモテる』全79話完結
全79話に登場人物紹介とあとがきを加えた完全版を制作しています。
▶ 完全版についてのお知らせをnoteで読む

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。