第67話「二月八日、風宮が選んでくれ」
隣の椅子が、ギィーっと引かれた。
そして――
「おいしそうだな」
聞き間違えるはずのない声がした。
顔を上げるより先に、ひょいっと視界の端でチョコが動く。
指につままれたのは、お皿の上の、唐辛子入りのビターチョコ。
しかも、さっき私がかじったやつ。
「あっ、待っ――」
言い終わらないうちに、チョコが口に入った。
もぐもぐ、もぐもぐ
普通に噛んでる。
私は半分開いた口を閉じられないまま、喉が動くところまで見てしまった。
「……辛いな」
紺色のもこもこのダウン。
片手にはコーヒーカップ。
何事もなかったような顔で、係長が私の隣に座ってた。
「でも、おいしい」
私は係長の口と、チョコのなくなった指先を交互に見る。
さっきまでそこにあったのは、間違いなく私がかじったやつ。
端が少し欠けてて、私の唇と歯が触れてたやつ。
それを今、この人が食べた。
「係長、それ……」
「これ?」
「はい」
「唐辛子味だよな?」
「そ、そうですけど、そうじゃなくって……」
係長が不思議そうな顔をして首を傾ける。
駄目だ。
この顔は何も分かっていない。
「味見用じゃないのか?」
「味見用です……」
「じゃあいいだろ」
よくない。
全然よくない。
でも係長の中では勝手にもう解決してる。
「一人でこれ全部食うのか」
係長がチーズケーキのお皿の端に並んだチョコを指さした。
「そのつもりでした」
私は右手に持ったままだったブランデー入りをお皿の端に置いて、ティーカップを持ち上げた。
「そっちは?」
「え?」
「今置いたの、違う味だろ」
係長が指さしたのは、今、私が戻したばかりのやつ。
「あ、これはブランデー入りで……」
「へえ」
係長の手が伸びてきた。
待って。
それもさっき私がかじった。
バッグの中には、まだ口をつけていない予備がある。
私は慌ててティーカップを置くと、左手をバッグに入れて、紙袋に指を掛けた。
まだかじってない新しいのがあります。
そう言って新しいのを渡せばいい。
係長はお皿の上の、かじりかけのチョコを摘まんで持ち上げた。
そしてかじりかけが、そのまま口に運ばれる。
「あ……」
私の歯形の残っていたチョコが、係長の唇の間に消えた。
見ちゃってた。
気づいて慌てて顔を伏せた。
でも今見た口元が頭から消えてくれない。
係長の口元を見てはいけない。
そう思うのに見てしまう。
唇。
さっき私の唇が触れたものを今、係長が食べている。
チーズケーキを見る。
ミルクティーを見る。
テーブルの木目まで見た。
目をどこに逃がしても、視界の端には紺色のダウンがある。
近くにいすぎて、どうしても消えてくれない。
「うん」
係長が頷いた。
「これも、好きだな」
係長はコーヒーカップをソーサーに置いた。
「今の唐辛子とブランデー」
「……はい」
「俺はこの二つ、好きだ」
今度はさっきより冷静に聞けた。
それでも指には力が入った。
唐辛子入りとブランデー入り。
どちらも、私が係長みたいだと思って作った味。
「……ほ、ほんとですか?」
「ああ」
係長はこの二つが好きなんだ……
「あ、あの、係長」
「ん?」
「このチョコ……」
口の中がカラカラになって言葉が止まった。
係長はコーヒーカップを持ったまま、私が続きを言うのを待っている。
「係長に渡そうとおっ、思ってます」
言えた。
声は情けないくらい小さかったけど、最後まで言えた。
「俺に?」
「……はい」
係長が私を見てる。
今視線を逸らしたら、今言ったことがなかったことにしてしまいそうで、私も必死に係長を見た。
………。
係長は私からお皿に目を移して、まだ残っているジンジャーとシナモンを見た。
「どど、どの味がいいですかっ」
今度は大きな声が出た。
ブランデー、唐辛子、シナモン、それか、他の味でも。
何でもいい。
とにかく何か答えてほしかった。
………。
係長は少し考えて、窓の外に視線を向けた。
「それは、風宮が選んでくれ」
一瞬、意味が分からなかった。
「え……」
思わず声が漏れた。
係長はコーヒーを飲みながら窓の外を見ている。
たぶんこの人は、今自分が何を言ったのか分かってない。
私は言葉を失った。
――風宮が選んでくれ
その言葉が、何度も何度も聞こえてきた。
◆
しばらくして係長がコーヒーを飲んだ。
そしてまたお皿に手を伸ばした。
今度はシナモン入りの。
もちろん私のかじりかけ。
係長は気づかないまま口に運ぶ。
もぐもぐ
少し考えるような顔をして、
「……うん」
小さく頷いた。
「これも好きだ」
窓から差し込む冬の光。
コーヒーの香りとチョコレートの甘い匂い。
その真ん中に係長がいる。
私は横顔を見てた。
シナモン入りまで食べてる。
どうして普通に食べられるんだろう、この人。
もう。
ほんとにもう。
好きだよ。
今年のバレンタイン、今度は逃げない。
私から渡す。
今度こそ、ちゃんと。
◆第68話「このフロアに」、明日20時に更新します




