第63話「一月六日二十一時、もう一度、告白する」
「そのあとね」
篠原さんは、グラスに残ったワインを見ながら続けた。
「馬平君、しばらく大学に来なくなったの」
三日間。
係長は実家の部屋から出てこなかった。
篠原さんの前では、笑っていたのに。
「大学に戻ってきたときも、困っている人を助けるところは変わってなかったわ。 話しかければ答えてくれるし、頼まれれば断らない。 でも自分から誰かのところに行くことはなくなったの」
篠原さんの指がグラスの脚から離れた。
「飲み会にも来なくなったわ。 誰かの相談は何時間でも聞くのに、自分の話は何もしてくれなくなった」
私の知っている係長だ。
誰かのためなら何時間でも動く。
でも自分のことになると、「問題ない」で終わらせる。
……あれは昔からじゃなかったんだ。
「そのとき初めて分かったの。 私、とんでもないことを言ったんだなって」
篠原さんは口元を歪めた。
「だったら謝ればよかった。 あれは嘘だったって、本当は私も大好きだったって、すぐに言えばよかったのに……。 変わってしまった馬平君の顔を見るのが怖くて、私のほうから避けてしまったの」
「篠原さん」
「最低でしょ……」
何も言えなかった。
係長をそんなにも傷つけた人なのに。
「そのまま卒業して、私は仕事に逃げたわ。 忙しくしていれば忘れられると思ったの。 朝から夜まで働いて、休みの日にも予定を入れた」
「それで、忘れられたんですか?」
玲さんが尋ねる。
「全然。 誰と会っても比べちゃうし、仕事がうまくいった日なんて、馬平君ならなんて褒めてくれるかなって考えた。 ……忘れるどころじゃなかったわ」
玲さんは何も言わずに、ジントニックのグラスを握ってる。
「卒業して三年経っても、あの夜に言えなかった言葉が消えなかった。 だから、手紙にしたの」
係長の引き出しの奥にあった白い封筒が頭に浮かんだ。
十五年間、開けられていない手紙。
篠原さんはテーブルの上に置いていた手を、ぎゅっと握った。
「あの夜のことを謝って、本当は私も大好きでしたって書いた。 三年も経ってから、今さら何を言ってるんだろうって思ったけど、それでも書かずにはいられなかったの」
「返事は?」
玲さんが聞いた。
「来なかったわ。 彼に届いたかどうかも分からない。 読まずにそのまま捨てられたのかもしれないわ」
「あの……」
言っていいのか分からない。
あれは係長のだ。
でも。
「係長は捨てていません」
篠原さんの動きが止まった。
「まだ持っています」
「本当に?」
「はい。 でも……」
喉が詰まった。
「封は切られていません」
篠原さんの手が、ゆっくりとグラスの脚を挟む。
「開けてないの?」
「はい」
「私が手紙を出したのは十五年前よ」
「……はい」
「十五年間、開けずに持っていたの?」
私は頷いた。
「どうしてだろ……」
玲さんが苦しそうな声を出した。
「そうなんだ……」
篠原さんは俯いたまま、グラスの下にできた水の輪を見ていた。
◆
「三年前にね、偶然再会したの」
しばらくして、篠原さんが顔を上げた。
「新しくオープンするバーの設計でね。 アトリエ・フォルムさんのエントランスで、向こうから歩いてきた人を見て、彼だとすぐに分かったわ」
「十八年も経っていたのにですか?」
「うん。 一目で分かった」
係長も篠原さんに気づいて、その場で足を止めたという。
「向こうも、私と同じような顔をしてたと思う。 しばらく何も言えなくて、やっと出てきたのが、久しぶり、だった。 運命だと思ったの。 手紙には返事をもらえなかった。 でも、もう一度出会えた。 だったら今度は自分の口で伝えようって、そう決めたの。 再会した馬平君は、もう昔の彼じゃなくなってたんだけどね」
篠原さんが私たちを見た。
「でもあなたたちと出会ってからね、彼、少し変わったと思う」
玲さんが顔を上げる。
「笑うことが増えたわ。 昔の馬平君に戻ったわけじゃないけど、少しずつ昔の顔が出てきてる」
お母さんの声が、また聞こえた。
――壁の向こうにも、あなたたちの声は届いてるみたいだから
「だからあなた達には感謝してる。 でも譲るつもりはないわ」
玲さんの指が、コースターの端を強く押した。
「私は今も、馬平君を愛してる。 出会ったときから、今もずっと」
十八年。
「手紙を開いてもらえなかったなら、今度は私が直接言うわ」
篠原さんは、まっすぐに私たちを見た。
「もう一度、告白するの」
「ずるいです」
玲さんの声が震えた。
「そんな話を全部聞かせてから言うなんて、ずるいです」
篠原さんは返さない。
玲さんの頬に涙が流れた。
私は何も言えなかった。
このテーブルでまだ一度も「好き」って言えてないのは、私だけ。
でも私も、係長を失うなんて嫌だ。
◆第64話「十八年」、明日20時に更新します




