第65話「二月三日、私には何がある」
二月三日、月曜日。
カレンダーが一枚めくられても、私はまだ一月七日の朝と同じところにいた。
篠原さんには十八年間がある。
玲さんには、何度傷ついても前に進める強さがある。
じゃあ、私には何があるんだろ。
◆
その日の朝、給湯室でお湯を沸かしていると後ろで扉の開く音がした。
「おはよ、しおりちゃん」
「おはようございます」
玲さんは棚からマグカップを取り出して、インスタントコーヒーの瓶を開けた。
「もうすぐバレンタインだねー」
ポットの赤いランプが光ってる。
「そうですね」
「チョコ、渡すの?」
「え?」
「係長に」
どくんっと、心臓が跳ねた。
驚いて玲さんを見ると、
玲さんはくすくすと肩を揺らして笑っていた。
「その反応さあ」
「……」
「逆にかわいいよね」
顔が一気に熱くなった。
何も言えない。
玲さんは平然と続ける。
「みんな気づいてるよ」
うそ……
「みんなって……?」
「みんな」
即答。
「課長も」
えっ……
「神崎係長も」
え……
「たぶん、工事現場の監督さんも」
終わった……
「どうして監督さんまで……」
「しおりちゃん、現場でも係長のことばっかり見てるんじゃない?」
玲さんはそう言って、私の顔を見て吹き出した。
「真っ赤」
「……っ」
「耳まで真っ赤」
誰にも知られていないと思ってた。
「気づいてないの、あの人だけだよ」
玲さんがカップにお湯を注ぐと、白い湯気が上った。
「渡しなよ。 絶対喜ぶと思うけどなあ」
◆
お昼休みになって、玲さんと近くの公園に出た。
冬の空気は冷たくて、ベンチはもっと冷たくなってた。
コンビニで買った紅茶のカップを両手で包みながら、朝から気になってたことを聞いた。
「いつから気づいてたんですか?」
「ん? けっこう最初からだよ」
「最初からって……?」
「だってしおりちゃん、毎朝フロアに来た瞬間、係長の席を見るじゃん」
係長がもう来てるか。
どんな顔をしてるか。
今日は忙しそうか。
……見てる。
「係長が出張の日は元気ないしさ、戻ってくる日は朝からそわそわしてるし。 シマエナガをもらった日なんて、係長のこと、一日に何回見てた?」
「………」
「すごかった。 係長だけだよ、あれで気づかないの」
玲さんはお茶を一口飲んだあと、水筒を膝の上に置いた。
「そういえばさ、私からも聞こうと思ってたことがあるんだ」
「何ですか?」
「年明けの日ね、係長に何を聞かれてたの? 休みの間、考えてくれたかって言われてたよね」
「仕事のことです」
「まだそれで通すの?」
玲さんは笑ってなかった。
「仕事の話なら、あんな顔しないでしょ。 しおりちゃんも、係長も」
もう逃げられない。
言えば玲さんを傷つける。
けど、もう誤魔化せない。
「係長に相談されたんです」
「何を?」
「玲さんに、次に好きだと言われたら……、何て答えればいいか、です。 すみません……」
玲さんは水筒をベンチに置いて、空を見た。
「それ、しおりちゃんに相談したんだ」
「……はい」
「どうしてだろね」
「え?」
「だってそういうこと相談するのなら、別に神崎係長でもいいじゃん」
「それは……」
言葉が出なかった。
「でもしおりちゃんだったんだ」
「私が部下だからだと思います」
「部下なら他にもいるでしょ」
私にも分からない。
「そうだったんだね」
玲さんは笑ってる。
「あー、私がいちばん聞きたくなかったやつかもだねー」
「……すみません」
「しおりちゃんが謝ることじゃないよ。 相談したの係長だし」
玲さんは靴の先で地面の小石を転がした。
「で、何て答えたの?」
「分かりませんって言いました」
玲さんは小石を遠くに蹴った。
「やっぱりチョコ、渡さないでほしい、かな。 本当はね。 しおりちゃんには何もしないでほしい。 係長のそばにいる女の人は、一人でも少ないほうがいいからね」
「……はい」
「でも、渡しなよ?」
「どうしてですか?」
「しおりちゃんが何もしないまま諦めて、あとから泣くのは見たくないよ」
「でも、私が渡さなかったら、玲さんにとっては……」
「うん、助かる。 すごく助かる」
玲さんは、きっぱりと言った。
「でもしおりちゃんが黙ったままなのを利用して、もし係長の隣に立てたとしても、私、ずっと気にすると思うから」
玲さんは、私には渡してほしくない。
でも渡さずに諦めてほしくもない。
「それに、私も渡すからね」
「やっぱり渡すんですね」
「当たり前でしょ。 ライバルにチョコを勧める女が、自分は手ぶらなわけないじゃん」
玲さんがまた笑った。
「篠原さんも渡すと思うよ。 だからいつもより三人分増えちゃうね。 係長、今年は大変だ」
「どうするんでしょ」
「たぶん全部ただの義理チョコだと思って、甘い甘いって言いながらがんばって食べるんだよ」
私たちは顔を見合わせて、もう一度笑った。
◆
仕事を終えたあと、駅前の百貨店に寄ってみた。
バレンタインの特設売り場には、赤やピンクの箱が並んでいて、平日にも関わらず大勢の人が集まっていた。
有名なお店のチョコ。
外国から取り寄せたチョコ。
宝石みたいに、一粒ずつ並べられたチョコ。
どれも綺麗で
どれもおいしそう。
店員さんに勧められたものを手に取ってみた。
「贈り物ですか?」
「はい」
「大切な方に?」
そう聞かれて、何と答えればいいか分からなかった。
「……分かりません」
私は箱を棚に戻して、何も買わずに売り場を出た。
◆第66話「ビターチョコ」、明日20時に更新します




