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第62話「一月六日二十時、だよな」


篠原さんは、ワイングラスの縁から指を離した。


 「彼とは、大学の同級生なの。 同じ学部で、同じ学科。 三年生の終わりには、同じゼミに入ったの」


 「建築学科ですか?」


玲さんが尋ねる。


 「そうよ。 入学してすぐに知り合ったんだけどね、あのころの馬平君は、すごく人懐っこかったのよ」


  ――人懐っこかった


お母さんも、同じ言葉を使ってた。


  ――昔から周りに人がいる子だったの。

  ――友達も多かったし、人懐っこかったし。


大学のころは、帰省するたびに誰かを連れてきて、家の中がいつも賑やかだった。

篠原さんが知っているのは、きっとそのころの係長。


 「誰にでも自分から話しかけるし、困っている人を見つけるのも早かった。 一年生の梅雨だったかな。 校舎の玄関で傘がなくて困っていた女の子に、自分の傘を貸したことがあるの」


 「知り合いですか?」


 「同じ学科の子。 自分はびしょ濡れになりながら、走って家まで帰ったの」


 「係長らしいですね……」


私が言うと、篠原さんが笑った。


 「翌日、熱を出してるのに大学に来たのよ。 休めば?って言ったら、自分が熱を出したのを知れば、あの子が困るだろって。 まだそんなに親しくなかった子よ」


 「きっと今もやります、そういうこと」


玲さんが呆れたように言った。


 「そこは変わっていないのね」


篠原さんは楽しそうだった。


 「ゼミの飲み会でも、輪に入れない子がいると、必ず馬平君が隣に行くの。 研究室に最後まで残っているのも、自分の課題が終わらないからじゃなくて、誰かの相談に付き合っているから。 だから、みんな馬平君が好きだった」


ごくりと、玲さんが唾を飲む音が聞こえた。


 「私も、すぐに好きになったの」


篠原さんは、さらりと言った。


玲さんがジントニックから手を離す。


 「いつごろですか?」


 「いつからだったんだろう。 気づいたときにはもう、講義室に入るたびに馬平君を探してたわ。 近くの席が空いていると嬉しかったし、他の女の子と楽しそうに話していると腹が立った」


私にも覚えがありすぎる。


 「でも、私にはね、麻里っていう親友がいたの」


篠原さんの指が、グラスの脚を挟んだ。


 「麻里も馬平君のことが好きだった。 二年生のときに、打ち明けられたの」


 「篠原さんは、自分も好きだって言わなかったんですか?」


 「言えなかった」


答えは早かった。


 「びっくりして、応援するって言ってしまったの。 そしたら麻里がすごく嬉しそうに笑ったから、もう訂正できなくなってしまってね」


自分の気持ちを隠して「応援する」と言ってしまった瞬間から、篠原さんは麻里さんの味方にならなければならなかった。


 「三年生の終わりにね、三人とも同じゼミに入ったの。 麻里はすごく喜んでた。 私も嬉しかったわ。 でも、嬉しいって言えなかった。 馬平君の近くにいられることを喜んだら、麻里に全部知られそうだったからね」


 「係長は、麻里さんの気持ちに気づいていたんですか?」


玲さんが尋ねた。


 「たぶん、全然」


 「やっぱり……」


篠原さんが吹き出した。


 「そこは変わってないのね」


 「変わってません」


玲さんは真顔だった。

私も、笑えたのはそこまでだった。


 「四年生の夏に、ゼミの合宿があったの。 海の近くにある、古い研修施設。 周りに何もなくて、夜になると波の音がよく聞こえるようなところだった」


篠原さんはグラスから手を離して、テーブルの上で両手を重ねた。


 「みんなで飲んだあと、部屋に戻ろうとしたら、馬平君に呼び止められたの。 少し歩かないかって」


膝の上の手に力が入った。


 「外へ出たらね、星がすごく綺麗だったの。 でも馬平君は、一度も空を見なかった。 ずっと足元を見ながら、砂利を蹴って歩いてた」


今の係長なら、緊張していても顔には出さない。


 「海が見えるところまで来たときにね、彼、急に立ち止まったの」


篠原さんも、そこで言葉を止めた。


 「篠原。 俺、お前のことが好きだ。 そう言ってくれたんだ」


あの係長が。

好きだと言った。


 「そしてね、付き合ってほしいって言われたの」


ソーダ水の泡が、グラスの内側を上っていく。


 「ものすごく嬉しかったわ」


篠原さんが言った。


 「ずっと好きだった人が、私を好きだと言ってくれたんだもの。 たぶん、あの瞬間が、人生でいちばん幸せな瞬間だった」


 「だったら、どうして……」


玲さんが言いかけて、口を閉じた。


 「麻里の顔が浮かんだの」


篠原さんは、テーブルの上の自分の手を見た。


 「それで、嬉しい、好き、怖い、どうしようって、いっぺんに頭の中に入ってきてね……」


重ねた指に、力が入る。


 「気づいたら、言ってた」


次の言葉は聞きたくなかった。

それでも、耳を塞ぐことはできなかった。


 「あなたのことは、男性として見られませんって」


なんて言葉……。


 「麻里さんには、話したんですか?」


 「話してない。 告白されたことも、断ったことも。 それから少しずつ会わなくなって、もう十五年くらいは連絡も取ってないわ」


好きな人を断ったのに、麻里さんまで……。


 「どうしてあんなことを言ったんだろうって、今でも思う。 麻里のこともあった。 自信もなかったし、関係が壊れるのも怖かった。 でも、結局は全部、言い訳なのよね」


篠原さんはワイングラスに手を伸ばしたものの、飲まずに戻した。


 「ありがとう。 私も大好きです。 それだけでよかったのにね」


私は、聞かずにはいられなかった。


 「係長は……」


声がうまく出ない。


 「係長は、なんて言ったんですか?」


篠原さんが私を見る。


 「だよなって。 そう言って、笑ったの」


白いコートを着たお母さんの声が、急に蘇った。


  ――ある日、一人で帰ってきたの。

    真っ青な顔して

    三日間、部屋から出てこなかった。


お母さんが見たのは、この夜の続きだったんだ。


篠原さんの前では笑った係長が、そのあと一人で実家に帰った。

何があったのかと聞かれても、「何でもない」と答えて、部屋から出てこなかった。


  ――辛いとも、苦しいとも、助けてとも。


あの日聞いた、お母さんの言葉。


係長が最後に自分の気持ちを口にした夜の話を、私は今、聞いていた。





◆第63話「もう一度、告白する」、明日20時に更新します

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