第64話「一月六日二十二時、十八年」
Ao no Yugasumiを出ると、冷たい風が頬に当たった。
店の中で熱くなった頭の中にはまだ、篠原さんの言葉が残ってる。
――もう一度、告白するの
隣を歩く玲さんは何度も鼻をすすっていた。
ハンカチで目元を押さえているけど、全然涙は止まってない。
「今日も綺麗だったね」
玲さんが前を向いたまま言った。
「……篠原さんですか?」
「うん。 綺麗で、仕事もできて、係長と同い年には見えなくて、そのうえ十八年でしょ」
街路樹のイルミネーションが、濡れた歩道に映っている。
「反則だよね」
玲さんは泣いているのに、それでも笑った。
「十八年も好きだった人に、もう一度告白しますって言われてさ。 こっちは、好きになってまだ二年目だよ。 そんなの勝てるわけないじゃん」
玲さんでも勝てないと思うんだ……。
そのことが、篠原さんの十八年と同じくらい、怖く感じた。
「玲さんは……、どうするんですか?」
「何が?」
「係長のことです」
玲さんは歩きながら、ハンカチをバッグの中に押し込んだ。
「私は諦めないよ」
迷う間もなかった。
「勝てる気はしないけど、諦める理由にもならないし」
「でももし、係長が篠原さんを……」
「そのときはそのとき」
玲さんは鼻をすすった。
赤くなった目のまま、玲さんは歩き続ける。
「私はもう、好きって言っちゃったからね。 今さら好きじゃないふりなんてできないよ」
……。
私は、篠原さんの前で言えなかった。
係長にも伝えてない。
好きじゃないふりをすることは、まだ続けられてしまう。
「しおりちゃんは?」
足が止まりそうになった。
「……何がですか?」
「どうするの?」
「分かりません……」
赤信号で、玲さんが足を止めた。
「じゃあね、しおりちゃん」
「はい。 おやすみなさい」
信号が青に変わるとすぐに玲さんは小さく手を振って、私とは反対の道に歩いていった。
◆
部屋に帰って、コートを脱いだ。
灯りをつける気になれなくて、真っ暗のままベッドに座った。
カーテンの隙間から入る街灯の光が、床に細長く伸びている。
篠原さんは、笑っていたころの係長を知っている。
私は知らない。
私が知っているのは、あまり笑わなくなったあとの係長だ。
篠原さんは十五年間、返事を待った。
係長はその手紙を十五年間、開けずに持った。
十五年。
私が小学校二年生から、中学、高校を出て、大学を卒業するまで。
私と係長の間にあるのは、まだ一年にも満たない時間。
もし係長がイタリアに行ってしまったら……
私が毎朝、係長のいる席を探すこともなくなる。
コーヒーを止めることも、一緒に昼食を食べることも、残業中に呼ばれることもなくなる。
一年後、係長は、私のことを覚えているだろうか。
徹夜で一緒にスライドを作った新人。
コーヒーの回数を数えていた面倒くさい後輩。
そのくらいには覚えていてくれるかもしれない。
でも三年後は?
十八年後は?
篠原さんみたいに、顔を見た瞬間に立ち止まってもらえるだろうか。
「行かないで……」
自分の声に驚いた。
誰もいない部屋の中。
イタリアに行かないで。
篠原さんのところに行かないで。
私から離れてほしくない。
係長の隣にいさせてほしい。
「係長……、好きです」
また。
あんなに言えなかった言葉が、誰もいないこの部屋では簡単に出てくる。
七夕の短冊も、シマエナガも。
あの人が私にくれたものばかり浮かんでくる。
いなくなってほしくない。
顔を伏せると涙が膝の上に落ちた。
篠原さんの時間には勝てない。
玲さんみたいに、何度も伝える勇気もない。
それでも、係長がいなくなることは嫌だ。
声を抑えようとしても、次から次へと涙が出てくる。
私はそのままベッドに横になって、枕に顔を押しつけた。
「行かないで……」
◆
一月七日、火曜日。
朝、七時半に出社した。
会社のトイレで鏡を見たら、目元の腫れがひどくなってた。
冷たい水で濡らしたハンカチを何度も当ててファンデーションを重ねても、昨夜ずっと泣いていた顔は隠せてない。
八時半を過ぎると、フロアに人が増えてきた。
「おはよう、しおりちゃん」
玲さん。
目元は赤くて、よく見れば少し腫れてる。
それでもコートを脱ぐ動作も、挨拶する声も、いつもと変わらなかった。
「おはようございます」
「しおりちゃん、ひどい顔だね」
「玲さんに言われたくありません」
玲さんは、へへへと笑ってノートパソコンを立ち上げた。
隣の人と朝の挨拶をして、何事もなかったように仕事を始める。
――勝てるわけないじゃん。 でも、諦める理由にもならないし。
昨夜あれほど泣いたのに、私はまだ、何も変わってない。
◆
九時の少し前になって、廊下から足音が聞こえてきた。
係長がノートパソコンと書類を持ってこのフロアに戻ってきた。
顔を見た瞬間、身体が固まった。
昨日までと同じ紺色のスーツで、いつもの歩幅で歩いてくる。
でも、もう昨日までと同じ係長には見えなかった。
この人が十八年前、好きな人の前で砂利を蹴りながら告白した。
その人から届いた手紙を、十五年も開けられずに持っている。
「おはようございます、馬平係長っ!」
玲さんの声が、フロアに響いた。
周囲の人たちが驚いて振り返る。
係長も足を止めた。
「ああ、おはよう」
玲さんの顔を見て、眉を寄せる。
「また泣いていたのか」
玲さんが笑った。
「しおりちゃんには言わないんですか?」
名前を出されて、びくりとした。
「知っている」
私は慌てて顔を伏せた。
「でもお前のほうがひどい顔をしている」
「あー、女の子にひどい顔とか言ったー」
「そういう意味じゃない」
近くにいた人が吹き出した。
係長が困った顔をして、玲さんも笑う。
何人かの笑い声が続いた。
私はその様子を、ここから見てた。
玲さんが笑ってる。
昨夜、あんなに泣いていたのに。
「十八年なんて勝てるわけない」と言ってたのに。
それでも、自分から係長に声をかけた。
私は係長の顔さえ見れなかったのに。
……かなわないよ
篠原さんにも。
玲さんにも。
私だけ、まだ何も失ってない。
失うところまで、進めない。
◆第65話「私には何がある」、明日20時に更新します




