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第61話「一月六日、馬平君のこと、好きでしょ」


一月六日、月曜日。

新年最初の出勤日。


エレベーターを降りて、設計一課のガラス戸を開けると、


あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。


と、フロアのあちこちで同じ挨拶が飛び交っていた。


今日の午前中、係長がいないことは分かっていた。

森中バイオ製薬に打ち合わせに行っている。

だから係長の席を見ても仕方がない。


それでも見てしまう。

大きなテーブルの一角に、係長のいつものノートパソコンがない。


十二月の末以来、八日間も会っていない。


休みの間も、係長に言われたことを何度も考えた。

玲さんに、次に言われたら何と答えればいいか。


私はあのあともカフェに行った。

係長が座っていた席を見ながら、紅茶が冷めるまで考えた。

それでも、係長に言える答えは見つからなかった。


玲さんを選んでほしくない。

でも断ってほしいとも、私からは言えない。


そんなことを思っていたら、後ろから肩を叩かれた。


 「あけましておめでと、しおりちゃん」


振り向くと、茶色のコートを着た玲さんが立っていた。


 「あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします」


 「こちらこそ」


玲さんはコートを脱ぎながら、係長がいつも使っている場所を見た。


 「まだ帰ってきてないんだね」


 「午前中は、森中バイオです」


 「イタリアの話かな」


 「たぶん」


玲さんが持っていたバッグを椅子に置いた。


 「本当に行くのかな」


 「……分かりません」


 「何か聞かなかった?」


 「何も聞いてません」


 「そっか」


私はノートパソコンを立ち上げた。


◆


  チンっ


午後二時を回ったころ、エレベーターの到着音が鳴った。


開いた扉から、係長が降りてきた。


八日ぶりに見る姿。

紺色のスーツに黒い鞄。

コートを腕に掛けて、何かの資料を抱えてる。


  いた。


勝手に顔が緩む。


  係長っ


そう叫びそうになった。

でもその後ろから降りてきた人を見て、声が止まった。


篠原美咲さん。


 「まさかエントランスで会うとは思わなかったわね」


 「俺も今戻ったところだ」


 「新年早々、運がいいわ」


篠原さんが笑っている。


午後の打ち合わせに来た篠原さんと、会社に戻ってきた係長が、下で偶然会っただけ。


分かってる。


篠原さんはベージュのコートを腕に掛け、黒いファイルを抱えている。

鞄からスマートフォンを取り出そうとした拍子に、そのファイルが、はらりと落ちた。

それを係長が、床に落ちる前にキャッチした。


 「あら、ありがとう、馬平君」


係長はそのファイルを返さずに、自分の資料の上に重ねた。


 「相変わらずね」


篠原さんは楽しそうに笑っている。


斜め向かいから、パキっと乾いた音がした。

玲さんのシャープペンシルの芯が折れた。


 「……玲さん」


 「ちょっと力入れすぎただけ」


玲さんはカチカチと芯を出し直したけど、視線は二人を追ったまま。


係長が私を見た。


 「風宮、お疲れ」


 「お、お疲れさまです。 おかえりなさい」


 「ああ」


八日ぶりに交わせた言葉はそれだけだったけど、

自分の顔が急に赤くなったのがわかった。


篠原さんも一瞬、私のことを見た気がした。


 「よろしくね、馬平君」


 「ああ。 そこの打合せスペースを押さえている」


二人は課長室へ挨拶に行ってから、そのまま奥の打合せスペースに入っていった。


ガラスの向こうで、篠原さんが資料を広げた。

係長は自分の鞄を床に置いて、持っていた篠原さんの黒いファイルをテーブルの上に置いた。


 「しおりちゃん」


 「はい」


 「二人で来たんじゃないよね」


 「下で会ったって言ってました」


 「聞こえてた」


 「……そうですよね」


玲さんは画面へ向き直った。


 「分かってるんだけどね」


その一言に何て返せばいいのか分からなかった。


◆


一時間ほどして、打合せスペースの扉が開いた。


篠原さんが先に出てきて、

その後ろから係長が続いた。


係長は自分の席に資料を置きに来た途中で、私に気づいた。


 「風宮」


 「はい」


篠原さんも足を止めた。


 「休みの間、考えてくれたか」


心臓がどくんと大きく鳴った。

忘れてなかった。


玲さんが顔を上げる。

篠原さんも、私を見てる。


 「あの……」


 玲さんを選んでほしくありません。


そんなこと言えるわけがない。


 「まだ、分かりません」


 「そうか」


係長は手にしていた資料を置くと、課長室に入っていった。


玲さんの視線が私に刺さってる。

怖くてそっちは見れなかった。


篠原さんは、私と玲さんを交互に見ていた。

そしてこっちに歩いてくる。


 「二人とも、今晩、空いてる?」


 「はい」


玲さんがすぐに答えた。


 「二十時に、Ao no Yugasumiへ来てくれない?」


 「係長も来るんですか?」


 「呼んでないわ」


玲さんの眉が寄った。


 「じゃあ、どうして私たちを?」


 「三人で話したいの」


篠原さんは私を見た。

さっきの会話を聞いていたはず。


私が係長に何を聞かれたのかまでは分からなくても、何かを隠していることには気づいたかもしれない。


 「馬平君のことなんだけど」


篠原さんが、ぽつりと言った。

そんなの、断れるはずがない。


◆


二十時。


Ao no Yugasumiの扉を開けると、暖かい空気が流れてきた。

グラスの触れ合う音が聞こえる。

店内は賑わっていて、入口近くの席では、スーツ姿の男性がワインボトルを開けている。


篠原さんは、奥のテーブルにいた。

私たちに気づくと、ワイングラスから手を離して、軽く手を上げた。


 「来てくれてありがとう」


玲さんが先に座って、私も隣の椅子に座った。


係長はいない。


玲さんはジントニックを、私はソーダ水を注文した。

その後しばらく三人とも黙っていた。


篠原さんは急いで話そうとはしなかった。

玲さんはコースターの端を爪で押してる。


私たちの飲み物が運ばれてくると、

篠原さんがワインを一口飲んで、グラスを置いた。


 「先に聞いておきたいことがあるの」


玲さんの指が止まった。


 「あなたたち」


篠原さんは、私たちの顔を順番に見る。


 「馬平君のこと、好きでしょ」


 「はい」


玲さんははっきり言った。

私は、何も言えなかった。


篠原さんの視線がこちらに移る。


 「風宮さんは?」


口を開こうとしたけど、息が吸えない。


篠原さんはグラスの脚に指を添えて、私の顔を見たまま、わずかに笑った。


 「そう」


今のできっと知られてしまった。


 「じゃあ、話すわね」


篠原さんはグラスの淵を指で撫でた。


 「馬平君が、まだよく笑っていたころのこと」




◆第62話「だよな」、明日20時に更新します

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